万年寝太郎徒然日記

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映画女優・美空ひばり

6月24日は平成元年のこの日に亡くなった美空ひばりの命日で、今年は美空ひばりの生誕70周年にあたります。
昭和を代表する大歌手であったことは今更言うまでもありませんが、映画の世界でも大きな足跡を遺しています。

横浜の魚屋の子として生まれ、幼い頃から類稀な歌唱力の持ち主だったという美空ひばりは、終戦直後の昭和20年、母・喜美枝が私財を投じて設立した「美空楽団」で「美空和枝」の名前で初舞台を踏み、地方巡業の日々を経て、昭和23年、横浜国際劇場と準専属契約を結んだ際、「美空ひばり」という芸名を名乗るようになります。この横浜国際劇場の支配人だった福島通人が彼女の才能を認め、マネージャーとなった後、舞台の仕事を取りながら、映画を企画・成功させることになります。
昭和24年、『喉自慢狂時代』(斎藤寅次郎監督)でブギウギを歌う少女役で映画初出演。元々「ブギの女王」と呼ばれた笠置シヅ子の歌真似で有名になったという経緯があり、その意味では「適役」だったのかもしれません。この年8月には、松竹映画の『踊る龍宮城』(佐々木康監督)で早くも映画初主演。歌と踊りを取り入れた「オペレッタ」調の作品で、この映画の主題歌「河童ブギウギ」で正式にレコードデビューを果たします。この後、『悲しき口笛』(家城巳代治監督・昭和24年)『東京キッド』(斎藤寅次郎監督・昭和25年)『あの丘越えて』(瑞穂春海監督・昭和26年)『リンゴ園の少女』(島耕二監督・昭和27年)など、歌手活動と並行して映画にも次々と主演。映画は勿論、主題歌としてレコーディングされた曲もそれぞれ大ヒットを記録します。

昭和30年代に入ると、美空ひばりの映画での活動は更に活発なものとなります。昭和30年に東宝で公開された『ジャンケン娘』(杉江敏男監督)は、ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「3人娘」の競演が話題を呼んだミュージカル・コメディー。当時は黒澤映画や『ゴジラ』が注目を集めていた東宝ですが、その前身であるP.C.Lの第1回作品は、『音楽喜劇・ほろよい人生』(昭和8年)というミュージカル・コメディー映画。節目ごとにミュージカル映画を作っていた東宝の伝統やカラーを生かしながら、3人の魅力を引き出した映画となりました。翌31年には『ロマンス娘』、更に翌年には「東宝スコープ」第1回作品でもある『大当り三色娘』が公開され、それから7年後の昭和39年には『ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば』(いずれも杉江敏男監督)と、計4本の東宝による「3人娘」映画が作られました。

デビューからおよそ10年経った昭和33年、美空ひばりは東映と映画出演の専属契約を結びます。この昭和33年という年は、映画館の年間観客動員数が11億3千万人を記録し、大衆娯楽としての映画の人気がピークに達した年でした。東映と契約したひばりは、ここでも『ひばり捕物帳』シリーズ(昭和33年〜35年)、『べらんめえ芸者』シリーズ(昭和34年〜38年)、江利チエミと競演した『ひばり・チエミの弥次喜多道中記』(昭和37年)『ひばり・チエミのおしどり千両傘』(昭和38年)など、多くのシリーズものや主演作品の他、オールスター・キャストの時代劇にも出演しました。
美空ひばりの映画界での隠れた「功績」として、相手役を務めた新人俳優が世間に認められ、大スターとなるというジンクスを生んだことがあります。『ひよどり草紙』(昭和29年)でひばりの相手役として歌舞伎界からスカウトされた中村錦之助(萬屋錦之介)が、後に東映時代劇の大スターとなった他、市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、それに高倉健も新人時代に美空ひばりと競演し、その後大スターとなっています。

初期の美空ひばりの映画は、ただ彼女の人気に便乗して作られたものではなく、映画としてきちんと作られ、同時に時代が織り込まれています。「天才少女」ぶりに目を見張る一方で、戦後間もない頃の映画の面白さも知った人もいたそうです。
歌手としてだけでなく、映画女優としても優れた才能を発揮し、多くの作品を残した美空ひばりは、やはり「天才」であり、偉大な人だったと言えるでしょう。

