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「中興」とは、「一旦衰えたものを再び盛んにすること」という意味を持ち、「中興の祖」とは、「『中興』を成し遂げた祖先」を指すと、国語辞典では説明されています。 数ある戦国武将の中で、この「中興の祖」と呼び名が相応しい人物として、怒濤の勢いで九州を制覇した薩摩の島津四兄弟、義久・義弘・歳久・家久の父・島津貴久がいます。 貴久は、永正11年(1514年)5月5日、島津家の分家・伊作島津家の当主・島津忠良の嫡男として生まれました。父・忠良は、後に「日新斎」(じっしんさい)と号し、島津家の精神的支柱となる「いろは歌」を作るなどして、今日でも薩摩人の間では神格化されている人物です。貴久が生まれた当時の島津家は、「薩州家」「相州家」「豊州家」などに分裂しており、宗家の家督と薩摩・大隅・日向の守護職継承を巡って激しく対立していました。貴久の父・忠良の伊作島津家は決して有力な分家ではありませんでしたが、大永6年(1526年)、貴久が13歳の時に島津宗家第14代当主・島津勝久の養子となったことから、運命が変わります。有力な分家であり、かねてより宗家の家督を狙っていた「薩州家」の島津実久は、これに不満を持ち、忠良・貴久親子を攻撃。この時、実久は前当主の勝久を籠絡して擁立したため、貴久が離縁されるなどして一旦は苦境に立ちますが、その後再起を図った忠良・貴久は、10年余りに及ぶ戦いの末、天文7年(1538年)に実久を降伏させて勝利し薩摩半島の平定に成功。やがて天文14年(1545年)に名実共に島津本家を継承します。 島津本家継承後の貴久は、父や忠将ら兄弟、それに義久・義弘・歳久・家久の4人の息子たちと共に、薩摩・大隅・日向の三州統一に奔走し、徐々に勢力を拡大して行きます。永禄9年(1566年)、53歳の時に、家督を嫡子義久に譲り、出家して「伯囿」(はくゆう)と号しますが、それでも戦陣を離れることなく、4人の息子たちの活躍を見守りました。 島津家は室町時代から明や琉球と交易を行なっており、貴久も外交政策を積極的に展開します。我が国で最初の鉄砲が種子島に伝来したのは天文12年(1543年)のことですが、それから7年後の天文19年(1550年)、貴久は大隅への勢力拡大のために蒲生氏を戦った岩剣(いわつるぎ)合戦でこれを使用し、これが我が国において実戦で鉄砲を用いた最初の合戦になります。琉球王とは修好と結んで貿易を奨励し、天文18年(1549年)に来日した宣教師・フランシスコ=ザビエルに対してはキリスト教の布教許可も出しました。しかし、これに関しては現地の寺社や国人衆から激しい反対を受けたことでわずか1年ほどで布教を禁止し、ザビエルも鹿児島を去って行きました。 貴久は内政にも深い関心を寄せており、実久ら反対勢力を一掃した直後の天文8年(1539年)に父・忠良と連名で10ヶ条から成る掟を公布しました。『島津中興記』という書物の記載によれば、これには、若い者たちは武芸や水練、山歩きを行なうことで、日頃の鍛錬を怠らないこと、困窮する者がいた場合には、百姓・郎党も遠慮なく直接申し出るべきこと、役人が誤った裁きを行なったり庶民の訴えを不当に退けることがあった時には「我等父子」、つまり忠良や貴久に直訴すべきこと、忠良や貴久に不都合なことを見て取った時には諫言すべきこと、などの条々があるそうです。これこそ、平時にあっても常に政に対する心配りを怠ることのなかった貴久の人柄を伝える逸話であり、その証であると言えるでしょう。 島津貴久は、島津氏が九州制覇へ向けて本格的に動き始めた元亀2年(1571年)6月23日に没します。時に貴久、享年58歳。在世中は島津家の軍事・経済基盤を強固なものにするなど多大な功績を遺しましたが、やはりこの人の最大の功績は、それぞれ異なる、しかし豊かな個性を持った4人の息子たちを世に送り出し、後の島津氏の飛躍の土台を築いたことでしょう。貴久、そして忠良の存在なくして島津家の九州制覇はあり得なかったと言え、その意味でもまさに「中興の将」であったと言えます。
