万年寝太郎徒然日記

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今日は、黒澤明監督の『七人の侍』について書きたいと思います。
と言っても、ストーリーや場面についてのことを書くのではなく、ここに書くのは、ズバリ「七人の侍」を演じた俳優達について書きます。
『七人の侍』の主人公である7人が、それぞれ異なった性格や風貌の持ち主だったのと同様に、演じた7人の俳優達もそれぞれ違う、しかしいずれも得難い個性の持ち主でした。
普通なら、リーダー格の勘兵衛を演じた志村喬から紹介するべきでしょうが、ここでは、亡くなった順番に紹介して行きたいと思います。

7人の中で、一番最初にこの世を去ったのは、勘兵衛から「古女房」と言われ、彼の最も信頼出来る部下であった七郎次を演じた加東大介。兄が沢村国太郎、姉が沢村貞子、長門裕之・津川雅彦兄弟とは、叔父・甥の間柄という正真正銘の「芸能一家」の出で、戦前は前進座の俳優として活躍し、戦後、芸名を加東大介と改めました。黒澤作品では『七人の侍』の他に、『羅生門』(昭和25年)や『用心棒』(昭和36年)などに出演し、また主役を演じた『大番』シリーズ(昭和32年〜33年)や、森繁久彌主演の「社長」シリーズなどの東宝映画でお馴染みの人でした。小津安二郎監督の遺作『秋刀魚の味』(昭和37年)にも出演しています。昭和50年7月31日没。享年64。

7人の中でも最年少の美少年剣士・勝四郎を演じたのは木村功。勝四郎は17歳の設定でしたが、木村功は当時既に31歳でした。戦前の学生時代から演劇活動を始め、復員兵の容疑者を演じた黒澤監督の『野良犬』(昭和23年)や、今井正監督の『山びこ学校』、山本薩夫監督の『真空地帯』(ともに昭和27年)といった主演作など、映画の代表作も数多く、また後年はテレビドラマでも活躍しました。今や大演出家の蜷川幸雄も、若い頃はこの人を慕っていたそうです。金子信雄、西村晃、三橋達也といった人たちと同年代だったそうですが、勝四郎役に代表されるようにいつまでも若々しい雰囲気の持ち主でした。昭和56年7月4日没。享年58。

頭脳明晰・沈着冷静、しかも優しく偉ぶらない人格者であるリーダー・勘兵衛を演じたのが志村喬。この人については前にも書きましたので、改めて多くは書きませんが、黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(昭和18年)に柔道家・村井半助役で出演して以来、黒澤作品にはなくてはならない俳優であり、黒澤映画全体のリーダー的存在であったと思います。黒澤監督によれば、勘兵衛役は初めからこの人に演じてもらうことを決めていたそうです。昭和57年2月11日没。享年76。

ストイックで寡黙な剣豪・久蔵を演じたのは宮口精二。一瞬にして相手を斬り倒すその太刀捌きは見事でしたが、実は宮口精二本人はそれまで剣道の経験が全くありませんでした。昭和8年に築地座の研究生となり、4年後の昭和12年には文学座の結成に参加した新劇俳優で、映画では黒澤監督の『生きる』(昭和27年)に暴力団の親分役で出演した他、松本清張原作、野村芳太郎監督の『張込み』(昭和33年)でのベテラン刑事役も有名です。その後も、舞台・映画・テレビで手堅い演技の脇役として活躍する一方、アマチュア野球の審判としても知られていました。昭和60年4月12日没。享年71。

今回は、『七人の侍』の7人のうち、昭和に亡くなった4人の俳優について書いて行きました。残る3人については、次回へ続きます。

深作欣二と「戦後」

僕が深作欣二監督の存在を知ったのは、小学校に入学した昭和56年頃のことです。
当時の深作監督は既に日本映画界を代表する映画監督の一人で、『青春の門』(昭和56年)や『道頓堀川』『蒲田行進曲』(昭和57年)などの超大作、話題作を続々と発表している時期でした。これらの作品はいずれも松坂慶子が主演していたので、「深作欣二」と言えば「松坂慶子の映画を撮る監督」というイメージを強く持っていました。
しかし、この時代の深作欣二が、果たして自分が本当に撮りたい映画を作っていたのかというと、どうも違うのではないかと思うのです。

深作欣二が映画監督を志すきっかけを作ったのは、他ならぬ黒澤明監督だったそうです。戦時中に公開された黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(昭和18年)に心を奪われた深作監督は、戦後、『酔いどれ天使』(昭和23年)のスピーディーなアクションやエネルギッシュな雰囲気に圧倒されたのだそうです。この作品は、戦後間もない頃の闇市を舞台に、飲んだくれの貧乏医者(志村喬)と肺を病むやくざ(三船敏郎)との友情を描いたもので、「映画監督・深作欣二」にも多大な影響を与えました。しかし、この作品の根底にある、黒澤監督独自のヒューマニズムには共感出来なかったのだそうです。それは、深作監督自身の実体験が大いに影響しているようです。

