万年寝太郎徒然日記

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戦国武将

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信玄と謙信

武田信玄と上杉謙信。
片や「甲斐の虎」の異名を取り、片や「越後の龍」と恐れられたこの2人の武将は、あらゆる面において対照的でした。

甲斐の守護・武田家の嫡男として生まれ、自らを廃嫡しようとした父・信虎を追放して家督を継いだ武田晴信、後の信玄は、治水政策から鉱山開発などに力を注ぎ、また「甲州法度之次第」を制定・公布するなど、領国の統治と経営でも優れた業績を収め、徹底した「富国強兵」策によって山国甲斐を豊かにした上に、戦国最強と謳われた「武田騎馬軍団」を育て上げました。
これに対して、越後の守護代・長尾家に生まれた長尾景虎、後の上杉謙信は、兄・晴景に代わって家督を継いだ後、越後守護職と関東管領の2つの職を手にして、2度にわたって上洛を果たしたことなどが知られる反面、領国の民政に関する足跡については殆ど語られていません。
性に関しても対照的で、謙信が「毘沙門天」を崇拝し、合戦で勝利を得るために生涯女性を近付けず実子を持たなかったのに対して、信玄は、自らが滅ぼした妹婿の諏訪頼重の娘をはじめ多くの側室を持つ一方で、いわゆる「衆道」も盛んに行なっていたことがよく知られています。

このあまりにも対照的であった2人が直接対決することになったのは、信濃進出を目論む信玄によって追われた村上義清らが謙信を頼りにしたことがきっかけでした。こうして行なわれたのが史上に名高い「川中島の合戦」で、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけての10年余りの間に、5度の合戦が行なわれました。特に激しい合戦が繰り広げられたのが、永禄4年(1561年)9月10日の第4次の合戦で、この時信玄が41歳、謙信が32歳でした。この合戦では両将が太刀を交えたと後世に伝えられ、わずか一日の合戦で両軍合わせて6千人が戦死したと言われています。合戦後、信玄・謙信それぞれが各地に書き送った手紙では、共に自分が勝ったと宣伝しており、激戦ではあったがはっきりとした決着はつかず、どちらが勝ったのかについてはいまだに様々な説が出されています。

共に相手を強敵と見なしながらも、信玄と謙信はいつしか互いに尊敬の念を抱くようになりました。
信玄は息子の武田勝頼に、「謙信とは決して事を構えるな。あの男は頼りにすれば必ず手を差し伸べる。自分は謙信を敵としたが、武田家に滅亡の危機が訪れた際には、謙信を頼りにせよ」と遺言したそうです。また、関東で謙信と覇を競った北条氏康も、「信玄や織田信長は頼むに足りない。それに比べて謙信は義理を通す人物である。自分の亡き後を託すことが出来るのは謙信だけだ」と語ったと言い、謙信が敵将からも高い評価を得るほど、信義に厚い人物であったことを伝えています。
一方で謙信は信玄について、「英雄、人傑とは信玄のことを言う」と称賛し、天正元年(1573年)4月12日に信玄が亡くなったことを聞いた時には「惜しい大将を亡くしたものだ」と言って、涙を流したと伝えられています。

信玄が上洛の途中、信濃駒場で53歳の生涯を閉じた5年後、謙信も関東出陣を目前にした天正6年(1578年)3月13日、脳卒中で倒れ、49歳で亡くなります。
敵として戦いながらお互いを認め合い、共に天下統一を志しながら果たすことの出来なかった2人は、好敵手の名に恥じない名将同士でした。

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山陰の太守・尼子経久

中国地方を代表する戦国武将として、毛利元就などと並ぶ知名度を誇った人物に、出雲を本拠にして勢力を張った尼子経久がいます。
出雲国内の豪族を従えて、尼子氏の戦国大名化を成功させた経久は、武将としては勿論、人間的にも優れた人物であったそうです。

尼子氏の祖は、「バサラ大名」として知られる佐々木(京極)道誉の孫・高久で、近江国犬上郡甲良荘尼子郷を分与され、尼子の姓を名乗るようになったそうです。出雲尼子氏は、高久の二男・持久が守護京極氏から守護代を命じられ、富田城へ入城したのが始まりと言われ、その子・清定が応仁の乱後、隣国・伯耆の山名氏などからの襲撃を受け、度重なる合戦を経て力を着けて行きました。
尼子経久は、この清定の子として長禄2年(1458年)に生まれ、文明11年(1479年)に家督を相続し、京極本家の当主・京極政経から一字を貰い、「経久」と名乗るようになりました。

家督相続後、本家からの独立の意志を固めた経久は、美保関の津料(港で徴収する税)などの公用銭や寺社本所領を横領し、公役を怠ったことから、守護京極氏や幕府の怒りを買い、文明16年(1484年)、守護代の職を剥奪、追放され、流浪の身となります。しかし、それから2年後の文明18年(1486年)正月、経久は、毎年正月に千秋万歳を舞う慣わしを持つ鉢屋衆の一党を味方につけ、わずか数十名の手勢で富田城を奇襲。経久に代わり守護代の地位にあった塩冶掃部介を討ち取り、富田城奪回に成功します。
富田城に復帰した経久は、以後出雲の国人勢力の制圧に着手。次々と国人領主たちを屈服させて国内平定を完了させて行き、これとは対照的に衰退の一途を辿って行った守護京極氏に代わって出雲の守護として実権を握ります。
出雲平定後、経久は出雲国外への進出を計画。山口を本拠に西国7ヶ国の守護を務める大内義興と対決することになります。永正5年(1508年)、前将軍足利義稙を擁して上洛した義興の留守を衝いた経久は、安芸などの近隣諸国に進出して勢力拡大を狙い、対する義興も山口に帰国して、両者の対立は決定的なものとなります。大内氏と戦いを繰り広げる一方、伯耆・因幡から播磨にかけての国人とも誼を通じた経久は、大永元年(1521年)、山陰・山陽の殆どを制し、「十一州の太守」と呼ばれるまでになったのです。

