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大河ドラマ『風林火山』では、甲斐の武田晴信(信玄)の下で縦横無尽の活躍を見せている山本勘助。 戦国時代に活躍した「軍師」の代表的存在に挙げられ、また俗にいう「武田二十四将」の1人にも挙げられている勘助ですが、しかし、彼の実像については、現在でも謎めいた部分が多く残されています。 歴史上著名な人物として語り継がれながら、勘助について未だにはっきりとしない部分が多いのは、『甲陽軍鑑』の他に、彼の華々しい活躍を伝える史料が殆ど残されていないことが、その最大の要因と言われています。この『甲陽軍鑑』という書物は、武田信玄の「四名臣」の1人とされる高坂弾正忠昌信の原本を基に、武田の遺臣である小幡景憲が、江戸時代に入って武田家の記録や文献を10巻にまとめた軍学書で、これによると、勘助は明応2年(1493年)、三河国宝飯郡牛窪に生まれ、武田家の軍師として活躍し、築城の才能にも優れていたとしています。しかし、江戸後期に書かれた別の書物では駿河国富士郡山本の生まれとされているなど、先ずその生い立ちから明らかではありません。 10年に渡って諸国を遍歴する間、築城の術や兵法を極めたという勘助は、天文5年(1536年)、37歳の時に駿河に入り、今川義元に仕官を願い出ますが、容貌が醜く、隻眼で足が不自由な上に全身に無数の傷があるという異形を義元に嫌われ、今川家中からも疎まれて仕官は叶いませんでした。数年間の牢人暮らしの後、武田家の重臣・板垣信方によって武田晴信に推挙された勘助は、晴信から秘めた才能を見抜かれ、知行200貫を与えられた上、足軽も預かります。これが天文12年(1543年)と伝えられています。 『甲陽軍鑑』に記されている勘助の活躍は史実と異なるものも多いのですが、代表的なものとして、天文19年(1550年)9月の戸石城の戦い、所謂「戸石崩れ」での活躍があります。武田信玄が天文17年(1548年)の上田原の合戦に続いて、信濃の葛尾城主・村上義清に敗れたこの合戦で、勘助は武田軍の劣勢を察知して、50騎を率いてわざと目立つように振る舞い、敵将を自分たちに引き付けることで信玄を撤退させ、武田軍の壊滅を防いだと伝えられています。天文11年(1542年)に信玄に殺された諏訪頼重の娘を信玄自身が側室とした際、重臣たちが反対する中で「男子が生まれたらその子に諏訪家を再興させるべき」と主張し実現させたのも勘助だったとされています。側室となった頼重の娘が生んだ男子こそ、後の武田勝頼です。 永禄4年(1561年)9月10日の第四次川中島合戦では、「啄木鳥戦法」と呼ばれる奇襲を献策しますが、これを事前に察知した上杉政虎(謙信)は信玄の本陣を急襲。作戦が失敗した責任を痛感した勘助は、自ら上杉勢に突入し、無数の槍や刀を受けて討死したと『甲陽軍鑑』には記されています。山本勘助、この時69歳であったと言われています。 『甲陽軍鑑』の史料性自体が否定的、或いは極めて低いものと考えられているため、大河ドラマの原作にもなっている井上靖の小説以外では、例えば、上杉謙信が主人公の海音寺潮五郎『天と地と』では、「武田軍の中でも地位の低い人物であった」とする学説を信用するとして勘助は登場しておらず、一方新田次郎『武田信玄』では、勘助は登場しますが、軍師ではなく「間者」、つまり忍者という設定になっています。 このように、実在そのものが疑われた勘助の存在が確認されたのは、昭和44年に北海道釧路市で発見された『市川文書』と呼ばれる書状の中で、口上を述べる使者として「山本菅助」なる人物の存在が記されていたからで、この時代の使者は主君からの信頼が厚い比較的身分の高い武士の務めであったということから、この「山本菅助」という人物が信玄から重用された人物であったことが伺えます。 『甲陽軍鑑』の「山本勘助」と『市川文書』の「山本菅助」とを直接結び付ける記録は、現在のところ発見されていません。しかし、もしかすると「山本菅助」という人物からイメージを膨らませた結果生まれた人物こそ、今我々が知っている山本勘助その人なのかもしれません。
