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関東を代表する戦国大名と言えば、後北条氏が先ず思い浮かびます。 早雲から氏直までの5代に渡るおよそ100年の間、奇襲と謀略を使い分け、巧みな外交と卓越した民政で関東を支配し、関八州に独自の国家の樹立を目指したとさえ言われています。 北条早雲こと伊勢新九郎長氏の出自については諸説があり、いまだに謎に包まれていますが、最近では室町幕府政所執事伊勢氏の一族で、備中国荏原(えばら)荘に所領を持つ伊勢盛定の子とする説が有力とされています。応仁の乱から2年後の文明元年(1469年)、駿河の守護大名・今川義忠の側室だった妹・北川殿を頼り駿河へ下った早雲は、文明8年(1476年)、義忠の戦死後に起こった家督争いの調停役となり、北川殿の子の竜王丸(後の今川氏親)を当主に就けることに成功、駿河興国寺城主となります。 その後、延徳3年(1491年)、家督争いに端を発した混乱に乗じ、堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼして伊豆一国を手に入れることに成功。次いで、明応4年(1495年)には相模小田原城へ夜討ちをかけて城を乗っ取ったのをきっかけに関東へも進出し、永正13年(1516年)、相模一国の平定に成功します。 永正15年(1518年)、早雲から家督を継承した北条氏綱は、大永3年(1523年)頃、鎌倉幕府執権の座にあった「北条」に姓を改め、関東制覇の意図を明確なものとします。そしてその後の氏綱は、関東支配を巡って幕府勢力との対決と挑戦に明け暮れる日々を送ります。大永4年(1524年)、江戸城を攻略して武蔵に進出。享禄3年(1530年)の「小原沢の合戦」で大勝し、天文6年(1537年)には、幕府の関東管領職の地位にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の本拠・武蔵河越城の奪取に成功します。更に翌天文7年(1538年)には、「第一次国府台の合戦」の勝利で、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大します。 早雲、氏綱と続き、天文10年(1541年)に家督を継いだのが3代目の北条氏康。天文14年(1545年)の「河越夜戦」で大勝利を収め、その名を天下に知らしめると同時に、関東の覇者としての地位を盤石なものとします。この時代の外交政策で注目すべきは、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との間で姻戚関係を結ぶことで成立した「甲相駿三国同盟」です。氏康はこれによって背後の不安を除き、関東制覇へ向けて全力を傾ける条件を整えます。更に氏康は、三男氏照を武蔵滝山城主大石氏、四男氏邦を同じく武蔵天神山城主藤田氏の養子にそれぞれ入れることで、武力を用いることなく関東の諸将を懐柔する作戦を用います。これらは勢力拡大と共に北条氏に復し、支城支配を担うのでした。 氏康は民政や家臣団の再編成の面でも優れた手腕を発揮します。民政では、天文11年から12年(1542年〜43年)にかけて相模・武蔵で大規模な検地を実施して税制の整備を行ない、貫高制を基礎にした領国経営を行なうなど「領民第一主義」を貫き通しました。永禄2年(1559年)には、早雲以来の草創の功臣を軸とした家臣団の再編成に着手。領国拡大につれてその周辺にいる国人衆を押さえるため、各地の拠点に支城を計画配置し、各支城主の下、相模には玉縄衆、江戸には江戸衆という風に家臣団を衆別に編成します。この家臣団構成は、決して地縁的な結合だけでなく、譜代の家臣を軸に在地国人を共に編成するという斬新なものでした。 関東に君臨した後北条氏ですが、氏康までの時代が「攻勢」だったとすれば、4代目の氏政、5代目の氏直の時代は「守勢」だったと言えるかもしれません。徳川家康や奥州の伊達氏と同盟を結び、豊臣秀吉への対抗も目論みますが、天下の趨勢は既に秀吉に傾いており、天正15年(1587年)に出された「関東・奥羽両国惣無事令」が、後北条氏を追い詰めて行くことになります。
「関東・奥羽両国惣無事令」に服しなかった後北条氏が、家康を先鋒とする豊臣勢20万の大軍の攻略を受けてその歴史に幕を閉じたのは、それからわずか3年後の天正18年(1590年)のことでした。 |
戦国武将