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戦国武将
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戦国時代に限らず、俗に「二代目」と称される人物は、何かと影が薄い人物として捉えられがちのようです。それは持って生まれた宿命と言えるのかもしれません。 しかし、「二代目」が必ずしも器量の劣る人物ばかりであるとは限りません。むしろ、先代の遺業を継承しながら、それを超える業績を遺した人物も数多くいるのです。 その代表的な人物として、小田原北条氏の「二代目」である北条氏綱について書きたいと思います。 戦国時代の幕を開けた人物と評される一代の風雲児・北条早雲(伊勢新九郎長氏)の長男として氏綱が生まれたのは長享元年(1487年)のこと。氏綱が生まれた当時、応仁の乱が起こってからまだ20年しか経っておらず、父・早雲は駿河興国寺城主の座に就いて着々と地力を養っていました。これからまさに戦国乱世が本格化しようとする時期に生まれ育った氏綱は、永正15年(1518年)に父から家督を継承し、小田原北条氏の勢力を更に拡大させていくことになります。 「小田原北条氏」と言いますが、そもそも「北条」の姓を名乗り始めたのが氏綱の代からであることはあまり知られていないようです。氏綱がこの姓を名乗るようになったのは大永3年(1523年)頃とされ、鎌倉幕府執権の座にあった北条氏への改姓は、室町幕府の関東管領職の地位にあった山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏を意識したもので、明らかに関東制覇を意図したものであったと見られています。また、早雲の代には伊豆韮山城であった居城を相模小田原城に移したのも氏綱でした。 武将としての氏綱は、「北条」姓への改姓の経緯にも表われている通り、関東支配を巡る幕府勢力への挑戦と対決に明け暮れたと言えます。大永4年(1524年)、江戸城を攻略して武蔵に進出した氏綱は、享禄3年(1530年)の「小原沢の合戦」では、嫡男・氏康と共に扇谷上杉氏の当主・上杉朝興と戦ってこれに大勝。更に天文6年(1537年)、朝興の死後、家督を継いだ嫡子・朝定が若年であることにつけ込み、扇谷上杉氏の本拠である武蔵河越城の奪取に成功します。翌天文7年(1538年)、下総を拠点とする小弓(おゆみ)公方の足利義明が安房の里見義堯らと組んで侵攻すると、氏綱は「第一次国府台の合戦」で、劣勢にありながらも足利・里見連合軍を破った上、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大します。 氏綱は政治家としても優れた手腕を発揮し、父・早雲を超えていたとも言われています。検地を実施することで家臣団と領民の統制を図り、奉行衆・評定衆を設置するなどして、北条氏繁栄の基礎を築き上げました。後継者の育成にも心を砕いており、天文10年(1541年)5月に嫡男・氏康へ宛てた「五か条の訓戒状」には、「義」を大事にすること、人を慈しむこと、己の分を弁えること、倹約に勤しむこと、戦に勝ち続けることで「驕り」や「侮り」の心を持たないようにすること、といった、当主として必要な心構えが記されています。 関東に勢力を拡大する一方、甲斐の武田信虎、駿河の今川義元、それに山内上杉氏の当主・上杉憲政と組んで反攻の機会を伺う上杉朝定ら近隣の諸将との対立が激しくなる中、北条氏綱は、天文10年7月19日、55歳で世を去ります。
初代早雲の後を継承し、氏康などの後継者を育て、自らも優れた足跡を遺した氏綱は、戦国時代における「偉大なる二代目」であったと言えるでしょう。 |