クレージー映画時代

日本のお笑い、そしてテレビのバラエティー番組の歴史を語る上で、クレージーキャッツの存在は決して欠かすことは出来ません。
そして、彼らの存在をより引き立てたものとして、昭和30年代から40年代前半にかけての日本映画の存在を抜きにすることは出来ません。

クレージーキャッツは、昭和30年、それまで進駐軍のキャンプ地などでドラム奏者として活躍していたハナ肇が結成したコミックバンド「キューバンキャッツ」がその前身で、演奏中のアドリブが受けて、観客から「You are crazy!」と喝采を浴びたことから、その年の秋に「クレージーキャッツ」と改名します。昭和31年には、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」のトロンボーン奏者だった谷啓が加入。翌年には、同じくシティ・スリッカーズでギターとボーカルと務めていた植木等が加わり、これに犬塚弘、桜井センリ、石橋エータロー、安田伸と最終的なメンバーが形成されました。
昭和34年から放送された風刺バラエティー番組「おとなの漫画」(フジテレビ)でお茶の間にその名を知られるようになったクレージーキャッツは、昭和36年から放送された「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)で人気が沸騰。同じ年、青島幸男作詞、萩原哲晶作曲の「スーダラ節」「ハイそれまでよ」が大ヒットしたことも拍車をかけました。この人気に映画界も目を付けて、昭和37年3月に大映で『スーダラ節・わかっちゃいるけどやめられねえ』(弓削太郎監督)、4月には松竹で『クレージーの花嫁と七人の仲間』(番匠義彰監督)が公開されますが、クレージーの人気に便乗しただけで作られたためか、あまり評判にはなりませんでした。

しかし、同じ昭和37年7月に東宝で公開された『ニッポン無責任時代』(古澤憲吾監督)によって、クレージーキャッツは一気に映画界でもその地位を確立します。植木等演じる主人公・平均(たいら・ひとし)が、持ち前の無責任ぶりを駆使していつの間にかスイスイと出世する姿を描いたこの作品は、テレビやレコードの世界で形成された「植木等=無責任男」のイメージを映像化することに成功し、時代の空気とも合致して大ヒットを記録します。この年の暮れには、続編とも言える『ニッポン無責任野郎』(古澤憲吾監督)が公開され、ここでも植木演じる無責任男・源等(みなもと・ひとし)が活躍します。
「無責任男」2作品のヒットに気を良くした東宝は、昭和38年、植木等主演、古澤憲吾監督で『日本一の色男』を制作。以後、『日本一のホラ吹き男』(昭和39年)『日本一のゴマスリ男』(昭和40年)と続き、昭和47年公開の『日本一のショック男』まで、「日本一シリーズ」として全10作が作られました。

植木等主演の映画が続々とヒットした勢いを受けて、東宝は渡辺プロダクション社長・渡辺晋との共同で、クレージーキャッツのメンバーがそれぞれの個性を生かし、一致団結して活躍するグループ主演作品の製作を企画します。その第1作『クレージー作戦・先手必勝』は昭和38年3月に公開。10月には「無責任」イメージを逆手に取って企画・製作された『クレージー作戦・くたばれ!無責任』が公開されます。クレージー総出演の映画は、この後も『香港クレージー作戦』(昭和38年)、ラスベガスでロケを行なった『クレージー黄金作戦』(昭和42年)、『クレージーメキシコ大作戦』(昭和43年)など、海外ロケを行なった作品が作られた他、グループ結成10周年を記念して作られた『大冒険』(昭和40年)は、刑事のハナ、週刊誌記者の植木などのクレージーのメンバーが国際的な偽札偽造団を相手に活躍するというストーリーで、コメディとアクション、そして円谷英二特技監督による特撮が一体となって、スケールの大きな作品となっています。
また、『ホラ吹き太閤記』(古澤憲吾監督)、『花のお江戸の無責任』(山本嘉次郎監督、いずれも昭和39年)、『クレージーの無責任清水港』(坪島孝監督・昭和41年)などの時代劇映画も作られ、ここでもメンバーそれぞれの個性が見事に生かされていました。