昭和5年生まれの深作監督は、軍国主義思想一色の中で少年時代を過ごしました。自分たちより少し年上の若者たちは次々に召集され、戦場に散って行きました。ところが深作監督が15歳の時の、昭和20年8月15日、日本が終戦を迎えた途端、それまで「鬼畜米英・忠君愛国」を声高に叫び、自分たちにもそれを強いてきたはずの大人たちが、「敵」であったはずのアメリカ軍に協力し、民主主義を賞賛するようになりました。昨日までの「正義の戦争」が、たった1日で「間違った悲惨な戦争」に変わっていた。子供たちにとって、「価値観」の逆転という、これほどショッキングなことは無く、それは深作監督も同様だったことでしょう。深作欣二という人は、一貫して正義や良心、ヒューマニズム、あるいは権威といったものに懐疑的、否定的な姿勢を通してきた印象がありますが、その根底には、戦後間もなくのこのような実体験があったのは間違いないでしょう。

そんな深作監督の主張や考え方が最も色濃く投影された映画が、他ならぬ『仁義なき戦い』シリーズ(昭和48年〜49年)でしょう。終戦直後の広島と呉から物語が始まるこの映画は、戦争へ行けなかった若者たちが、そのやり場のない思いを暴力の世界で爆発させていく姿を描いた作品でした。シリーズ全体の主人公である広能昌三(菅原文太)は勿論ですが、シリーズ2作目の『広島死闘篇』(昭和48年)に登場し、同作品の実質的主役でもある山中正治(北大路欣也)にも、戦争へ行けなかった者の無念さややるせなさが漂っていて、この人物に対する深作監督自身の強い思い入れが感じられます。『酔いどれ天使』に影響された深作欣二は、同じ闇市を舞台にしながらも、それとは全く正反対の世界を描き出したと言えるでしょう。

『仁義なき戦い』で自らの主張や世の中への思いを全面的に押し出した深作欣二は、名実共に日本映画界の大物監督の仲間入りを果たしました。しかしそれによって、特に『柳生一族の陰謀』(昭和53年)以降、超大作、話題作とはいえ、イメージに合わないような作品も多く撮るようになってしまったのは皮肉なことです。僕が初めて知った頃の「映画監督・深作欣二」は、自身の主張やテーマ性を出し尽くしてしまった後の姿だったのかも知れません。戦後の「価値観」の逆転が、その作風にも多大な影響を与えたという点で、深作欣二は「戦後」によって世に出た映画監督だったと言えるのではないでしょうか。

「紀子三部作」

戦後の小津安二郎作品を語る上で、女優・原節子の存在を欠かすことは出来ません。昭和24年公開の『晩春』で初めて小津作品に出演して以降、6本の作品に出演し、中でも『晩春』『麦秋』(昭和26年)、それに『東京物語』(昭和28年)の3作は、一般的に「紀子三部作」と呼ばれ、小津安二郎が独自のスタイルを確立し、またその名を不動のものにした作品とも言われています。

何故「紀子三部作」と呼ばれるのかと言うと、原節子が『晩春』では「曾宮紀子」、『麦秋』では「間宮紀子」、『東京物語』では「平山紀子」と、3作続けて同じ「紀子」という名前のヒロインを演じているからですが、当然ながらその人物設定などはそれぞれ異なっています。
『晩春』の曾宮紀子は、大学教授の父(笠智衆)と2人暮らしで、父は婚期が遅れている紀子を何とか嫁がせようとします。しかし、紀子が結婚した後の自分のことを心配していると知った父は、「自分も再婚しようと考えている」と嘘を言い、漸く紀子は結婚を決意します。結婚を前にした紀子と父が京都を旅行する件や、原節子の小津作品中唯一の花嫁衣装姿などが印象的な作品です。
『麦秋』の間宮紀子は丸の内の会社に勤めるOLで、北鎌倉の家に両親(菅井一郎・東山千栄子)、医師の兄夫婦(笠智衆・三宅邦子)とその二人の息子と同居しています。ある日専務(佐野周二)が持ち込んできた縁談を巡って家族が心配しますが、紀子は兄と同じ病院に勤める子持ちの知人(二本柳寛)との結婚を決意し、その転勤先である秋田へと旅立ちます。ここでの紀子は自分の意思で結婚を決意しており、そこが『晩春』とは微妙に違うところです。また、大家族から核家族へ変化していく様子が写し取られているのもこの作品の大きな特徴でしょう。因みに、原節子と小津監督の結婚が噂されたのも、この作品が公開された頃のことです。
『東京物語』の平山紀子は、既に夫が戦死して未亡人となっており、ここが前2作とは大きな違いがあります。尾道から上京した義理の両親(笠智衆・東山千栄子)を、その実子(山村聰・杉村春子)以上に親身になって世話をします。老夫妻が我が子ではなく他人である紀子の元で安らぎを感じる姿を通して、家族でありながら本当に思いやり労わり合うことの難しさが描かれており、義母の死後、再婚を勧める義父に対して「私、ずるいんです」と言って涙する紀子の姿が印象に残っています。