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石田三成ほど、これまで間違ったイメージで語り継がれてきた人物はいないのではないでしょうか。 関ヶ原の合戦で徳川家康と真っ向から勝負を挑んで敗れたことから、江戸時代以降、いわば「虎の威を借る狐」と言った暗い印象がついて回った三成ですが、今日では、「義」を貫きそれに殉じた彼の生き方が大きく見直され、また多くの人々に支持されています。 三成は、歴史上に登場した時とその最期において、それぞれ有名な逸話を残しています。 彼が歴史の表舞台に現われるきっかけは、当時の近江長浜城主・羽柴秀吉との出会いでした。ある日鷹狩に出た秀吉が、喉が渇いて城下のさる寺に立ち寄り茶を所望した所、12、3歳の寺小姓が、先ずぬるい茶を大きな碗にたっぷりと入れて進め、2杯目は中くらいの碗に入れたやや熱くした茶を進め、更に3杯目には濃く熱い茶を小さな碗に入れて進めます。これに感心した秀吉が、寺の住持に頼んで連れ帰ったのが、土地の豪族の子であった石田佐吉、後の三成だったと伝えられています。これは実際には創作と考えられていますが、三成が少年時代から才気に富み機転の利く人物であったことは間違いないでしょう。 天正10年(1582年)、織田信長の死後、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成もその側近として次第に台頭し、秀吉が関白に任ぜられた天正13年(1585年)、従五位下、治部少輔に叙任され、秀吉から近江水口4万石を賜ります。この頃から三成の持って生まれた才能が発揮されて行きます。 三成の功績として先ず挙げられるのは、天正11年(1583年)から本格的に行なわれたとされる、所謂「太閤検地」に携わったことです。この太閤検地は、全国の耕地面積や収穫高が初めて明らかにされ、諸大名に与えられた領地の石高や勢力の実態を正確に捉えたものですが、三成は近江を始めとして、九州の島津領や美濃、常陸、奥州などの検地奉行として、豊臣政権の基礎台帳を固める役割を果たしました。天正15年(1587年)の九州征伐では兵糧や武具の輸送を担当する一方で、博多の復興にも尽力し、また、翌天正16年(1588年)には島津義久の秀吉との謁見を斡旋しています。 文禄4年(1595年)、三成は近江佐和山19万4千石を与えられますが、城下を治めるにあたって、9ヶ条から13ヶ条に渡る「掟書き」を出しています。ここには年貢などの供出方法の細かい取り決めが主に記され、年貢取り立て用の枡を統一して不正をなくし、百姓が迷惑するようなことはどんなことでも直訴して構わないと規定し、当時の大名たちから「三成ほど綿密な規定を定めた者は他にいない」と言われたほどでした。このように、行政官僚、民政家としては優秀であった三成も、天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、武蔵忍(おし)城を攻めるにあたって主君秀吉に倣い、備中高松城攻めで用いた「水攻め」を行ないましたが、大雨によって失敗に終わるなど、武将としての評価は芳しくなかったと言われています。 文官として豊臣政権の屋台骨を支えた三成でしたが、そのことが秀吉子飼いの武将である加藤清正・福島正則らの「武断派」との間で次第に対立を生み、文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の2度の朝鮮出兵はそれを決定的なものとします。慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉死去。「五大老」の1人・徳川家康の専横に「五奉行」の1人である三成は真っ向から対抗するも、前田利家の死後、清正たち7人の武将に追われ、家康の命により佐和山城へ蟄居を余儀なくされます。慶長5年(1600年)、家康が上杉討伐のため会津へ向かったのを機に、三成は精力的に行動します。かねてより親交のあった上杉家の執政・直江兼続と連携を取る一方で、西国の諸大名の大半を陣営に引き入れ、更に「内府(家康)ちがひの条々」を発して、家康から真っ向勝負を挑みます。この時の手腕と行動力こそ三成の面目躍如と言うべきものであり、この年9月15日の関ヶ原合戦へと導くことになりますが、武将として、また政治力においては家康に遠く及ばなかったことは、味方の裏切りもあって敗れてしまったことによって証明されてしまったと言わざるを得ないでしょう。 関ヶ原で敗れ、6日間の逃亡の後捕らえられて処刑されますが、刑場に引かれる途中の逸話もよく知られています。喉が渇いた三成が護衛の武士に湯を求めた所、代わりに干し柿を出され、「柿は痰の毒だから」と言って断り、それを笑われると、「大事を志す者は最後の瞬間まで命を大切にするものだ」と答えたといいます。 石田三成。慶長5年10月1日、京都・六条河原にて斬首。享年40歳。 最初にも書いたように、三成は狡猾で傲慢な野心家というレッテルを貼られていますが、これは江戸時代以降に作られたもので、己の役割を忠実に果たし、また主君秀吉や豊臣家に忠義を貫き通したことは、高く評価すべきでしょう。立場や性格から誤解され多くの敵を作ってしまった反面、彼に全幅の信頼を置き、また友情を結んでいた人々が多いことからも、三成という人物が持つ不思議な魅力が伺えます。
