万年寝太郎徒然日記

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戦国武将

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生涯一武人・島津義弘

戦国時代、怒濤の勢いで九州を制覇した薩摩島津家。
その原動力となったのは、「島津家中興の祖」と謳われる島津貴久の4人の息子たち、義久・義弘・歳久・家久の強い結束でした。
中でも、二男の島津義弘は勇猛ぶりで知られた武将で、合戦における逸話を数多く残しています。

義弘は『御自記』という覚書を残していますが、そこには彼の生涯が常に戦いに明け暮れていたことが記されています。
義弘の初陣は、20歳の時の天文23年(1554年)、大隅岩剣城攻めでした。弘治3年(1557年)、島津家に叛いた蒲生範清の蒲生本城を攻めた戦いで、初めて敵の首を捕っています。その後、日向の伊東義祐を破った元亀3年(1572年)5月の木崎原(きざきばる)の合戦や、豊後の大友宗麟を撃破した天正6年(1578年)11月の高城川合戦(耳川合戦)など、幾多の合戦で武功を上げ、島津家の三州統一から九州制覇にかけて大いに貢献しました。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出します。そしてこのことから、島津家と義弘は大きな転機を迎えることになります。
初めのうちは優勢だった島津軍も、次第に秀吉軍に圧倒され撤退を余儀なくされます。家中一同が徹底抗戦で意見がまとまる中、義弘の兄・島津義久は殆ど独断で秀吉への降伏を決断し、剃髪した上で自ら秀吉に謝罪します。再び戦いを挑もうとした義弘も、結局義久に遅れて秀吉に降伏することになりました。この時義弘は、秀吉から薩摩・大隅・日向の56万石を安堵され、実質上の島津家当主の扱いを受けます。秀吉とすれば、これにより猛将の誉れ高い義弘を直接掌握しようとする狙いがあったのでしょう。

義弘の武名を天下に轟かせたのは、文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の2度の朝鮮出兵においてでした。1万の兵を率いた義弘は、朝鮮半島北部まで攻め入り南原城などを攻略した上に明国の水軍をも全滅させ、明軍は「鬼石曼子」(おにしまず)と呼んで、島津軍の強さを恐れたのだそうです。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が亡くなった時、義弘は朝鮮南部の泗川城にいました。徳川家康の撤退命令を受けて引き揚げる準備をしていた所に、敵軍が攻め寄せて来ます。この時5千の軍勢で籠城した義弘は、明の董一元・茅国器や朝鮮軍の合わせて5万の大軍との大激戦の末、何と3万8千余りを討ち取るという凄絶な戦果を挙げたのでした。こうして義弘の勇猛ぶりは異国でも知れ渡りましたが、一方で息子・久保が陣中で病死するなどの辛苦も味わいました(後に薩摩藩初代藩主となった忠恒=家久は久保の弟)。

秀吉の死後台頭した家康と、豊臣家の危機を感じ取った石田三成との間で、慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の合戦が起こります。義久・義弘兄弟は家康と友好的である一方、三成とも親交がありました。伏見城留守居役を務めるため1千の兵を率いて京都にあった義弘は、会津の上杉景勝を征伐するため家康が出陣後、伏見城へ入ろうとしますが、疑われて中へ入れなかったことから、義弘はやむを得ず西軍に付く決心をします。関ヶ原に陣を置きながら戦いには加わらず、突撃の命令も下さなかった義弘は、大勢が決したと見るや、何と家康の本陣に突入してそのまま逃げ切るをいう作戦に出ました。世に名高い「関ヶ原の敵中突破」です。東軍方の追撃をかわした義弘は無事薩摩まで逃げ帰ることに成功しますが、共に逃げ切ることが出来た者は、わずか数十人程であったといいます。兄・義久は義弘を隠棲させた後、卓越した外交力を駆使して家康から旧領安堵を勝ち取りますが、義弘をはじめとする島津軍の強さに家康が脅威を感じていた事も大きく影響したのでしょう。

義弘は関ヶ原の合戦後も20年近く生き続け、元和5年(1619年)7月21日、84歳という当時としては異例の長寿で大往生を遂げます。
常に戦いの中で日々を送り、「武人」としての生き様を貫き通した島津義弘は、もしかすると戦国時代最強の武将だったのかもしれません。