山本勘助。その「正体」が明かされるのはまだまだこれからのようです。 |
戦国武将
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「天下統一」に向けて邁進する織田信長と徳川家康の連合軍が、3千挺の鉄砲を用いて、武田勝頼率いる1万5千の軍勢を長篠合戦で撃破したのは、天正3年(1575年)5月21日のことでした。 信玄以来最強を誇った武田軍は、この合戦で決定的な打撃を受けて以来転落の道を歩み始め、そのわずか7年後の天正10年(1582年)3月11日、勝頼の自刃によって滅亡することになります。 武田勝頼の生涯には常に父・武田信玄の影が付いて回り、それは彼に対する「凡庸」「暗愚」といった一般的な評価にも大きな影響を与えています。 天文15年(1546年)、信玄と側室の諏訪御料人との間に信玄の四男として勝頼は生まれます。母の生家である諏訪家はかつて信玄によって滅ぼされており、諏訪御料人を側室に迎えるにあたっては武田家中でも根強い反対がありました。弘治元年(1555年)の母の死後、勝頼は信玄の信濃経略に伴う諏訪地方平定のため、諏訪家の名跡を継ぐことになります。この時、武田家代々に受け継がれてきた「信」ではなく、諏訪家代々に受け継がれてきた「頼」の一字を取って「諏訪四郎勝頼」と名乗り、諏訪家の家臣を付けられて信濃高遠城主となります。 信玄には、正室・三条夫人との間に生まれた嫡男・太郎義信という後継者がいました。しかし、信玄が駿河進出を画策したことがきっかけで、今川家から正室を娶った義信は父と対立。幽閉された末に永禄10年(1567年)、30歳で亡くなります。次男は失明して出家、三男は幼くして亡くなっていたことから、勝頼が武田家の後継者に指名されます。 天正元年(1573年)4月12日、勝頼によって人生最大の転機が訪れます。上洛を目指していた父・信玄が、53歳でこの世を去ります。死を前にした信玄は、「自分が亡くなったことは3年間秘密にせよ」と勝頼に遺言を残したと伝えられています。武田家20代当主となった勝頼、この時27歳。 信玄の死によって、それまで窮地にあった織田信長は、先ず信玄たちを影で操っていた室町幕府15代将軍・足利義昭を追放。次いで近江の浅井長政、越前の朝倉義景を滅ぼし、着実に勢力を拡大します。これに対して勝頼は、家督を継いだ翌年の天正2年(1574年)正月に美濃へ出陣。織田方の18城を攻め落とすと兵を遠江に転じ、徳川方の要衝で父・信玄さえ攻め落とせなかった高天神城の攻略に成功。勝頼の武名は上がり、信長と徳川家康を脅かします。しかし、この時が勝頼の人生最大のピークとなってしまいます。 勝頼の運命を左右した出来事として、多くの有力な家臣を失った長篠合戦と、天正6年(1578年)に発生した越後上杉家の家督相続を巡るお家騒動、所謂「御館の乱」が挙げられます。 前者は、『甲陽軍鑑』によれば、勝頼が信玄以来仕えてきた重臣たちの「無謀な戦い」という主張を聞き入れず、自分の側近たちの意見を取り入れた結果の大敗であったと記されている一方で、この記述に関しては、江戸時代に入って徳川家に仕えた武田の遺臣たちが、自分たちが「いい顔」をするために、勝頼や側近たちに責任を押し付けたのではないかとする説も一方であります。しかし、この背景には、信玄亡き後の武田家中が文字通りの分裂状態にあったという事実が存在することは確かでしょう。