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明智光秀という人物は、一般的にどのようなイメージで見られているのでしょうか。 文武両道に優れ、戦国武将らしからぬ繊細さを持った人物として捉えられている一方で、本能寺で主君・織田信長を討った「逆臣」、或いは「三日天下」という印象のみで語られることも多くあります。 光秀とは果たしてどのような人物だったのか、そしてなぜ「本能寺の変」を起こすことになったのかを中心に書いて行きたいと思います。 光秀の生い立ちや青年期に関しては不明な点が多く、通説では美濃国の守護であった土岐氏の一族で、この地の豪族であった明智光綱の子であると言われています。軍記物語では、「美濃の蝮」と呼ばれた斎藤道三に仕えるも、道三とその子の義竜との争いで道三方に味方したために義竜に攻められて一族は離散。その後浪人して、長く不遇な諸国遍歴を経て、当時越前の朝倉家の許に逃れていた足利義昭を征夷大将軍の座に就けるために織田信長の使者となり、それがきっかけで永禄11年(1568年)に信長に見い出されます。この時、光秀41歳であったと伝えられています。 信長に見い出された翌年の永禄12年(1569年)頃から、木下秀吉(後の豊臣秀吉)と共に信長支配下の京都近辺の政務に当たります。やがて征夷大将軍となった義昭と信長が対立するようになると、義昭と袂を分かって信長直属の家臣となり、数々の戦功を挙げます。元亀3年(1572年)には近江国の一部を与えられ、自らの居城である坂本城を築城。天正3年(1575年)には、「惟任」(これとう)の苗字と「日向守」の官職を与えられ、更にその4年後の天正7年(1579年)には、丹波一国を平定してこれを与えられます。天正9年(1581年)、信長が軍事デモンストレーションである「京都御馬揃」を行なった際にはその運営を任され、この職務を全うします。このように、信長家臣団の中でも屈指のエリート部将として、光秀は着実に成果を収めていくのでした。 光秀は、若い頃から剣術、城攻め、鉄砲術から連歌、茶の湯に至るまで諸学に通じた稀代の秀才であったと言われ、また内政でも優れた手腕を発揮しました。京都に福知山市という町がありますが、同地は光秀が「福智山」と名付けたのが地名の由来だそうです。光秀は治水工事、町の縄張り、商業政策を通じて善政を布き、福知山の人々は現在でも光秀の遺徳を偲び、また彼を祀る御霊神社もあります。 戦国武将の中でも類稀なインテリであり、また人格者でもあった光秀が、なぜ本能寺で信長を討つに至ったのか。様々な理由や憶測が現在まで飛び交っていますが、結論から言えば、いまだに確固たる原因や真相については不明です。 これまで述べられたものとしては、相性が良くなかったという信長への長年の恨み説、かつての主君である足利義昭の指令説、信長の介入を恐れた朝廷の令旨説などがありますが、いずれも決定的なものではありません。また、本能寺を襲う直前に京都の愛宕山へ参籠した際、「時は今 雨が下しる 五月かな」という和歌に自らの決意を託したとされる逸話が今日まで伝えられていますが、これも後世こじつけられた可能性が高く、さらに「敵は本能寺にあり」の言葉は光秀ではなく、江戸時代の学者で詩人の頼山陽によるものです。 天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺を襲撃して信長を自害させ、京都を押さえます。しかし、光秀に対する諸将の対応は冷たく、更に追い討ちをかけたのが、「中国大返し」によって引き返して来た羽柴秀吉でした。本能寺の変からわずか11日後の6月13日、山崎の合戦で秀吉軍に敗れた光秀は、領地である坂本へ落ち延びる途中、京都小栗栖の竹藪で落武者狩りの土民に竹槍で討ち取られます。享年55歳と伝えられています。しかしこれにも異説があり、光秀は小栗栖で死なず、南光坊天海となって徳川家康の側近の僧侶として活躍したと言われています。
数ある戦国武将の中でも光秀は最も有名な人物の1人と言えるでしょう。しかし、光秀ほど謎が多く複雑な人物も他にいないのではないでしょうか。 |
戦国武将