非凡な総領・島津義久

「島津に暗君なし」という言葉があります。
鎌倉以来の名家であり、戦国から江戸時代を経て、幕末維新においても一大勢力となった薩摩島津家は、代々名君、或いは名将と後世に伝えられる人物を輩出してきました。
その中で、戦国の九州において勢威を振るった時代の当主が、島津家にとっては第16代当主にあたる島津義久です。

義久を語る時に、先ず注目しなければならないのは、優れた祖父や父を持ち、また兄弟運にも恵まれていたことです。
祖父の島津忠良は、分家の伊作島津家の出身で、室町時代後半から本家と分家が激しく対立して分裂状態にあった島津家を、知謀と武力によって一本にまとめ上げた人物です。後に「日新斎」(じっしんさい)と号し、島津家の精神的支柱となる「いろは歌」を作るなどして、薩摩人の間では神格化されています。
その跡を継いだ義久の父・島津貴久は、「島津家中興の祖」と仰がれる人物で、一族や家臣への統制力を強化しながら徐々に勢力を拡大し、義久の代における飛躍の土台を築きました。

義久には3人の弟がおり、これがまたいずれも豊かな個性の持ち主でした。2歳下の義弘は天下にその名を轟かせた勇将。4歳違いの歳久(としひさ)は知謀に優れていたと言われ、14歳も年が離れていた末弟の家久も軍略に秀でており、天正12年(1584年)、肥前島原・沖田畷の合戦で敵将・龍造寺隆信の首を挙げたことでも知られています。
彼らが武勇の義弘、知謀の歳久、兵術の家久と称される一方で、総領である義久は殆ど目立ちません。しかし、骨肉相食む争いも珍しくなかった戦国時代において、強い団結力の下、優れた個性を持つ3人の弟たちの長所を存分に活用した義久の手腕は、大いに評価すべきところでしょう。

薩摩・大隅・日向の統一から九州制覇に至る合戦の過程の中では影の薄かった義久が、一躍その存在感を高めたのは、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐あたりからでしょう。
秀吉軍との衝突は、最初のうちは優勢であったものの兵力の差がありすぎ、撤退を余儀なくされます。この時義久は、家中一同が徹底抗戦の意見でまとまった中、殆ど独断で剃髪して秀吉に降伏を申し出てしまいます。弟たちや家臣の多くは、義久の早過ぎる降伏に呆れ、不満を抱きましたが、この速やかな決断によって領土は大幅に削減されながらも、旧領は安堵され、島津家も存続したのでした。
次の危機は、文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮出兵を開始した際に訪れます。この時島津家中の武将たちが秀吉に公然と叛旗を翻します。「梅北国兼の乱」と呼ばれるこの叛乱自体は直ちに鎮圧されますが、その中に義久の弟・歳久の家臣が加わっていたことから、秀吉は義久に歳久の首を討つよう厳命します。義久は苦悩の末、まさに断腸の思いで当時病床にあった歳久の首を討ったのでした。これより先、末弟の家久が、降伏直後に秀吉の弟・豊臣秀長のもとへ挨拶へ赴き、間もなく急死しましたが、これについては毒殺との説があります。

秀吉の死後、慶長5年(1600年)9月15日に行なわれた関ヶ原の合戦は、東軍を率いた徳川家康の勝利に終わり、天下の覇権を握ります。この時石田三成率いる西軍に属した島津義弘は、世に名高い「敵中突破」によって命からがら薩摩へと逃げ帰ります。西軍側についた諸大名が次々と処断される中で、義久は義弘を隠棲させた後、直ちに臨戦体制を固め、表面上は徹底抗戦の構えを見せながら、一方で旧知の家康の側近や東軍側の諸将を通じて家康への陳謝と弁明を繰り返します。これが功を奏して、義久は家康からも旧領安堵を勝ち取り、後の薩摩藩77万石の礎を築くことに成功したのでした。