また、後者では、天正6年3月13日に上杉謙信が急死した後、景勝と景虎(北条氏秀)の2人の養子が跡目を争った際、初め勝頼は正室の実家である相模北条氏の出である景虎の陣営に加わりながら、景勝方が持ち掛けた取引に応じてしまったことで北条氏を敵に回した上、後に北条氏が家康と協力関係を結んだことで、勝頼はより苦境へと追い込まれる結果となります。 天正9年(1581年)、勝頼は甲府の西北に新府城(現在の山梨県韮崎市)を築き、ここを新たな拠点として起死回生を図りますが、翌天正10年、18万に及ぶ織田・徳川連合軍が甲斐に進撃するや、勝頼は家臣や親類たちの相次ぐ裏切りに遭います。新府城での最後の軍議で、勝頼は「城を枕に討死すべき」とする嫡男・信勝の主張を聞き入れず、家臣・小山田信茂の勧めを入れて、彼の居城・郡内岩殿城へ落ち延びることを決意します。しかし、岩殿城へ向かう途中でその信茂にも裏切られた勝頼は、夫人と信勝らとともに、天正10年3月11日、甲斐天目山(田野)において自刃したのでした。武田勝頼、この時37歳。 勝頼の悲劇は、武将としては優秀でありながら、常に偉大な父・信玄と比較され続けた上、更に時流を見誤ったことや権謀術数を持たなかったことにあったと思われます。しかし、彼にとっての最大の悲劇は、彼自身が当の武田家中にとって「歓迎されざる人物」であったことかもしれません。
ともあれ、武田勝頼の死によって、20代続いた甲斐武田家の命脈は絶たれたのでした。 |
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戦国乱世において、親子や兄弟が激しく争い、時には血で血を洗う争いにまで発展することは、「下剋上」の風潮と共に決して珍しいことではありませんでした。 親を追放して家督を相続した戦国武将と言えば、甲斐の武田信玄がその代表的人物ですが、では追放されたその父・武田信虎とはどのような人物だったのでしょうか。 現存する戦国武将たちの肖像画の中でも、息子・信廉(のぶかど)によって描かれた信虎のそれは、異相と言われる彼の風貌を今日に伝えています。特に頭の形が異様に発達して大きく、見開いた眼からは妖しい光が放たれているような印象があります。この肖像画を描いた信廉という人は絵の才能に優れていた人物で、信虎だけでなく母・大井夫人の肖像画も残しており、彼の描いた信虎のそれも、父の実相をより正確に伝えているものと言って良いでしょう。 明応3年(1494年)、甲斐国守護武田氏17代当主・信縄(のぶつな)の嫡男として生まれて信虎は、永正4年(1507年)、父の病死によって14歳で家督を相続すると、翌年には叔父の武田信恵(のぶよし)を滅ぼし、次いで甲斐の有力国人だった小山田氏や大井氏との抗争では、小山田氏とは和睦を結び、大井氏とは、それを援護していた駿河の今川氏と和睦の後、大井氏と同盟を結び大井信達の娘を正室として迎えます。この正室・大井夫人との間に嫡男・晴信、後の信玄が生まれるのが、大永元年(1521年)のことでした。 晴信が生まれた頃の信虎は、近隣諸勢力との争いに明け暮れていました。国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加えて、晴信が生まれた大永元年には、甲府に迫った今川勢を撃退。大永4年(1524年)には、関東での扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)の両上杉氏と相模の北条氏の争いに介入。この年以降、今川、北条、諏訪との争いが激化します。このような「四面楚歌」の状況も、天文5年(1536年)に勃発した今川家のお家騒動「花倉の乱」で梅岳承芳、後の今川義元を支援したことから好転し始め、天文6年(1537年)、信虎は娘を義元に嫁がせ、今川家の仲介により公家三条氏の娘を嫡男・晴信の正室に迎えて今川氏と和睦。次いで北条氏とも和睦を結び、残る諏訪氏とは諏訪頼重の代にこれも娘を嫁がせることで和睦し、天文10年(1541年)には甲斐のみならず、信濃にも勢力を拡大します。 