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数々の苦難と忍耐の末に、天下の覇者となった徳川家康。 その原動力となったのは、終始彼に忠義を尽くし戦場で体を張り続けて来た、いわゆる「三河武士」たちの活躍でした。 武田信玄を支えた部将たちが「武田二十四将」と謳われているように、家康の家臣団の中でも特に代表的な部将たちは、俗に「徳川四天王」と呼ばれ、後世まで語り継がれてきました。 「徳川四天王」とは、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人のことを指します。 酒井忠次は4人の中でも最年長に当たり、家康よりも年長のただ一人の人物でもあります。家康がまだ三河・遠江の戦国大名だった時代から既に徳川家の重臣として活躍しており、遠江の武士を旗本として直轄していた家康、西三河の武士を統括していた石川数正と共に、忠次は東三河の武士を配下に従える一司令官を務め、青年期から壮年期にかけての家康を補佐してきました。 しかし一方で、忠次は悔やんでも悔やみ切れない失態を犯してます。それは、天正7年(1579年)、家康の嫡男・信康を結果的に死に追いやってしまったことです。信康の正室徳姫は織田信長の娘でしたが、今川家の重臣の娘である家康の正室築山殿と不仲で、築山殿と信康が共謀して武田家と内通したという手紙を信長へ送ります。信長が忠次と大久保忠世の2人を問いただした所、両人とも弁解出来なかったため、信長は築山殿と信康の処分を家康に命じ、家康はそれを応じざるを得ませんでした。家康は、この件に関しては終生忠次に「恨み」を抱いていたそうです。 「家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八」と狂歌にも詠まれたのが本多忠勝。「平八」とは彼の通称「平八郎」のことです。松平家の代から先祖代々仕えた家の出である忠勝は、家康の合戦の殆どに参加し、勇猛果敢な働きを見せました。元亀3年(1572年)10月13日の一言坂の戦いでは殿軍(しんがり)を務め、大軍を持って追撃した武田軍に対して、見事な働きで味方の軍を引き揚げさせました。「家康に過ぎたるもの…」と詠まれたのもこの時だそうです。13歳で桶狭間の合戦に従軍以来、53歳の時の関ヶ原の合戦まで57度も合戦に臨み、ただの一度も体に傷を負わなかったという文字通りの「つわもの」でした。 戦での華々しい活躍が語り草となっている忠勝に対して、榊原康政は地味な存在です。しかし、野戦・城攻めと、どんな戦でも徳川家の先鋒を務め、元亀元年(1570年)の姉川合戦では、越前の朝倉軍と対決して勇ましく突き進み、勝利の原動力となったと伝えられています。天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦の際には、家康・羽柴秀吉両軍の睨み合いの最中、秀吉の「悪行」をこき下ろす檄文を諸大名に配り、決起を促しました。初めはそれに激怒し10万石もの懸賞をその首に賭けた秀吉も、次第に康政のことが気に入り、「豊臣」の姓を与えたほどでした。関ヶ原の合戦では徳川秀忠に従いましたが、信州上田城で真田昌幸の奇襲に遭って関ヶ原に間に合わず、生涯の痛恨事となりました。 井伊直政は、忠勝・康政とも一回りほどの年齢差があり、また家康に仕え始めたのもずっと後のことでした。井伊家自体も、徳川譜代の中でも新参にあたります。しかし、政治的手腕と果敢な戦闘力が家康に愛され、武田の旧臣の大部分を付属させた直政の軍は、忽ちにして徳川家の最有力部隊となり、「井伊の赤備え」は敵方を震え上がらせました。直政の活躍の中でも代表的なものが、関ヶ原の合戦において、「敵中突破」を敢行した島津軍を真っ向から迎え撃ったことです。精強を誇る島津軍を相手に勇猛果敢な活躍を見せた直政でしたが、この時負った傷が原因でわずか数年で早死にしてしまいました。その後の井伊家は、彦根35万石という譜代大名の中でも屈指の大大名として君臨し、幕末の大老・井伊直弼へと繋がって行きます。 この4人の他にも、若年期から家康に仕えながら、後に秀吉の元へと出奔した石川数正、「一筆啓上火の用心…」で始まる手紙でも知られ、「鬼作左」の異名を取った本多重次(作左衛門)、関ヶ原合戦の前哨戦となった伏見城籠城戦での壮絶な最期で名高い鳥居元忠など、それぞれ知勇に秀でた部将たちが家康を支えました。