義久は慶長16年(1611年)1月21日、79歳で世を去りました。
個性豊かな弟たちの陰に隠れながら、いざという時には卓越した政治力を発揮して幾多の危機を乗り越えて行ったという点で、島津義久は戦国武将の中でも極めて非凡な人物だったと言えるのではないでしょうか。

真実の今川義元

今川義元という武将は、同年代の武田信玄や上杉謙信などの面々にも決して引けをとらない知名度を誇っていると言えます。
だがそれは「名将」としてではなく、大軍を率いながら織田信長の奇襲によって桶狭間で討ち取られた敗者としてのものであり、また和歌や蹴鞠に興じて公家風の生活に耽るという、戦国武将らしからぬ軟弱なイメージが強く喧伝されています。
しかし、今日伝えられるその人物像は、果たして真実を伝えているのでしょうか。

駿河の今川氏は、足利氏一門に連なり、南北朝期から駿河・遠江の守護職を兼ねた名門にあたります。その今川氏が戦国大名へと脱皮したのは、義元の父・今川氏親の時代です。氏親は斯波氏の勢力を駆逐して一時失った遠江を奪回。さらに尾張那古野に進出して織田氏と対峙するなど、勢力を西へと拡げます。また、諸家に先駆けて分国法「今川仮名目録」を制定するなど、進歩的な武将であったことでも知られています。
氏親の死後、嫡男・氏輝が跡を継ぎますが、天文5年(1536年)3月17日、氏輝と弟の彦五郎が急死したことで、共に出家していた梅岳承芳と玄広恵探(氏親の側室の子)との間で家督争いが起こります。この「花倉の乱」と呼ばれる今川家のお家騒動で勝利を収めた承芳が、還俗して今川義元と名乗ることになります。このような骨肉相食む争いの中から、今川義元という人物は歴史の表舞台に登場したのでした。

義元を取り巻く武将たちはまさに多士済々です。
盟友としては、甲斐の武田信虎・信玄親子が挙げられます。義元は家督相続に際して信虎の支持を得ており、相続の翌年、天文6年(1537年)には信虎の娘(信玄の姉)を娶り、武田家との結びつきを強めます。また、天文10年(1541年)6月に信虎が信玄に追放された際には、信虎を手厚く保護しています。
義元と争った武将では、東では小田原の北条氏康がいます。氏康が武蔵攻略を進めていた頃、その背後を衝こうとしたことがありました。一方西には尾張の織田信秀がおり、西上志向の強かった義元は、天文11年(1542年)と天文17年(1548年)の2度にわたって信秀と戦っています。また弱小勢力であった松平氏に代わって三河も領国化しましたが、この時人質としたのが松平家の嫡子・竹千代、後の徳川家康です。
義元の最高補佐官として活躍したのが太原崇孚(雪斎)。彼は臨済宗の僧侶であると同時に義元の学問の師であり、また軍師でした。天文23年(1554年)、義元・信玄・氏康の間で締結した「甲相駿三国同盟」の成立に奔走した他、織田信秀を破ったり、川中島では信玄と上杉謙信の講和を調停したりと、今川家の重鎮として義元を支えました。弘治元年(1555年)に没しますが、このことがその後の義元や今川家の運命をも左右することになります。

東海の覇者として君臨した義元は、その版図を石高にして約百万石にまで伸ばし、我が国屈指の戦国大名に成長します。その背景には再三の検地により年貢と軍役を定めての財政基盤と軍事力の整備、楽市による商工業の自由化、軍需物資については統制経済の実施など、充実した領国経営があり、また富士・安倍の金山開発は、今川氏の資金源として重要なものでした。

義元は早くから西上志向が強く、いずれは上洛を果たして天下に号令するという野心を抱いていました。「三国同盟」の締結も、後方を固めることで自らの戦略目標に全力を傾けることがその目的でした。
永禄3年(1560年)5月、義元は2万5千の大軍を率いて遂に西上作戦を開始します。最初に立ち塞がるのは尾張の織田氏。名門である今川家から見れば、織田家は成り上がりの「出来星大名」に過ぎず、更に信秀の跡を継いだ織田信長は「うつけ者」との評判が高く、義元にとっては恐れるに足りない相手と映ったことでしょう。
しかし織田の前線基地を次々と攻略した5月19日、田楽狭間での休息中に、折からの雨を衝いた信長の奇襲によってあっけない最期を遂げます。今川義元、この時42歳。