昭和40年代後半以降は、クレージーキャッツの全体での活動が減ったことでグループ主演映画が作られなくなった代わりに、ハナ・植木・谷といったメンバー個人での活動が多くなり、それぞれ映画やテレビでの役者としての活躍が認められるようになりました。昭和63年に公開された市川準監督の『会社物語』は、クレージーキャッツのメンバーが総出演した久々の、そして最後の映画となりましたが、これは主演のハナ肇が市川監督の要望に応えるためにスケジュール調整に奔走した結果、メンバー全員の出演が実現したそうです。
ハナ肇はこれから5年後の平成5年に亡くなり、今年3月27日には植木等も80歳で亡くなりました。
テレビの世界だけでなく、映画の世界でも一時代を築いたクレージーキャッツのメンバーが段々と減って行くことに寂しさを感じます。
昨年、30年ぶりにリメイクされた『犬神家の一族』。
市川崑監督が自らの代表作をリメイクした上、主人公・金田一耕助をこれまた30年前と同じく石坂浩二が演じたことでも話題を集めました。
リメイク版については賛否の声があったそうですが、かつて市川崑監督によって合わせて5本作られた「金田一」シリーズを懐かしく思い出した人も多かったことでしょう。

リメイク版『犬神家の一族』公開に当たって、市川・石坂コンビによる「金田一」シリーズを当ブログでも紹介しましたが、改めてこのシリーズについて振り返って行くと、先ず第1作となった『犬神家の一族』(昭和51年)は、角川春樹事務所が最初に手掛けた、所謂「角川映画」第一作にあたり、金田一耕助が原作通り着物姿で登場した最初の映像作品でもありました。以後、『悪魔の手毬唄』『獄門島』(昭和52年)『女王蜂』(昭和53年)『病院坂の首縊りの家』(昭和54年)の合わせて5本が制作、東宝系で公開されました。
因みに、原作者・横溝正史が執筆したのは映画化された順とは異なり、終戦直後の昭和21年9月下旬から始まる『獄門島』が最も古く、以後『犬神家の一族』『女王蜂』『悪魔の手毬唄』、そして「金田一耕助最後の事件」となった『病院坂の首縊りの家』という順になります。

「石坂金田一」シリーズの特徴をいくつか挙げると、先ず市川崑監督による映像の美しさ。映像が綺麗である分、例えば『犬神家の一族』での代表的シーンである「2本足」や、実際に殺人が行なわれるシーンや「生首」などの凄惨で猟奇的な描写がより際立っていたと言えます。それと同時に、金田一が各作品の舞台となる土地を歩くシーンでは、今日では失われつつある日本の「原風景」が見事に映し出されていて、今見直すとノスタルジックな気分に浸ることも出来ます。
次に、大物女優が毎回犯人役を演じていること。『犬神家の一族』では高峰三枝子、『悪魔の手毬唄』では岸恵子、『獄門島』では司葉子、『女王蜂』では再び岸恵子、『病院坂の首縊りの家』では佐久間良子と、日本映画を代表する女優たちがそれぞれ犯人役となっていて、このうち『獄門島』では原作と犯人を変えている辺りに、市川監督のこだわりのようなものも見て取れます。

出演者が豪華、多彩でしかも常連俳優が多いこともシリーズの特徴です。『犬神家の一族』では犬神佐兵衛を三國連太郎が演じ、オープニングの後の「犬神佐兵衛一代記」では写真で彼の生涯を「演じて」いる他、島田陽子、あおい輝彦、『悪魔の手毬唄』には若山富三郎、辰巳柳太郎、『獄門島』では佐分利信、大原麗子、太地喜和子、浅野ゆう子、『女王蜂』では仲代達矢、中井貴恵、沖雅也、『病院坂の首縊りの家』では桜田淳子に戦前の大女優だった入江たか子など、錚々たる俳優陣が登場しています。そして、5作品全てに登場しているのが、大滝秀治、加藤武、草笛光子、三木のり平、小林昭二といった人たちで、特に加藤武は、『獄門島』から「よし、わかった!」の一言がトレードマークの等々力(とどろき)警部を演じ、シリーズの名物キャラとなりました。
市川監督は、『悪魔の手毬唄』からは夫人である和田夏十と共同で、推理作家・アガサ=クリスティーをもじった「久里子亭」(くりすてい)のペンネームで脚本を執筆しています。このペンネームは以前から使っていたそうですが、ミステリー好きの一面がここからも伺えます。