甲斐統一を進める過程にあった永正16年(1519年)には、それまで武田氏の本拠であった石和から川田を経て、西の府中に躑躅ヶ崎館を築き、城下町を整備して家臣たちを集住させています。 信虎の生涯、そして武田氏のその後を左右する出来事となった追放劇が起こったのは、天文10年のこと。信濃から凱旋して娘婿の今川義元に会うために駿河へ赴いた信虎は、譜代の重臣たちの支持を受けた晴信によって駿河へ追放され、晴信が家督と甲斐守護職を相続します。この信虎追放劇の背景には、かねてより晴信を疎んじ次男・信繁を偏愛していた信虎が、遂に晴信の廃嫡を考えるようになったとする親子不和説がある一方で父子同意説もあり、また信虎の圧政に苦しめられ新しい領主の登場を望んだ領民たちの声に晴信が応えたとする説など様々な説がありますが、領民の反発に加えて、信虎が甲斐を統一して武田氏を戦国大名へと脱皮させ、強力な中央集権化を断行したことで、これに反発した国人たちが晴信と謀って追放へと追い込んだものと考えられます。 国外へ追放された信虎でしたが、晴信からはその後も金銭面での援護を受けており、追放と言っても実際には強制的に隠居させられたと見るべきかもしれません。しかし、永禄3年(1560年)5月19日、それまで庇護していた今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、その跡を継いだ今川氏真と折り合いが悪かったことから駿河を去り、その後は志摩に渡って九鬼氏と争う地頭の軍師を務めたり、京都へ上って13代将軍・足利義輝の相伴衆になったと伝えられています。 武田信玄が病死した天正元年(1573年)、その子・勝頼を頼って武田領に戻った信虎は、翌天正2年(1574年)3月5日、身を寄せていた信濃高遠で80年の波瀾の人生を終えます。一説によると、勝頼と対面した信虎が、居並ぶ家臣の前で突如太刀の素振りを披露し、勝頼への与力と甲斐への帰国を願い出たものの、老臣たちから反対され、勝頼も混乱を恐れて高遠の叔父・信廉に預けたと言われています。
自らを追放した息子よりも一年長く生きたというのは皮肉ですが、その息子・信玄が戦国大名として飛躍する基礎を築いたのは他ならぬ信虎その人だったことも否定出来ないでしょう。信虎の死の翌年、天正3年(1575年)の長篠合戦を境にして、武田氏は滅亡への道を歩むことになります。 |
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歴史上有名な人物の中には、名前はよく知られているにもかかわらず、実際の経歴やその人物像についてははっきりしない人物が多くいるものです。 織田信長の重臣の1人で、「筆頭家老」として活躍した柴田勝家も、そうした人物の1人でしょう。 勝家は、細川・畠山氏と並んで室町幕府の管領を務めた斯波氏の一族にあたる越後新発田城主・柴田修理太夫義勝の孫で、大永2年(1522年)の生まれと伝えられていますが、生まれた年については、大永6年(1526年)、大永7年(1527年)、それに享禄3年(1530年)と様々な説があり、その出自や生い立ちは明確ではありません。 尾張の織田信秀に仕えた勝家は、美濃の斎藤道三との合戦などで早くから武功を挙げたとされています。天文20年(1551年)の信秀の死後、息子・信行の側に仕えた勝家は、信行の兄で、当時「うつけ者」と評判だった織田信長を退け、信行擁立を図ります。しかし、弘治2年(1556年)の「稲生合戦」で信長に敗れると直ちに降伏。以後、信長に心を寄せた勝家は、それから2年後の弘治4年(1558年)に信行が再び謀叛を計画した際、事前に信長へ報告。重病を偽った信長は、信行を清洲へ呼び寄せて謀殺します。一度反抗したにもかかわらず、信長が勝家に厚い信頼を置いていたのは、その武勇を高く評価していたからだと言われています。 