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豊臣秀吉の生涯において、彼に大きな影響を与えた二人の「軍師」の存在がありました。 一人は先日紹介した竹中半兵衛重治、そしてもう一人が、今回紹介する黒田官兵衛孝高(よしたか)、後の如水です。 厳密に言えば、秀吉の前半生を支えたのが竹中半兵衛で、後半生を支えたのが如水であったと言えるでしょう。 官兵衛は天文15年(1546年)、播州姫路の生まれ。彼の家は一介の目薬売りから身を興してのし上がった新興豪族でしたが、戦国乱世を独立して生き抜く力を持っていなかったため、当時、東播磨で勢力を誇っていた小寺(おでら)家に臣従し、姫路城代を務めました。 天正5年(1577年)、織田信長から中国征伐の総大将を命じられた羽柴秀吉が播磨に攻め寄せると、官兵衛は織田につくか毛利につくかその去就に迷っていた主君・小寺政職(まさもと)を説得して織田家への協力を取り付け、自らは居城の姫路城を明け渡し、毛利攻略の先導役を買って出ます。この時、官兵衛は長男・松寿丸、後の黒田長政を人質として安土の信長の元に送っています。 しかし、翌天正6年(1578年)、官兵衛に人生最大の危機が襲いかかります。味方の摂津有岡城主・荒木村重が突如信長に謀叛を起こして籠城。官兵衛は旧知の間柄である村重を説得するため、単身有岡城へ乗り込みます。ところが、有岡城へ到着した直後、官兵衛は捕らえられて城内の牢へ投獄されてしまいます。実は、主君・小寺政職から村重の元に密使が来て、「官兵衛が来たら直ぐに殺すように」と言って来ていたのでした。村重の友情で殺されなかったのが官兵衛にとっては不幸中の幸いでしたが、およそ1年間、殆ど陽の当たらない牢獄での幽閉生活を強いられ、一方で、官兵衛も自らを裏切ったと誤解した信長から子の松寿丸の殺害が命じられます。天正7年(1579年)、有岡城は落城し、官兵衛も救出されますが、陰惨な幽閉生活の後遺症で足が不自由となってしまいます。 幽閉生活から生還後、信長、そして秀吉から更に厚い信任を得た官兵衛は、竹中半兵衛亡き後の秀吉の参謀役として活躍。天正10年(1582年)の備中高松城水攻めも指揮します。その最中に起こったのが、同年6月2日の「本能寺の変」。主君信長の死に茫然とする秀吉に対して官兵衛が発した一言が、結果的にその後の二人の運命に大きな影響を与えたと、後世伝えられています。 「御運の開かれる時が参りました」 この時、秀吉はニッコリと笑ったと同時に官兵衛に対して「油断のならぬ奴」という思いを強く抱いたと言われています。6月13日、秀吉は山崎合戦で明智光秀を破り、その後、天正13年(1585年)の四国征伐、天正15年(1587年)の九州征伐でも活躍した官兵衛は、秀吉の天下取りに大いに貢献しましたが、その恩賞として与えられたものは、わずかに豊前中津12万石に過ぎませんでした。これは、秀吉が官兵衛の並外れた才覚を警戒し始めたからだと言われています。 文禄2年(1593年)、秀吉の朝鮮出兵の最中、48歳の官兵衛は剃髪して隠居。この時から「如水」を名乗り、歌を詠み茶の湯を嗜む静かな日々を送ります。しかし、慶長3年(1598年)8月18日、太閤秀吉の死後、天下が再び風雲急を告げる中、徳川家康挙兵の知らせを受けて、如水も直ちに挙兵。豊前石垣原で西軍方の大友義統(よしむね)を破りますが、「天下分け目」と謳われた関ヶ原の合戦は、息子・長政の活躍もあってわずか一日で家康の勝利に終わってしまいます。後に家康から軍功を讃えられ、右手を握られたことを得意げに話す息子に対して、如水は「その時、お前の左手は何をしていたのか?」と言ったと伝えられています。 晩年の如水は、長政が建てた質素な館で、歌を詠み茶の湯を嗜む悠々自適の余生を送り、関ヶ原の合戦から4年後の慶長9年(1604年)3月、59年の生涯を終えます。 生前の秀吉にして、「自分が死んだらあの男が天下を取るであろう」とまで言わしめた黒田如水。
「如水」という号そのままに、彼の一生は、「激しさ」と「静かさ」が交互に訪れた、まさに水の流れのような波瀾に満ちたものであったと言えるのかも知れません。 |