このように「紀子三部作」は、小津映画では定番と言える「家族」という普遍的はテーマが描かれている点では同じですが、各々の雰囲気は全く違うものです。そしてこの3作品を通しての大きな特徴と言えるのが、ヒロインである紀子の幸福な結婚生活そのものが描かれていないということです。これは特に『東京物語』や、それ以降の原節子が出演した小津作品にも言えることで、『東京暮色』(昭和32年)『秋日和』(昭和35年)、そして最後に出演した『小早川家の秋』(昭和36年)では、いずれも夫に先立たれているか、夫婦関係が冷え切っていたりして、決して幸福な人生を送っている訳ではないヒロインを原節子は演じています。これは果たして何を意味しているのでしょうか。

因みに、僕自身「紀子三部作」の中では、作品そのものの素晴らしさでは『東京物語』が1番だと思っていますが、いつでもゆったりとした気分で観ることが出来るのは『麦秋』で、「小津調」が確立される様子を垣間見ることが出来る作品としては『晩春』を推しています。つまり、それぞれ違った見方や楽しみ方が出来るという訳です。

木下惠介の印象

戦後を代表する映画監督として黒澤明と並んで、木下惠介の名前がよく挙がります。
監督デビューが同時期であり、作風も黒澤監督がダイナミックなのに対して、木下監督は繊細で叙情的なもので、一時期は映画界の両横綱と言われたこともあるそうです。
しかし、黒澤明が今でも国内外で高い支持を集めているのとは対照的に、木下惠介に対する評価はそれほどでもなく、他の監督たちと比較しても何となく影が薄い印象があります。

僕が観た木下作品は、作られた年代順に言うと、『破れ太鼓』(昭和24年)『カルメン故郷に帰る』(昭和26年、日本初のカラー映画)『二十四の瞳』(昭和29年)『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32年)、それに『この子を残して』(昭和58年)の5本で、黒澤作品や小津安二郎作品に比べると少ないです。その中で、自分が思う木下作品の特徴について書いていきたいと思います。

先ず、地方を舞台にした作品が多いということ。
例えば、木下作品の中でも最高傑作と言える『二十四の瞳』の舞台は、香川県小豆島。小豆島の美しい自然を背景に、高峰秀子演じる大石先生とその教え子たちが戦争を挟んで成長していく過程が描かれています。『喜びも悲しみも幾歳月』は、全国の辺境の地で働く灯台守夫婦(佐田啓二・高峰秀子)の物語で、北は納沙布岬から南は長崎・五島列島まで登場します。その他、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』を映画化した『野菊の如き君なりき』(昭和30年)では信州、『惜春鳥』(昭和34年)では会津若松、『永遠の人』(昭和36年)が阿蘇が舞台となっているなど、ローカル色豊かな作品が目立ちます。
次に、作品のジャンルが幅広いこと。
『破れ太鼓』や『カルメン故郷に帰る』のような喜劇を作るかと思えば、『二十四の瞳』などのような叙情豊かな作品も作り、更に『日本の悲劇』(昭和28年)や『女の園』(昭和29年)のようなシリアスで重い雰囲気の作品も作っており、それぞれ異なるジャンルで印象的な作品を残しています。
そして、木下作品を語る上で忘れてはならないのは、テーマに「反戦」を織り込んだ作品を多く世に送り出していることで、個人的にはここに注目しています。
戦時中に作った『軍隊』(昭和19年)という作品では、母親が出征する息子を追う姿を延々と移動撮影で捉えて軍部の怒りを買ったそうです。『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』でも、戦争の暗い影が描かれており、『この子を残して』は、長崎を舞台に原爆によって亡くなった永井隆博士(加藤剛)の生き様を描いた物語です。戦国時代の甲斐の国が舞台の『笛吹川』(昭和35年)も、戦争の悲惨さがテーマになっています。様々なジャンルの映画を世に出した木下惠介が最も訴えたかったことは、戦争への怒りと平和への思いだったのではないでしょうか。