生来、武骨な性格だったという勝家は、武勇に関する逸話をいくつか残しています。元亀元年(1570年)、近江長光寺城で六角義賢(承禎)の攻撃を受けた勝家は、籠城中3つの水瓶に入った水を兵たちに飲ませた後、次々と長刀で割り、決死の覚悟で抗戦に臨んだことから、「瓶割り柴田」の異名を取ったと言われています。「鬼柴田」も勝家の武勇を伝える異名として知られています。 柴田勝家の最大の業績は、天正元年(1573年)から始まった信長の北陸平定の中心的役割を果たし、越前北ノ庄を拠点に領国経営で手腕を発揮したことでしょう。越前一国を賜った勝家は、天正4年(1576年)に一向一揆の一大拠点であった加賀を攻略し、天正9年(1581年)までにこれを制圧。更に能登・越中にも進出を果たします。北ノ庄では城を造って城下町を整備した上、橋や道作りにも尽力し、現在の福井市の町の基礎は勝家が築いたとさえ言われています。また、これもあまり知られていませんが、領内で「刀狩」を実施したのも勝家が最初です。このように、優れた業績を残した反面、天正5年(1577年)に上杉謙信と手取川で合戦した際、羽柴秀吉と意見が対立したことから秀吉が勝手に退却した他、越中富山城攻めの陣中で与力の佐々成政と喧嘩になるなど、「人使い」の面はあまり長けていなかったようです。 天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺で斃れた時、越中魚津城を包囲していた勝家は、上杉景勝の反撃に遭ったために京都に向かうことが出来ませんでした。織田家の後継者を決める「清洲会議」で、信長の三男・織田信孝を推す勝家は、明智光秀を討って発言力を増し、信長の孫にあたる三法師(後の織田秀信)を推す秀吉に破れ、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいます。この清洲会議の後、信孝の斡旋もあって、勝家は信長の妹・お市を後妻として迎えます。 天正11年(1583年)4月、巻き返しを図る勝家は賤ヶ岳合戦で秀吉と対決しますが、佐久間盛政の軽率な振る舞いがあった上、前田利家ら信頼していた武将たちにも裏切られ、大敗を喫してしまいます。敗戦後、前田利家のいる越前府中城を訪れた勝家は、利家を責めるどころか、「これからは秀吉を頼るように」と言い残して去ったと伝えられています。また、自害の直前、妻・お市に城を出るよう勧めた所、お市はこれを拒否したという逸話も残されています。4月23日、秀吉軍の包囲する北ノ庄城で酒宴を開き、最後の一夜を過ごした柴田勝家は、翌24日、秀吉軍の総攻撃を受けてお市と共に自害します。勝家、この時62歳だったといいます。 「織田家筆頭家老」として信長の天下統一に貢献し、その武勇を大いに轟かせた柴田勝家。
最後は秀吉に敗れてその生涯を終えますが、信長・お市兄妹から信頼されたことや、賤ヶ岳の敗戦後の身の処し方などを見ると、人を引き付けるものがあったことや武将としての潔さも感じることが出来ます。 |
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浅井長政という人は、戦国武将の中では比較的知名度の高い人物でしょう。 しかし、長政の知名度というのは、織田信長の妹・お市の方の夫としてのそれであり、長政その人の実像について語られることはあまりにも少ないように思われます。 戦国大名浅井氏の歴史は、長政の祖父・亮政(すけまさ)から始まります。 浅井氏は、元々北近江の守護大名を務める京極氏の譜代の家臣でしたが、主家と対立した亮政は、京極氏の御家騒動に乗じ、国人一揆によって京極氏の家政を執ることになります。その後、京極氏を傀儡化した上、その有力家臣たちをも従えて戦国大名へと成長します。