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世界的にも評価の高い日本を代表する映画監督として、黒澤明、小津安二郎と並ぶ存在である溝口健二。 ベネチア国際映画祭で3年連続受賞を果たすなど、監督としての実績は黒澤や小津に勝るとも劣らぬものでありながら、今日ではこの2人と比較するとスポットライトを浴びることは少ないように思います。 明治31年に東京・浅草に生まれた溝口は、様々な職を転々とした後、大正9年に俳優である友人のつてで日活向島撮影所に入社します。俳優を希望しましたが、助監督となり、入社2年後の大正11年、社内の「お家騒動」によって監督や俳優が大量に退社したことにより、早くも監督に昇進します。翌大正12年9月1日の関東大震災で向島撮影所も壊滅状態となり、これを機に溝口も活動の場を京都へ移し、以後、終生京都に暮らすことになります。 大正14年、溝口の人生に大きな影響を及ぼす事件が起こります。当時同棲していた女性から剃刀で背中を斬り付けられるというスキャンダルを起こし、これが新聞沙汰となって会社から謹慎させられてしまいます。この事件が、後に女性の生き様を執拗なまでに凝視する彼の作風を生むきっかけとなったと言われています。 僕は溝口作品を実際には余り観ていないのですが、その作品の特徴を挙げると、様々なジャンルの作品を作り、しかも「名作」として評価の高い作品があるかと思えば、同じ監督の作品とは思えないような「駄作」もあるということで、つまり作品の出来の「ムラ」が激しいということです。戦前の『祗園の姉妹』『浪華悲歌(なにわえれじい)』(共に昭和11年)や、戦後、ベネチア国際映画祭で3年連続入賞した『西鶴一代女』(昭和27年)『雨月物語』(昭和28年)『山椒太夫』(昭和29年)などの代表作の他、『残菊物語』(昭和14年)などの「芸道もの」や、ある種の「国策映画」として作った『元禄忠臣蔵』(昭和16年)などが知られていますが、いずれも社会や運命に翻弄される人間の姿が描かれています。 溝口健二ほど、徹底した完全主義と独自の演技指導でスタッフや俳優たちから恐れられた監督はいませんでした。完全主義においては黒澤も多くのエピソードを残しており、また演技指導の厳しさでは小津も有名だったそうですが、共に大柄だったこの2人よりも年長で、華奢な体つきであった溝口はそれ以上に厳しかったそうです。例えば、ある俳優が演技について質問すると、「役者は演技をするのが仕事でしょう。自分で考えて下さい」という意味のことを言ったそうです。また、セット・小道具・衣装・時代考証など、映画に関わる全てのものに対して常に完璧を求めたことでも知られ、「いつでも“ゴテる”(=不平・不満を言う)」という所から「ゴテ健」というあだ名が付いたのだそうです。この2つのエピソードですが、いずれもスタッフや俳優たちに安易に仕事をさせず、徹底的にしごき抜いて各々の能力を最大限に引き出そうとする溝口の意図があったからだと言われています。実際、脚本家の依田義賢や撮影の宮川一夫、美術の水谷浩など、溝口の下で映画製作に携わったスタッフの中からは、日本映画を支える多くの実力者が輩出されています。 溝口健二は昭和31年8月24日、58歳で世を去りましたが、ちょうどベネチア国際映画祭が開催されている最中で、会場の全ての人々が黙祷を捧げ、生涯を通じての盟友であった大映社長・永田雅一は、京都に建てられた彼の記念碑の側面に「世界的名監督」と刻ませたそうです。
僕自身は、溝口健二というと「戦前の巨匠」というイメージが強く、また黒澤や小津に比べると影が薄いという印象を持っていますが、この人が世界的な評価を得たのは、戦後になって晩年のことです。もし、小津と同じ時期まで健在であったなら、溝口に対する世間の評価ももっと違うものになっていたかも知れません。 |

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