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天性の才能と類稀なるバイタリティーで戦国乱世を生き抜き、「天下人」にまでのし上がった豊臣秀吉。 しかし、彼の天下取りは、多くの人々によって支えられたものであったこともまた事実です。 戦国時代を代表する「軍師」として名高い竹中半兵衛も、秀吉の天下取りを支えた1人です。 美濃菩提山城主・竹中重元の子として、天文13年(1544年)に生まれた半兵衛こと竹中重治が、初めて歴史の表舞台に登場するのが、永禄7年(1564年)のこと。その2年前の永禄5年(1562年)に父の死に伴い家督を継いだ半兵衛でしたが、主君である稲葉山城主・斎藤龍興から疎んじられた上、その失政ぶりに憤慨。同家に仕える「美濃三人衆」の1人で、岳父にあたる安藤守就や弟の重隆と相談して、この年の2月6日、稲葉山城の奪取にわずか1日で成功します。当時、美濃侵攻の機会を伺っていた尾張の織田信長は、半兵衛に稲葉山城を明け渡すように要求しますが、半兵衛はこれを拒否。8月には龍興に城を返還して、自らは隠棲生活に入りますが、この出来事によって逆に信長の信頼を得たと言われています。 隠棲後、世捨て人同様の生活を送る半兵衛の元へ足しげく通うようになったのが、信長の家臣であった木下藤吉郎、後の秀吉で、「三顧の礼」を用いて半兵衛を家臣に迎えたと、秀吉を主人公にした伝記には記されていますが、これについては、『三国志演義』での劉備玄徳が諸葛亮孔明を迎える「三顧の礼」の逸話がモデルであると指摘されています。実際に半兵衛が秀吉に属するようになったのは元亀元年(1570年)頃からで、同年の姉川の合戦に出陣し、近江と美濃の国境の武将を織田方に引き入れるのに功績があったと言われています。姉川の合戦後は近江横山城代として城主の秀吉を支え、浅井長政の軍勢に城を攻められた際にはこれを撃破しています。天正5年(1577年)、秀吉が中国遠征の総司令官に任命されると、半兵衛も与力としてこれに参加しました。 優れた軍略家として語り継がれている半兵衛ですが、それ以上に、人間としての器の大きさについて語られることも多いようです。その代表的な逸話と言えるのが、後にこれも秀吉の「軍師」として活躍する黒田官兵衛(如水)とその子松寿丸(後の黒田長政)をめぐるものでしょう。天正6年(1578年)、信長の家臣であった摂津有岡城主・荒木村重が謀叛を起こし、その説得役となった官兵衛は捕らえられ、幽閉の身となってしまいます。官兵衛も裏切ったと誤解した信長は激怒し、子の松寿丸の殺害を命じます。幼い松寿丸を殺すことに忍びなかった秀吉が頼みにしたのが半兵衛で、彼に松寿丸を匿わせたのでした。華奢な体格であったという半兵衛は、この頃既に病に侵されており、京都で養生するように戒めた秀吉に対して、「陣中で死ぬことは武士の本望」と断ったと伝えられています。そして、天正7年(1579年)6月13日、播磨三木城外の平井山の陣中で亡くなります。竹中半兵衛重治、時に36歳でした。 竹中半兵衛の「天才軍師」としての人物像については、子の竹中重門によって書かれた『豊鑑』や軍記物の『太閤記』など、江戸時代の書物や講談によって形成され、誇張されて行った部分が大きいと言われており、また「知らぬ顔の半兵衛」という諺も、そうした半兵衛の逸話から生まれたとされています。
しかし、普段は目立たなかったが、武士としても人間としても優れた心掛けの持ち主であったと言われる点にこそ、この人の「素顔」を垣間見るように感じます。 半兵衛の死後、彼の役割は幽閉生活から解放された黒田官兵衛に継承され、秀吉の「天下取り」に貢献することになります。 |