このゴールデンウィークに、NHK−BS2で「金田一」シリーズ全5作が放映されました。
原作者である横溝正史は、第1作の『犬神家の一族』と最終作の『病院坂の首縊りの家』に特別出演していますが、「石坂金田一」については「ちょっと男前過ぎる」と評したといいます。
しかし、飄々とした雰囲気や事件の謎解きを語る場面には、石坂浩二ならではの味わいが色濃く出ていて、金田一耕助というキャラクターをスクリーンだけでなく一般的にも定着させたことでも、市川崑・石坂浩二コンビによる「金田一」シリーズの存在は大きかったと言えるでしょう。

クロサワの影響力

東京・新宿にある映画館「テアトル新宿」で、来月6月2日から22日にかけて、「黒澤明の軌跡」と題したプログラムが組まれています。
デビュー作『姿三四郎』(昭和18年)から、『七人の侍』(昭和29年)『用心棒』(昭和36年)『影武者』(昭和55年)、それに最後の作品となった『まあだだよ』まで、全28作に及ぶ黒澤作品が一挙に上映される他、期間中には黒澤監督ゆかりの人々によるトークイベントも予定されているそうです。

日本の映画監督の中で、黒澤明ほど世界的知名度を誇り、また海外の映画界にも多大な影響力を与えた監督はいないでしょう。
黒澤明が「世界のクロサワ」として認められるきっかけとなった作品は、昭和25年に公開された『羅生門』。東宝専属だった黒澤が大映で撮ったこの作品は、公開当時は日本での評判は芳しくなく、寧ろ評論家からも観客からも難解な作品として敬遠されていたそうです。しかし、その年のベネチア国際映画祭でグランプリを受賞、そして2年後にはアカデミー賞で「最優秀外国語映画賞」を受賞し、世界で認められたことで漸く日本でも『羅生門』は認められました。ベネチアでグランプリを受賞した時、『羅生門』を配給した大映社長・永田雅一は、新聞記者たちを前に「グランプリって、どのくらい凄いんだ?」と聞き直したという有名な逸話が残されています。

『羅生門』で世界的名声を獲得した黒澤は、その後『生きる』(昭和27年)でベルリン映画祭銀熊賞、『七人の侍』でベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなどして、その地位を高めて行きます。そして、彼の作品も海外の映画監督や作品に影響を与え、そこからまた映画史上に残る名作を生み出して行くことになりました。『七人の侍』は、ジョン=スタージェス監督、ユル=ブリンナー、スティーブ=マックイーン出演の『荒野の七人』、『用心棒』は、デルジオ=レオーネ監督、クリント=イーストウッド主演の『荒野の用心棒』と、ウォルター=ヒル監督、ブルース=ウィルス主演の『ラストマン・スタンディング』にそれぞれリメイクされています。
戦国時代を舞台に、敗軍の侍大将と埋蔵金を狙う2人の百姓が、姫君と財宝を守って敵中を強行突破するアクション活劇『隠し砦の三悪人』(昭和33年)のアイデアを得て、ジョージ=ルーカスが作った映画こそ、あの『スター・ウォーズ』で、この映画に登場するC3POとR2D2は、『隠し砦の三悪人』の2人の百姓、太平(千秋実)と又七(藤原釜足)がモデルなのはあまりにも有名です。

黒澤明が世界の映画界に与えた影響力は、後年の黒澤作品において思いがけない効果をもたらします。
昭和55年公開の『影武者』は、映画作りに妥協を許さない完全主義者の黒澤が12億円の製作費が必要と主張したことから、一時は企画そのものが危機に陥ります。この話を聞きつけたのが黒澤を敬愛するフランシス=コッポラとジョージ=ルーカスで、2人が20世紀フォックス社を動かして製作前の世界配給契約を取り付けて製作が実現。プロデューサーとしても名を連ねています。平成2年、黒澤が80歳の年に公開された『夢』は、スティーブン=スピルバーグが海外版製作総指揮を務め、黒澤プロダクション製作、ワーナー・ブラザーズ配給で作られました。このため、映画評論家たちの間ではこの作品を邦画として扱うべきか、邦画として扱うべきか、戸惑いを隠し切れなかったそうですが、黒澤の世界的名声と影響力がなければ実現することは不可能だったであろうと思われる点では、『影武者』と共通しています。