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甲斐国の守護大名であった武田氏は、武田信虎の代になって戦国大名へと転じ、その子・信玄の代となって強大な勢力となって行きます。 その全般的な戦略は、信濃侵攻、上杉謙信との川中島合戦、相模の北条、駿河の今川両家に対する戦略、そして西上作戦という4つの局面で見ることが出来ます。 四方を他国に囲まれて海を持たない武田氏は、先ず信濃を攻略して北陸、更には日本海への進出を目指します。信虎の時代、既に甲斐を統一して信濃への侵攻作戦を開始していましたが、それが本格化するのは天文10年(1541年)、嫡男・晴信、後の信玄が父を駿河へ追放して家督を相続してからのことになります。この信虎追放劇の背景には諸説あり、かつては父子同意説も挙げられましたが、今日では、信虎の圧政に苦しんだ領民が新しい領主の登場を期待し、それに応えた晴信が実行したとの説が通説となっています。 信濃侵攻は、甲斐・信濃国境付近の諏訪氏攻略から始まります。当時、守護小笠原氏の支配力が弱体化したことで、諏訪・佐久・小県などでは国人領主層が台頭していました。これらの攻略では、個別の切り崩し工作や撹乱などの前哨戦を十分に行なった上での城攻めが特徴でした。「戦国最強」と謳われた武田騎馬軍団を育て上げことでも知られる信玄でしたが、その戦歴を見ると野戦は意外と少なく、こうした戦法が常套手段でした。 天文11年(1542年)、妹婿にあたる諏訪頼重を攻略した際には、これと反目していた一族の高遠頼継や、諏訪上・下社神官の矢嶋氏、金刺氏らの在地有力者への内応工作を十分尽くした後に、頼重を降伏させています。天文16年(1547年)の志賀城攻略では、包囲戦と水場の破壊を徹底した上、籠城する笠原氏への援軍を小田井原の合戦で撃破し、その首級を志賀城の周囲に並べて籠城する兵の戦意を喪失させて、降伏へと追い込むことに成功しました。 諏訪・佐久を押さえた信玄は、次いで信濃守護・小笠原長時と葛尾城主・村上義清への攻略を開始。村上義清には天文17年(1548年)の上田原の合戦、同19年(1550年)の「戸石崩れ」と、2度に渡り苦杯をなめますが、その後巻き返し、天文21年(1552年)、翌22年(1553年)と長時・義清両人を立て続けに越後へと追いやります。 信玄に追われた北信濃の諸将が援軍を求めたのが、越後の長尾景虎、後の上杉謙信でした。彼らの失地回復という「大義名分」の立場で応じた謙信と信玄との間で、都合5回に渡る川中島の合戦が繰り広げられることになります。しかし、本格的な野戦となったのは、最も激しかった永禄4年(1561年)9月10日の第4次の合戦だけで、その他では極力対戦を避けています。そして日本海への進出は果たせなかったものの、信濃の領国化には最終的に成功したのでした。信玄の戦略は、用意周到に最小限の犠牲で領国拡大を目指すというもので、彼が理想とした『孫子』の兵法にある「戦わずして勝つ」の精神に通じるものでした。 信濃侵攻と並行して、関東の西上野でも上杉勢と交戦した信玄は、これが一段落すると従来の北進から南進へと政策を転換します。上杉勢と交戦出来たのは、北条氏康・今川義元との間で成立した「甲相駿三国同盟」の恩恵によって両氏への警戒が不要であったからですが、信玄はこれに固執することなく、状況に応じて対応出来る強みをもっていました。永禄11年(1568年)、義元亡き後今川家が弱体化した駿河への進出を画策し、大軍を率いて進攻。これに怒り信玄との絶縁を宣言した氏康とも戦いますが、元亀元年(1570年)、遂に駿河一国を手中に収め、130万石を領することになります。 元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなり再び北条氏と手を結んだ信玄は、翌元亀3年(1572年)10月に上洛作戦を敢行します。その行く手を阻んだのが織田信長と徳川家康でした。同年12月の三方ヶ原の合戦で家康軍を撃破した信玄でしたが、その直後病に倒れ、天正元年(1573年)4月12日、信濃駒場で53年の生涯を閉じ、彼の野望も同時に潰えたのでした。