木下監督は、昭和40年代に入るのとほぼ同時期に「木下惠介プロダクション」(後の木下プロダクション)を設立し、他の映画監督に先駆けて活動拠点をテレビに移します。そして、TBS系列で放映された「木下惠介アワー」や「人間の歌シリーズ」などで多くの優れた作品を世に送り出しました。僕も、木下惠介と言えば、映画よりもテレビのイメージの方が強く、映画を観るようになったのは、ずっと後のことでした。もしかすると、映画界からテレビ界へ早々と転じたことが、黒澤たちと比較しての「影の薄さ」に繋がっているのかも知れません。

木下惠介が亡くなったのは、平成10年(1998年)12月30日で、黒澤明の死から約3ヶ月後のことでした。暮の押し詰まった時期だったこともあって、あまり大きく取り上げられなかったように思います。翌日(大晦日)の「紅白歌合戦」で、紅組司会の久保純子アナウンサーが「キスケ」とトチってしまうというハプニングがありましたが、それも今思えば、今日の木下惠介の印象の薄さを象徴していたのではないかと考えてしまいます。
黒澤明監督は、デビューこそ『姿三四郎』を発表した戦時中の昭和18年ですが、実質的には戦後の日本映画の監督と言っていいと思います。
小津安二郎監督が、終始「古き良き時代の日本」の姿とそれが消え去る様子を追求し続けてきたのに対して、黒澤監督のダイナミックでスケールの大きな作風は、そのまま戦後の日本を復興、発展させていったエネルギーとつながっているように感じます。特にその映画スタイルが遺憾なく発揮されたのが、時代劇作品でしょう。

黒澤時代劇は好きな作品ばかりですが、年代順でも好きな作品の順でも、先ず『七人の侍』(昭和29年)を挙げます。僕は初めてこの映画を観たのは、小学校1年生か2年生の頃にテレビで放送された時のことでした。その後、高校2年生の時に、完全オリジナル版がニュープリントで公開されたものを、実際に映画館で鑑賞し、更に、NHK‐BSで放送された時にはビデオに録画してまた見直しました。アクション時代劇としても人間ドラマとしても第一級の作品で、「七人の侍」である、菊千代(三船敏郎)・勘兵衛(志村喬)・平八(千秋実)・久蔵(宮口精二)・勝四郎(木村功)・七郎次(加東大介)・五郎兵衛(稲葉義男)それぞれが個性豊かで、特に菊千代の野性味や、勘兵衛の侍大将ぶりが印象に残っています。最後の豪雨の中での野盗一味との決戦シーンも迫力満点で、何度観ても作品全体の凄さに圧倒されてしまいます。
『蜘蛛巣城』(昭和32年)と『隠し砦の三悪人』(昭和33年)も、『七人の侍』と同様に戦国時代を描いた作品。前者はシェークスピアの『マクベス』を翻案し、欲望や野心に取り憑かれた人間の醜さを描いた作品で、三船演じる主人公・鷲津武時が最後に無数の矢を受けるシーンは衝撃的です。後者は、敗軍の侍大将と埋蔵金を狙う2人の百姓が、姫君と財宝を守って敵中を横断突破するアクション活劇です。この2人の百姓、太平(千秋実)と又七(藤原釜足)が、後に『スター・ウォーズ』のC3POとR2D2のモデルになったことは有名な話です。

『七人の侍』は別格として、黒澤時代劇の中でも最もエンタテイメントに溢れた作品が、三船演じる素浪人が活躍する『用心棒』(昭和36年)と『椿三十郎』(昭和37年)の2作品。『用心棒』は、「空っ風吹く馬目の宿」を舞台に、主人公・桑畑三十郎が2組のやくざ一家を倒す物語。三十郎の豪快な剣さばきや、仲代達矢演じる短銃の使い手・卯之助との対決など、「これでもか」と見せ場があるストーリーが、黒澤・三船、それに日本映画史上最高のカメラマンである宮川一夫の「最強トリオ」によって作られたのだから、面白くない訳がありません。『椿三十郎』は、最後の三十郎と、仲代演じる室戸半兵衛との対決シーンが語り草となっていますが、若侍役の加山雄三や田中邦衛たちや、どこか浮世離れした雰囲気のある城代家老(伊藤雄之助)とその奥方(入江たか子)のとぼけた味わいも印象的です。

黒澤映画と言えば、テーマ性やヒューマニズムの部分に注目が集まりますが、ここに挙げた作品を見ると、やはり根本的には「娯楽映画」なのだと思います。そして、『七人の侍』が『荒野の七人』に、『用心棒』が『荒野の用心棒』に翻案されたことは、「クロサワ」のエンタテイメントが国際的にも通用することを証明したものでしょう。晩年、ダイナミズムやスケールの大きさに囚われ過ぎて、思うように映画が作れなかったことは残念でしたが、それでも黒澤映画、特に時代劇の魅力が色褪せることは決してないでしょう。

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