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戦国乱世を生きた武将たちにも、武力によって台頭した者、戦略を駆使して勝ち抜いた者、父祖が築いた地盤などを受け継ぎ、より勢力を拡大した者など、様々なタイプの人物がいました。 そんな中で、「知性」と「教養」を武器にこの時代を生き抜いた異色の武将がいます。細川藤孝、後の幽斎がその人です。 藤孝は、室町幕府の奉行衆であった三淵晴員(みつぶち・はるかず)の次男として京都東山に生まれ、7歳の時に父の実兄である細川元常の養子となり、細川姓を名乗るようになります。しかし、一説には12代将軍・足利義晴の落胤であるとも伝えられており、その出自については謎めいた部分もあります。天文23年(1554年)、養父の死によって家督を相続。時の将軍・足利義藤(後の13代将軍義輝)から一字を貰い、「藤孝」を名乗ります。 藤孝の人生最初の転機は、永禄8年(1565年)5月。将軍義輝が松永久秀らによって暗殺され、難を逃れた藤孝は、義輝の弟で奈良一乗院に入っていた覚慶(後の15代将軍義昭)を救出し、強力な後援者を求めて諸国を放浪します。漸く越前の朝倉義景の元に身を寄せますが、この時出会ったのが、生国美濃を出て諸国を放浪していた明智光秀。ここから2人の友情が生まれます。 義昭を将軍職に就けるため朝倉氏を頼みにしたものの、当主義景にその力がないと判断した藤孝は、これより先に光秀が仕えていた織田信長に接近し、義昭の後ろ盾になることを依頼します。永禄11年(1568年)9月に義昭が入京を果たすと、以後山城国勝竜寺城主として大和・摂津を転戦しながら幕府奉行衆として諸政を担当します。しかし、義昭と信長の対立が表面化すると、初めは両者の仲介役を務めていた藤孝は次第に信長に接近するようになり、天正元年(1573年)、義昭の挙兵を機に遂にこれを見限り、以後、信長の部将として活動します。同じ信長の部将であった光秀とは、彼の領国である丹波の経営にも力を貸し、また、光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)と藤孝の嫡男・忠興が姻戚関係を結ぶなど、その絆は次第に強くなって行きました。 しかし、天正10年(1582年)6月2日。光秀は本能寺において信長を討ちます。この時、光秀が最も頼りとしたのが長年の盟友である藤孝でしたが、藤孝はその要請を断り、信長の死を惜しんで剃髪。「幽斎」と号して、家督も忠興に譲ります。6月13日、光秀は山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ、以後の幽斎は、天下人にのし上がった秀吉に重用されます。この時こそ、細川幽斎、人生最大の転機だったと言えます。 幽斎が他の戦国武将と明らかに異なる点は、並外れた学識と教養の持ち主であったことでしょう。剣を塚原卜伝から学ぶなど、武術にも秀でていたと言われていますが、その学識の高さを最も示しているのが、三条西実枝や九条稙通(たねみち)らから和歌を学び、藤原定家・為家の歌論から、古今・新古今調和歌の作法、字句解釈の秘訣を受け継ぎ、いわゆる「古今伝授」の当時唯一の継承者となったことです。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で東軍に付いた幽斎は、丹後田辺城に籠城し西軍方を相手に奮戦します。この時幽斎を助けたのが時の後陽成天皇。天皇の弟である八条宮智仁親王は幽斎の和歌の門人であり、幽斎の死によって「古今伝授」の継承が途絶えることを危惧した天皇の勅命によって、幽斎は田辺城を開城し、丹波亀山城に入ることが出来ました。およそ戦国武将らしからぬ、しかし「芸は身を助ける」を地で行くような、いかにも幽斎らしい逸話であると思います。 足利将軍家から信長、秀吉、そして徳川家康と、並外れた教養と卓越した外交手腕を武器にその流れの中を泳ぎ切った細川幽斎は、慶長15年(1610年)8月20日、京都で77年の生涯を終えました。
常に天下の趨勢を鋭く、そしてしたたかに見つめ続け、しかも寸分の狂いもなかった彼の処世術からは、底知れぬ「凄味」すら感じられ、その生き様は戦国武将の中でも間違いなく第一級のものであったと言えるのかもしれません。 |