信玄の後を継いだ武田勝頼が、信長・家康の勢いに押され、家臣たちの裏切りに遭った末に甲斐天目山で自害し、武田氏が滅亡したのは、信玄の死から9年後の天正10年(1582年)3月のことでした。 |
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「歴史に『もしも』は禁物」とよく言われます。 東西を問わず、歴史についての「もしも」を考えはじめるとキリがありませんが、とりわけ豊臣秀吉、そして豊臣家の興亡に関しては様々な「もしも」が思い浮かんできます。 その中の1つに、「もしも、弟・秀長が長生きしていたら、豊臣家とその政権はどうなっていたか?」というものがあります。 豊臣秀長は、天文9年(1540年)生まれ。通称は小一郎といい、初めは「長秀」という名前でした。通説では秀吉の異父弟と伝えられていますが、父母共に同じとする説もあります。 兄・秀吉が織田信長に仕えて数年後、兄の要請により仕えるようになったのは、秀吉が妻・おね(後の北政所)と婚礼を行なった永禄7年(1564年)以降という説が多く、元亀元年(1570年)の所謂「金ヶ崎城撤退戦」では第一備えの大将に任命され、天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して伊勢長島に出陣できなかった際には、その代理として出陣しています。秀吉は直筆に当て字や癖が多く、細かい書状関係の仕事は苦手だったという説があり、秀長が直筆していた可能性も高く考えられています。地味で細かい作業を兄から託されていたことが、秀長に「補佐役」というイメージが定着する要因となったものと見られています。 秀長が武将としての真の実力を発揮するのは、天正5年(1577年)、信長の命を受けて中国平定に着手することとなった兄を助けることになってからのことです。但馬竹田城主に任じられた秀長は、天正8年(1580年)、播磨三木城攻めに参加し、三木城が陥落するとすぐさま但馬に戻って独力で平定。次いで因幡に進撃して鳥取城を攻め、天正9年(1581年)には開城させます。 天正10年(1582年)6月2日の「本能寺の変」の後、秀吉が信長の後継者となって天下人への道を突き進む中、秀長も山崎合戦、賤ヶ嶽合戦、天正13年(1585年)の紀州雑賀攻め、それに兄の代理として総大将を務めた四国征伐と次々と戦功を収め、特に四国征伐ではわずか2ヶ月で平定を成し遂げます。これらの功績が認められ、所領として紀伊・和泉・大和を与えられた秀長は、大和郡山城主となり116万石の大大名となります。更に、天正15年(1587年)の九州征伐でも先鋒の大将を務め、平定事業を殆ど完了させた功績によって、同年8月に従二位・大納言に任じられ、以後「大和大納言」と呼ばれるようになります。ここまで見ても、秀吉の天下統一事業において、秀長の存在と貢献がいかに大きかったかがお分かり頂けるでしょう。 武将としても優秀だった秀長は、人間的にも温厚な人格者として諸大名からの信頼も厚かったといいます。寺社勢力の強かった大和や「雑賀衆」の拠点であった紀伊の支配を秀吉が命じたのも、秀長の人柄と手腕を見込んだからであり、秀長もその期待に応え、特権的同業組合であった「座」の廃止など、多くの経済政策を断行しつつ、焼失した東大寺大仏殿の再興にも尽力しました。秀吉は人材発掘に長けたことでも知られてますが、秀長もその面においても優れており、何度も主君を変えた武将として知られる藤堂高虎や、豊臣政権や江戸幕府で代官、茶人として活躍する小堀政一(まさかず、遠州)なども秀長の重臣として活躍していました。一方、鳥取城攻めの際には米穀を買い占める戦略を用い、また、『多聞院日記』という書物によれば、天正16年(1588年)、紀州雑賀で代官に命じて材木2万本を売らせてその代金を着服するなど、経済感覚に優れ、蓄財にもうるさい一面もあったと伝えられています。 秀吉の文字通り「片腕」であった秀長ですが、天正18年(1590年)頃から病に倒れ、翌天正19年(1591年)1月22日、51歳で亡くなってしまいます。秀長の死後、千利休の切腹に朝鮮出兵、それに養子・豊臣秀次を死に追いやるなど、秀吉の行動には狂気が目立つようになり、豊臣家の滅亡を早める結果をもたらします。
繰り返しますが、「歴史に『もしも』は禁物」と言われます。秀吉にとって「賢弟」であり「名臣」でもあった秀長は、後世の我々に多くの「もしも」を残す形でこの世を去って行ったのでした。 |