徳川家康の天下の覇者への道のりを語る時、家康と共に戦い、また家康と「喜怒哀楽」を共にしてきた、「四天王」や三河武士たちの存在も決して忘れてはならないでしょう。 |
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数ある戦国武将の中でその実績が多岐に渡る人物として、武田信玄の右に出る者は他にいないのではないでしょうか。 武将としては勿論、為政者として、或いは商工業の保護者として多大な業績を残し、これらが山国であった甲斐を豊かにした上、武田軍団を「戦国史上最強」とまで謳われるまでになった原動力にもなりました。 優秀な将の下には、また優秀な家臣が集まるのでしょうか。信玄、そして武田家を支えた部将たちも、また有能な人物が揃っていました。彼らは俗に「武田二十四将」と呼ばれています。もっとも、「武田二十四将」という呼び方が定着したのは、江戸時代に入ってからとも言われており、またここに挙げられる24人全てが同時代に活躍して訳ではありません。「信玄、そして武田家を…」という書き方をしたのもそういう事情があるからです。 一般的に伝えられる「武田二十四将」の名前を先ず紹介したいと思います。 武田典厩信繁 武田刑部少輔信廉 一条右衛門大夫信竜 穴山玄蕃頭信君(梅雪) 板垣駿河守信方 甘利備前守虎泰 原美濃守虎胤 飯富(おぶ)兵部少輔虎昌 小幡山城守虎盛 小幡豊後守昌盛 横田備中守高松(たかとし) 多田淡路守満頼 馬場美濃守信春 高坂弾正忠昌信 山県三郎兵衛尉昌景 内藤修理亮昌豊 山本勘助(勘介)晴幸 真田弾正忠幸隆 真田源太左衛門信綱 土屋右衛門尉昌次 秋山伯耆守信友 原隼人佑昌胤 小山田左兵衛尉信茂 三枝勘解由左衛門尉守友 信繁、信廉、それに一条信竜の3人は信玄の実弟で、中でも信繁は父・信虎に溺愛され、これが後に信玄が信虎を追放する遠因ともなりました。しかし、永禄4年(1560年)9月10日の第4次川中島合戦で戦死するまで兄・信玄をよく補佐しました。絵の才能に秀でていた信廉や花を愛でたという信竜も、同様に兄を助けました。 板垣信方、甘利虎泰、原虎胤、飯富虎昌は信虎の代からの武田家譜代の臣で、青年当主であった信玄を支えました。板垣・甘利は、天文17年(1548年)の信濃上田原の合戦で、村上義清の軍勢と戦い討死。原はその勇猛さから「鬼美濃」の異名で恐れられ、赤一色の軍備をしたことから「飯富の赤備」と言われた飯富は、後に信玄の嫡子・義信の傅役となりますが、信玄と義信の対立に巻き込まれる形で死に追いやられてしまいます。 俗に「信玄の四名臣」と呼ばれるのが、馬場信春、高坂昌信、山県昌景、内藤昌豊。馬場は知勇に優れ、生涯に21回の合戦に従い掠り傷1つしなかったと伝えられています。信玄の「寵臣」としても名高い高坂は石和の土豪の子で、武田家の軍学書である『甲陽軍鑑』の原著者としても知られています。山県は飯富虎昌の実弟で、兄の死後も武田家の重臣として活躍しました。内藤は武田家に殺された工藤虎豊の子で、後に信玄に赦されて彼を支えました。馬場、山県、内藤の3人は、天正3年(1575年)の長篠合戦で武田勝頼への諫言を聞き入れられず、壮絶な討死を遂げ、高坂も天正6年(1578年)に亡くなりました。 真田幸隆・信綱親子は、武勇・知略両面で信玄を助け、それは後に真田家当主となった真田昌幸や、その子信之(信幸)・幸村兄弟へと受け継がれて行きました。穴山信君(梅雪)と小山田信茂は、信玄の死後、勝頼の代になって武田家を裏切ったことから、今日でも地元では評判が芳しくないそうです。 彼ら「武田二十四将」の中で、最もその実像が明らかでないにも拘わらず、人気・知名度は随一と思われるのが山本勘助でしょう。板垣信方の推挙で信玄に仕えたという彼は、『甲陽軍鑑』では武田家の軍師・参謀的存在とされ、また築城の才能にも優れていたと言われています。第4次川中島合戦で自ら提案した「キツツキ戦法」を上杉謙信に見破られ、責任を感じて敵軍に突入し討死にしたと伝えられています。隻眼で片足が不自由だったとも言われていますが、いまだに謎の多い人物です。 ここに紹介した以外にも、信玄の下には優れた家臣が多くいました。更に、「騎馬軍団」のイメージが強い武田軍ですが、一方で水軍の整備にも力を入れており、山国甲斐を領する信玄が、海へも高い関心を持っていたことが分かります。