勢力拡大を図る過程で南近江の六角定頼と対立した亮政は、越前の朝倉氏と同盟と結び、その支援のもとに六角氏の攻勢を押し返して北近江の勢力を固めます。この時の「同盟関係」が、それから2代後の長政の運命を左右する結果となります。 亮政の後、久政の代になると、周辺の京極・六角、それに美濃の斎藤氏から度々侵攻を受け、特に六角義賢(よしかた、定頼の子)に圧され、雌伏を強いられます。この時幼少期にあった久政の嫡男・新九郎は、元服に際して六角義賢から一字を与えられて「賢政」(かたまさ)という名を名乗らされ、更に六角氏の重臣の娘を正室として娶らされます。しかし、このような状況に不満を持った家臣達は、久政を強制的に隠退させて賢政に家督を継承させることを画策。永禄2年(1559年)、15歳の賢政は浅井家の実権を握った上、正室を六角氏に返上。名を「長政」と改めます。翌永禄3年(1560年)8月には、六角義賢を近江野良田表で破った長政は、北近江の戦国大名としての地盤を確立します。これより少し遡る同じ年の5月19日、上洛途上にあった駿河の今川義元が、田楽狭間で織田信長に討たれています。 永禄6年(1563年)、六角氏に内紛が起こると、長政は叛乱勢力を支援して軍勢を出し、同年、美濃遠征の留守中に六角氏が兵を動かすと、一斉に帰還させて六角軍を撃破します。永禄11年(1568年)頃には勢力圏を近江のほぼ全域に拡大。家臣団編成や商業政策など、領国支配を堅固なものとする政策を打ち出し、「湖北の驍将(ぎょうしょう)」と呼ばれるまでになります。 尾張・美濃を平定したばかりの織田信長と同盟を結んだのは、ちょうど近江のほぼ全域を勢力圏とした頃でした。同盟を結ぶにあたって最大の問題となったのは、織田氏と、これも同盟関係にある越前朝倉氏との対立で、「同盟がある限り、織田は朝倉に進軍しない。また、どのような事態でも朝倉に進軍する時は必ず一報を入れる」との条件が付けられました。この時、信長の妹・お市を正室として迎えます。これは当時の典型的な「政略結婚」でしたが、2人の仲は睦まじく2男3女を設けるほどでした。長政にとって、思えばこの時が人生で最も幸せな時期だったのかもしれません。しかし、元亀元年(1570年)、信長が朝倉義景を攻めたことで長政の運命は一変。自ら決断した信長との同盟と、父祖以来続く朝倉との同盟という2つの同盟関係が長政に重くのしかかります。結局、朝倉との同盟関係を重んじた長政は信長に背き、織田・徳川連合軍を背後から急襲。この時は信長を苦しめますが、同年6月の姉川合戦では織田・徳川連合軍に敗れます。その後、朝倉義景や摂津石山本願寺、それに甲斐の武田信玄らと「信長包囲網」を形成し、約3年間に渡って信長との戦いを繰り広げられますが、天正元年(1573年)8月28日、居城の小谷城を攻められた長政は、お市の方と3人の娘を信長に渡して城と運命を共にし、ここに3代続いた近江浅井氏は滅んだのでした。浅井長政、この時29歳。 長政の死の翌年、正月の祝いの席で、信長が長政と父の久政、それに朝倉義景の3人の髑髏を金箔の盃にして家臣たちに酒を飲ませたという逸話は、自らに背いた者を死後も虐げる信長の冷酷残忍な一面を伝えると同時に、長政の哀れさや無念さも際立たせていると言えます。
しかし、長政の「遺産」はその後の歴史に脈々と生き続けます。3人の娘のうち、長女・茶々は豊臣秀吉の側室・淀殿に、二女・初は京極高次の妻に、そして三女・お江(小督)は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の妻となり、その娘・和子(まさこ)は後水尾天皇に入内して明正天皇を生み、その血脈は天皇家にまで受け継がれて行きました。 浅井長政に、従二位・権中納言が孫にあたる江戸幕府3代将軍・徳川家光から追贈されたのは、その死から約60年後の寛永9年(1632年)のことでした。 |