東海の覇者として、数多の群雄と渡り合った今川義元。
しかし、名門としてのプライドと一瞬の油断によって、自らの命を落としたばかりか、後世の評価をも決定的なものにしてしまったのでした。

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堅実な名将・北条氏康

全国各地で激しい争いが繰り広げられた戦国時代。とりわけ関東地方は応仁の乱以前から争乱の渦中にあり、その中から北条早雲(伊勢新九郎長氏)が台頭し、そこから小田原北条氏が関東の覇者として君臨することになります。
この小田原北条氏が最盛期を迎えた時の当主が、早雲から数えて3代目にあたる北条氏康です。

氏康は北条氏2代目・氏綱の嫡子で、早雲の孫にあたります。氏綱は早雲と氏康の間に挟まり陰に隠れがちな存在ですが、そもそも「北条」の姓を名乗り始めたのは氏綱の代からで、事実上小田原北条氏の基礎を築いた人物です。鎌倉幕府執権の座にあった北条氏への改姓は、室町幕府の関東管領職である山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏を意識したもので、明らかに関東制覇の意図したのものだったと見られています。

さて、氏康が父・氏綱の死によって家督を継いだのは天文10年(1541年)。当時は戦国乱世の中でも最も群雄が割拠していた頃で、関東でも新旧様々な勢力が犇めき合い、熾烈な覇権争いの真っ只中にありました。
氏康の名を天下に知らしめたのが、いわゆる「河越夜戦」です。天文14年(1545年)、山内上杉憲政はそれまで抗争を続けていた扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏と連合。8万の大軍を擁して北条氏の武蔵における重要拠点だった河越城へ攻め寄せます。これには駿河の今川義元も呼応して、氏康は危機に陥りますが、この時彼を救ったのが甲斐の武田晴信(信玄)で、氏康と義元の間を調停して講和を結ばせます。翌天文15年(1546年)4月20日、籠城を続ける河越城の救援に赴いた氏康は、8千の兵力で夜襲をかけて大勝利を収めます。この合戦で上杉朝定が戦死して扇谷上杉氏は滅亡、上杉憲政・足利晴氏の両名も敗走し、氏康は関東の覇者としての地位を盤石なものとします。

群雄割拠の時代に生きただけあって、氏康には多くのライバルが存在しました。武田信玄、今川義元、それに越後の上杉謙信(長尾景虎)、安房の里見一族です。信玄、義元とは互いに婚姻関係を締結することによって同盟を成立させます。この「甲相駿三国同盟」により、氏康は関東制覇、信玄は信濃国内の安定的支配、義元は上洛と、各自の戦略目的に向けて全力を傾ける条件が整い、永禄3年(1560年)、義元が桶狭間で敗死した後、永禄11年(1568年)、信玄の駿河侵攻に怒った氏康が信玄との絶縁を宣言するまで同盟関係は継続されました。
氏康が生涯最も多く戦ったのが、逃亡した上杉憲政を手厚く迎えて関東管領職を継承した謙信でした。天文21年(1552年)、憲政らの旧領回復を目的に上杉軍が上野に乱入して以来、氏康は関東の覇権を賭けて上杉勢と対決。永禄4年(1561年)には本拠の小田原城を10万の大軍に包囲されますが、籠城戦で乗り切り謙信を退却させることに成功しました。小田原城での籠城戦は永禄12年(1569年)に信玄が攻め寄せた際にも行なわれ、この時も武田軍の撃退に成功しています。

武将としてだけでなく、税制改革や貫高制を基礎とした領国経営など、「領民第一主義」を貫き通した民政の手腕も大いに評価されるものであり、善政で知られた祖父早雲からの血筋が感じられます。また、三条西実隆に学んだという詩歌の才能は優れたものであったと言われ、酒や学問も適度に嗜んだと伝えられています。