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織田信長。豊臣秀吉。徳川家康。 俗に「戦国三英雄」と呼ばれるこの3人とそれぞれ濃密な関わりを持った武将は、意外とそう多くはありません。 その「意外と多くない」中の一人として、「加賀百万石」の基礎を築いた前田利家がいます。 利家は、尾張荒子城主・前田利昌の四男として、天文7年(1539年)に生まれます。幼名は犬千代。14歳との時に、5歳年上の織田信長に仕え、元服して又左衛門を名乗るようになります。 青年期の利家は血気盛んで、「槍の又左」の異名を持っていました。長身且つ美男子であり、特別作りの槍を家来に持たせて派手な格好で練り歩き、その上喧嘩好きだったので、利家が来るのを見ると皆が道を開けたという逸話が伝えられる程の、いわゆる「かぶき者」であったそうです。主君の信長も、若い頃は「うつけ者」と呼ばれただけに、「自分によく似た男」である利家には共感を覚えたのかもしれません。 しかし、そんな利家も一度だけ信長の逆鱗に触れたことがあります。永禄2年(1559年)、拾阿弥という茶坊主と諍いを起こした末に斬殺したことで、信長から勘当されてしまいます。翌永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間合戦に秘かに参加した利家は、得意の槍を振るって戦いますが、ここでは信長の許しは得られません。利家の帰参が叶ったのは、翌年5月の森部の合戦での働きが認められてのことでした。 浪人中に父・利昌が亡くなった後、前田家は長男・利久が家督を継ぎましたが、永禄12年(1569年)、利家は信長に命じられて前田家の家督を継ぎます。家督継承後の利家は、元亀元年(1570年)の姉川合戦、天正2年(1574年)の長島一向一揆、天正3年(1575年)5月の長篠合戦などに参戦し、信長の「天下統一」事業に従います。長篠合戦については、「長篠合戦図屏風」に鉄砲隊を指揮する利家の姿が描かれています。同じ年、前年に越前一向一揆を鎮圧した手柄が認められ、越前府中(現在の福井県越前市)三万三千石の大名に昇進します。 天正9年(1582年)6月2日の「本能寺の変」は、利家にとっても人生最大の転機となります。山崎合戦を経て、織田家の後継人事などを決める「清洲会議」で明智光秀を討った羽柴秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家との対立が激化し、利家もこの争いに巻き込まれます。与力を務め日頃から「おやじさん」と慕っていた勝家と、旧友である秀吉との「板挟み」となった利家でしたが、天正11年(1583年)の賤ヶ嶽合戦では初めは勝家に与したものの、合戦の最中に撤退、府中城に立て籠もります。この時、戦に敗れて逃げる途中の勝家が利家の元へ立ち寄り、湯漬けを所望したという逸話があるそうです。そして、秀吉に降伏すると、勝家の居城・越前北ノ庄城攻めの先鋒を務め、戦後、加賀金沢城に移ります。天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦では、徳川家康らに呼応して能登へ侵攻した佐々成政を撃破し、翌天正13年(1585年)に成政が秀吉に降伏すると、加賀・能登・越中の三国を支配するようになります。 豊臣政権下に入った利家は、九州征伐や天正18年(1590年)の小田原合戦に参戦した他、奥州の伊達政宗などに豊臣家の服従を求める交渉役も務め、秀吉の元の名である「羽柴筑前守」を貰い受けるなど、秀吉から全幅の信頼を寄せられるまでになります。秀吉の最晩年には「五奉行」の一人に名を連ねますが、利家は家康に次ぐ地位にあり、この2人だけが秀吉亡き後の執政として特別な地位にありました。 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は、幼い実子・秀頼の将来を利家と家康に託し、62年の生涯を終えます。秀吉の死後、秀頼の後見人となった利家が直面したのが、豊臣家を蔑ろにする家康の横暴と、石田三成ら「文治派」と加藤清正・福島正則ら「武断派」との秀吉恩顧の武将たちの対立でした。既にこの頃病に侵されていた利家は、「自分が死ねば天下は麻の如く乱れるであろう」という言葉を残し、秀吉の死からわずか8ヶ月後の慶長4年(1599年)閏(うるう)3月3日、62歳で世を去ります。 利家の死後、家康は加賀征伐を検討し、利家の嫡男・利長も応戦する構えを見せますが、利家の妻・芳春院(まつ)が人質になることを条件に撤回され、「加賀百万石」も保たれたのでした。 関ヶ原合戦で家康が三成を破り、事実上天下の覇者となるのは、利家の死から約1年半後の慶長5年(1600年)9月15日のことでした。 信長に見い出され、秀吉からは「律義者」と信頼を寄せられ、そして、家康が最も恐れた前田利家。
3人の生涯にもそれぞれ少なからぬ影響を与えた利家は、戦国時代における隠れた実力者であったと言えるでしょう。 |