名将の陰にそれを支えた名臣がいたこと。ここに信玄の強さの秘密があったと言えます。 |
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中国地方に覇を唱えたことで広く知られる毛利家も、初めは安芸国吉田郡山城を居城とする小豪族に過ぎませんでした。 その毛利家が歴史の表舞台に躍り出るのは、稀代の謀略家であった毛利元就が、弘治元年(1555年)の厳島合戦において、主君・大内義隆を討ち取った陶晴賢を調略と奇襲によって打ち破ってからのことでした。 元就には3人の優秀な息子がいました。長男隆元、二男元春、そして三男隆景です。 この3人の結束の固さを今に伝えているのが、世に名高い「三本の矢」のエピソードです。 ある時、父の元就は息子たちに一本の矢を折らせ、続いて二本の矢を折らせました。最後に三本の矢を折るように命じましたが、誰一人、三本の矢を折ることは出来ませんでした。元就は息子たちに、「一本の矢や二本の矢は折れる。しかし矢も三本となると、簡単に折ることが出来ない。兄弟は一人も欠けずに三人で結束しなければならないのだ」と説いたと伝えられています。この話自体は実際の話ではないそうですが、元就が元春と隆景に、「他家の養子となっても毛利本家のことを疎かにしてはいけない」と語ったことは史実として残されています。 隆元が毛利本家の後継者となり、元春は山間部の有力国人吉川家、隆景は瀬戸内海に影響力を持つ小早川家の養子になることで、元就は両家を乗っ取りに成功し、その期待に違わず「両川(りょうせん)体制」が形成されることになります。 武勇に優れた吉川元春、知略に秀でた小早川隆景。他家の養子となっても本家のために尽くす2人の弟に対して、長男である隆元は嫉妬を感じていたようです。また、偉大な父元就と比較する度に、隆元は自らを「無才覚」で「無器用」だと思い込み、いつしか劣等感を抱くようになりました。 類稀な謀略を用いてのし上がってきた元就から見れば、長男隆元はあまりにも愚直過ぎて、そのため歯痒さを感じることもしばしばでした。戦国乱世を生き抜くためには、武略、知略、それに調略を身に付けておかなければならない。そう考えていた元就は、頼り甲斐のない長男へ「うつけ者」と叱咤したともいいます。一方、元春や隆景から見ると、本家を相続する立場であった兄隆元が羨ましく、素直に従えない部分があったといいます。 ところが、この「三本の矢」に突然転機が訪れます。永禄6年(1563年)、隆元が41歳の若さで急逝してしまい、その遺児で当時11歳の幸鶴丸が後を継ぐことになります。後の毛利輝元です。「三本の矢」が一本欠けたことにより、残された「二本の矢」である元春と隆景は、兄の遺児に対して捨て身の覚悟で補佐しようとする心境となり、元亀2年(1571年)6月14日に父元就が亡くなった後、織田信長との対決を強いられても、一致団結して毛利家の生き残りのために死力を尽くします。 元春と隆景の異なる性格が最もよく表われたのが、天正10年(1582年)6月2日の「本能寺の変」の際の毛利家の方針を決断した時でしょう。この時、中国遠征軍を率いていた羽柴秀吉は、備中高松城を水攻めにし、城主の清水宗治を切腹させて和睦として扱い、一気に京へ引き返します。同じ頃、毛利家に「信長死す」の報が入り、元春が強硬に追撃を主張したのに対して、隆景は「秀吉は天下を取る人物であると見ている。その秀吉と一戦交えた時、毛利家に勝算はない。ここは黙って見過ごして恩を売りつけておけば、やがて当家にとって非常に大きく物を言うであろう」と言ったそうです。元春は納得出来ませんでしたが、「隆景がそこまで言うのならそれに従おう」と潔く同意したといいます。そして、結果は隆景の予言した通りとなりました。 秀吉の天下となってからも、徹底して秀吉嫌いで通した吉川元春は、天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫌々ながら従軍し、豊前小倉の陣中で病に倒れ、56歳で世を去ります。一方、その知恵の深さと温厚な人柄で秀吉からも大いに信頼された小早川隆景は、後に豊臣家五大老の1人にも選ばれ、慶長2年(1597年)に64歳で亡くなりました。