「黒澤明の軌跡」の他にも、黒澤映画の代表作の1つ『椿三十郎』(昭和37年)が、森田芳光監督・織田裕二主演でリメイクされ、今年12月に公開が予定されている他、『生きる』もテレビでリメイクされるとのことで、黒澤作品が今でも高い評価を保ち続けていることが窺えます。
しかし、いくらリメイクされても、「クロサワ」を超える「黒澤作品」はもう出てこないでしょう。
今年も各界の様々な人々が旅立って行きましたが、一際異彩を放っていたと言えるのが、9月24日に旅立った丹波哲郎さんでしょう。
思えば、丹波さんという人は不思議な俳優でした。
俳優としてのスケールの大きさに重厚な存在感、懐の深さ、それに一種独特なカリスマ性と、いずれも他の追随を許さないものがありました。

『キイハンター』(昭和43年〜48年)や『Gメン75』(昭和50年〜57年)など、テレビでのイメージが強い丹波さんですが、映画俳優としても存在感のある演技を多く残しています。
中央大学法学部を卒業後、会社勤めをしたり通訳をしたりと様々な職に就いた後、昭和27年、30歳の時に映画俳優としてデビューした丹波さんが、俳優として注目され始めたのは意外と遅く、しかも最初にスポットを浴びたのは、後に映画監督として活躍する五社英雄が演出を手がけた時代劇『三匹の侍』(昭和38年)の柴左近役など、テレビでの活躍によってでした。テレビで大いに売れ、その人気を背負って映画でもスターとなったという行き方は、当時のテレビ台数上昇期に相応しい特徴的な現象だったそうです。

作品の内容に拘らず、どんな役でも出演するというスタンスを持っていたので、映画だけでも出演本数は300本以上に及び、日本映画史上に残る名作から、「こんな作品にも出ていたのか?」とビックリするような作品まで、幅広いジャンルの作品に出演しています。
時代劇の代表作には、司馬遼太郎原作・篠田正浩監督の『暗殺』(昭和39年)があります。勤皇・佐幕が入り乱れる幕末を舞台に、勤皇か佐幕か理解不能な奇妙な行動を見せた清河八郎を主人公にした作品で、清河のつかみどころのない人物像や不思議なカリスマ性が、演じる丹波さんのキャラクターにピッタリとハマっていました。昭和30年代後半から40年代にかけて頻繁に出演した東映のギャング映画や任侠映画の中では、『組織暴力』『続・組織暴力』(佐藤純彌監督・昭和42年)で、それぞれ役名は異なるものの、組織暴力に真っ向から立ち向かう敏腕刑事を演じたのが印象的でした。『砂の器』(野村芳太郎監督・昭和49年)の今西刑事も、丹波さんを語る時に欠かせない役柄でしょう。

俳優・丹波哲郎を語る時に欠かせない作品と言えば、もう1つ、「007」シリーズ第5作目にあたる『007は2度死ぬ』(昭和42年)があります。シリーズ史上初めて日本が舞台となったこの作品で、日本の諜報機関の影のボス・タイガー田中役で、ボンドガール役の浜美枝・若林映子(あきこ)と共に出演し、「国際俳優」としても認められるようになります。「007」に出演した日本人俳優が、その当時から「国際俳優」としての知名度が高かった三船敏郎などの並み居るスター俳優ではなく、丹波さんだったというのはユニークで、このことだけでも、他の大物俳優スターを超える存在であったと言えるかもしれません。因みに、映画の製作公開から10年後の昭和50年代前半にテレビ放映された際には、丹波さん本人が日本語版の吹き替えを行ない、話題を呼んだそうです。
丹波さんと言えば、所謂「大物」や、リーダー的人物を演じることも多く、創価学会の創設者・戸田城聖を演じた『人間革命』(舛田利雄監督・昭和48年)、総理大臣役で登場した『日本沈没』(森谷司郎監督・昭和49年)の他、深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズ(昭和48年〜49年)には、ただ着物姿で座っているだけの神戸の暴力団・明石組組長役で登場するなど、枚挙に暇はありません。

全く台本を覚えず、自分の役がどんな役なのかを知らないまま撮影現場に入り、それでいて堂々とその役をこなしたり、撮影開始時間を大幅に遅刻して現場に入りながら、「俺が来たからもう大丈夫だ」と言ってのけたこともあったと言い、また、「大霊界」の研究者としても名を馳せるなど、俳優以外でもエピソードには事欠かない人でした。
長い俳優人生でしたが、主演作品は意外と多くはありません。しかし、どんな作品でも主役を凌ぐ圧倒的な貫禄や存在感を誇示した丹波さんは、俳優としてのスタンスや素顔の部分も合わせて、真の「大物俳優」であったと思います。

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