氏康は、元亀2年(1571年)10月3日、57歳で世を去ります。ライバルであった信玄や謙信が、その華々しい活躍を後世まで語り継がれているのに対して、氏康の存在はいかにも地味で影に隠れがちの感があります。しかし、その堅実にして優れた政治手腕は信玄や謙信らに勝るとも劣らぬものであり、小田原北条氏を最盛期へと導いたことからも、戦国屈指の名将だったと断言することが出来ます。

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「猿」と「狸」

応仁の乱からおよそ百年が過ぎ、戦国乱世は「群雄割拠」の時代を経て、織田信長の登場によって急速に「天下統一」へと向かって行くことになります。
その信長が本能寺の変で斃れた後、その後継者として「天下統一」の事業を完成へと導いたのが、俗に「猿面冠者」と伝えられる豊臣秀吉と、「狸親父」のイメージで知られる徳川家康です。

この2人を語る上で忘れてはならないのが、織田信長の存在です。
尾張国中村の百姓の家に生まれた秀吉は、天文20年(1554年)頃から信長に仕え始め、持ち前の才覚と行動力で徐々に頭角を現すようになり、天正5年(1577年)からは中国征伐の司令官を務めるまでになりました。
一方、三河の松平家の嫡男として生まれた家康は、6歳から18歳まで尾張の織田信秀、駿河の今川義元の下で人質生活を送るという、屈辱と忍耐の中での少年時代を経て、永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間で今川義元を討ち取った信長と同盟を結び、信長の統一事業に貢献しながら、着実に力をつけて行きました。

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起こった時、秀吉は備中高松城攻めの最中、家康は泉州堺に滞在中でした。秀吉は直ちに対戦中の毛利氏と和議を結び、俗に言う「中国大返し」を決行。13日には山崎の合戦で明智光秀を討ち取り、その後、同じく信長の重臣である柴田勝家らを退けて一気に地位を上昇させ、信長の後継者であることを世間に知らしめます。
一方の家康は、急変を知ると堺から決死の「伊賀越え」を行ない、国許の岡崎に帰城。6月14日に信長の弔い合戦のために尾張鳴海まで出陣するも、その前日、既に秀吉によって光秀は討ち取られた後でした。信長の同盟者であった家康は、その一部将に過ぎなかった秀吉に後れをとる結果となります。

天下人への道を歩み始めた秀吉に対して警戒心を強めたのが、信長の三男・織田信雄(のぶかつ)でした。信雄は父の同盟者であった家康と手を結び、天正12年(1584年)3月、秀吉軍と家康・信雄連合軍は共に挙兵します。こうして秀吉・家康唯一の直接対決である小牧・長久手の合戦が繰り広げられます。11月まで持久戦が続いたこの合戦は局地戦では家康が勝ち、実質的には秀吉の負け戦でしたが、秀吉は信雄と単独講和を結び、軍事的決着が付かないまま家康も12月に信雄の仲介で秀吉と講和を結びます。
翌天正13年(1585年)に関白に叙任された秀吉は、家康に上洛を促しますが同意を得ることは出来ません。そこで秀吉は妹・旭姫を嫁がせ、更に母・大政所までも人質に送るという手段に出ます。流石の家康もこれには参り、天正14年(1586年)10月、遂に上洛、臣従を決意します。10月27日、大坂城で家康は秀吉の前に平伏し、秀吉の臣下となったのでした。

関白から太閤へと天下人の座に君臨しながらも、秀吉は終生家康を意識せざるを得ませんでした。天正18年(1590年)の小田原攻めの後、秀吉は家康に関東移封を命じます。「関東の連れ小便」の逸話でも知られるこの措置には、家康を極力遠ざけてその勢力を弱めようとする秀吉の意図が見て取れます。しかし、それでも家康の実力は落ちることなく、むしろ豊臣政権の中枢で絶大な存在感を示しながらその責務を果たして行きました。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は家康ら五大老や、石田三成ら五奉行たちに息子秀頼のことを託し、62歳で亡くなります。最も恐れていたであろう家康に、我が子や豊臣家の行く末を託さなければならなかった秀吉の胸中は如何なるものであったのか。
秀吉の死後、いよいよ自らの天下取りに向けて邁進し始めた家康は、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の合戦で三成を破り、名実共に天下の覇者となったのでした。

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