長男隆元亡き後、元春・隆景という全く異なる性格の2人が見事に調和したことが、毛利家に幸運をもたらしたと言えます。「三本の矢」は「二本の矢」となったことで、より強力になったのかもしれません。 |
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戦国時代、下剋上や骨肉相食む争い、裏切り行為などはまさに「日常茶飯事」でした。 そのような時代の中で、たとえお互いの思惑が一致して「同盟関係」が締結されたとしても、あっけなく反故にされてしまうのも当然のことであったと言えるでしょう。 そんな「同盟関係」のうち、特に代表的なものと言えるのが、約15年間続いた「甲相駿三国同盟」でしょう。 戦国乱世の中で最も群雄が割拠していた頃、東国では甲斐の武田晴信(信玄)、相模の北条氏康、駿河の今川義元、それに越後の長尾景虎(上杉謙信)が加わって、激しい闘争が繰り広げられていました。 武田・北条・今川の関係について整理してみると、先ず武田家と今川家は、義元が「花倉の乱」と呼ばれる御家騒動を経て家督を相続した際、信玄の父・信虎の支持を得て、天文6年(1537年)には信虎の娘(信玄の姉)を娶り姻戚関係を結び、更にその4年後、信玄が信虎を追放した際には、義元が信虎を手厚く保護しています。一方、天文14年(1545年)、氏康が山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏連合軍8万と対峙した際、義元も呼応して氏康を危機に陥れます。この時氏康と義元の間を調停し講和を結ばせたのが信玄で、危機を脱した氏康は、翌天文15年(1546年)4月20日の「河越夜戦」で大勝利を収め、関東の覇者としての地位を盤石なものとします。 天文21年(1552年)11月、義元の娘が信玄の嫡男・義信へ嫁ぎ、武田・今川両家の間に同盟関係が締結されます。次いで天文23年(1554年)7月、信玄は氏康の嫡男・氏政へ嫁がせ、北条家との間に同盟関係を締結。同年12月には氏康の娘が義元の嫡男・氏真へ嫁ぎ、北条・今川両家の関係も強化され、これが「甲相駿三国同盟」成立の足掛かりとなります。 この頃、信玄と氏康を脅かしていたのが上杉謙信。謙信は武田家の勢力圏である信濃に出兵する一方、関東北部では北条氏と激戦を展開しました。つまり信玄と氏康にとって謙信は共通の敵であり、それに対抗するために、両者は必然的に手を組みます。ここでもし義元が謙信を手を組めば、隣接する敵と戦うため、その背後に位置する勢力と組んで敵を挟撃する、いわゆる「遠交近攻策」が成立する所ですが、あくまで上洛を目的とする義元は、むしろ領国拡大の標的を西の尾張へと向けており、そのためには背後の武田・北条両家との関係を良好にする必要がありました。 こうしてここに三者の思惑が一致して「甲相駿三国同盟」が成立。信玄は信濃国内の安定的支配、氏康は関東制覇、そして義元は上洛と、各自の戦略目的に向けて全力を傾ける条件を整えました。 しかし、この同盟関係も長く続きません。その発端となったのが、永禄3年(1560年)5月19日、義元が念願の上洛の途上、尾張の織田信長に討ち取られた「桶狭間の合戦」でした。翌永禄4年(1561年)、氏康の本拠・小田原城が謙信に攻められますが、籠城戦でかわして退却させることに成功。同年9月10日には、信玄と謙信との間で、全5回の中でも最も激しい合戦が繰り広げられた「第4次川中島の合戦」がありました。この後、信玄は領土拡大を図るため、義元亡き後今川家が弱体化した駿河への進出を画策。これがきっかけで義元の娘を妻に持つ嫡男・義信と対立し、死へ追いやった末、永禄11年(1568年)、大軍を率いて駿河へ進攻します。これに怒った氏康は、氏政の妻となっていた信玄の娘を甲斐へ送り返し、信玄との絶縁を宣言。これを持って、約15年間にわたって維持されてきた「甲相駿三国同盟」は崩壊したのでした。 同盟破棄から3年後の元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康は57歳で世を去り、それから2年後の天正元年(1573年)4月12日、武田信玄も上洛の途中、信濃駒場で53年の生涯を終えます。
信玄・氏康・義元の死後、武田・北条・今川の三家は衰退の道を歩み、「甲相駿三国同盟」崩壊のきっかけを作ったとも言うべき信長によって、天下統一への道が拓かれたのでした。 |