青年時代に辛酸をなめたこともあって、経久は豪放な性格だった反面、情に厚く、戦で負傷した者の治療や戦死者の遺族に目をかけ、下級の者にまでその気配りが及んだので、誰もが「この人の為なら命は惜しまない」と言い合った、と伝えられています。富田城奪回の際、鉢屋衆が味方したことも、彼のそうした人柄の一端を示しています。豊富な鉄鉱生産地と良港であった美保関を抑えて経済力を持っていたことも、経久の躍進の原動力となりました。

これほどの人物であった経久も、戦国乱世を生き抜くために不可欠な要素であった家族の面では恵まれませんでした。3人の息子の内、長男・政久は、勢力拡大の最中の永正15年(1518年)に戦死。三男・興久は、天文元年(1532年)、知行に関する不満から謀叛を企てた末に切腹してしまいます。天文6年(1537年)、経久は孫の詮久(後の晴久)に跡を継がせ、自らは後見人となりますが、この頃、領土を拡大して勢力を伸ばし始めていたのが、安芸の毛利元就でした。
尼子経久がその波乱に満ちた生涯を終えたのは、天文10年(1541年)11月13日、84年の生涯でした。この年、尼子軍は初めて毛利軍に大敗を喫し、経久の死後、尼子氏は徐々に衰退の道を歩み、やがて毛利氏によって滅ぼされることになります。

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中国地方の戦国史は、「群雄割拠」というよりも、2大勢力による抗争という構図によって推移して行きました。初めは、周防の大内氏と出雲の尼子氏によって激しい覇権争いが繰り広げられ、その後、大内氏が下剋上によって崩壊していくと、急速に力を蓄えていった毛利元就が尼子氏との争いに勝ち、中国地方の覇者としての地位を確立します。

数ある戦国武将の中でも、元就は典型的な「大器晩成型」でした。応仁の乱からちょうど30年が経った明応6年(1497年)に、安芸の郡山城主・毛利弘元の子として生まれた元就は、5歳で母を、11歳で父を相次いで失い、以後家臣である井上一族の庇護の下に成長しますが、井上一族からは家来同然に扱われるという屈辱を受け、忍耐と苦渋に満ちた成長期を過ごします。
元就の身に変化が起きたのは、大永3年(1523年)のこと。兄興元とその子幸松丸が相次いで亡くなり、異母弟の相合(あいおう)元綱との家督争いに勝ち、毛利家当主の座に就きました。元就、この時27歳。
ここから、元就の中国地方制覇への道が開かれます。
出雲の尼子氏を盟主と仰ぐ一小領主であった元就が、尼子氏を離れ周防の大内氏の傘下に加わったのは、大永5年(1525年)。元就の離反以後、安芸国内での影響力低下を憂慮した尼子晴久の大軍を、長期の籠城の末に打ち破った郡山城の合戦は、天文9年(1540年)、44歳の時。長年にわたり横暴の限りを尽くしてきた井上一族を粛清したのが、天文19年(1550年)、54歳の時。主君・大内義隆に叛旗を翻して大内家の実権を握った陶晴賢を厳島の合戦で討ち取ったのが弘治元年(1555年)、59歳の時。そして、宿敵・尼子氏の本拠である出雲の月山富田城を、1年7ヶ月にわたる包囲戦の末に陥落させて中国地方の覇者に登りつめたのは、永禄9年(1566年)、実に70歳を迎えた時のことでした。
成長期における忍耐の積み重ねと、中高年期に入って一気に花開いたという点で、元就の人生は徳川家康に似ているのではないでしょうか。

元就は、正室との間に長男隆元、二男元春、三男隆景、それに娘一人を設けましたが、彼を巡るエピソードにも、この親子関係が大きく関わっています。
1つは「三本の矢」のエピソード。ある時、元就は息子たちに一本の、次いで二本の矢を折らせ、最後に三本の矢を折るように命じましたが、誰一人、三本の矢を折ることは出来ませんでした。元就は、息子たちに「一本の矢や二本の矢は折れる。しかし矢も三本となると、簡単に折ることは出来ない。兄弟は一人も欠けずに三人で結束しなければならないのだ」と説いたと伝えられています。これ自体は実際にはなかったそうですが、元就が元春と隆景に、「他家の養子となっても、毛利本家のことを疎かにしてはいけない」と語ったことは史実として残されています。元春が吉川家、隆景が小早川家の養子となることで、元就は両家の乗っ取りに成功し、後に41歳で急逝した隆元の跡を継いだ輝元を補佐する「両川(りょうせん)体制」が誕生することになります。

元就はまた、「謀(はかりごと)多きは勝ち、少なき方は負ける。乱世を生き抜くためには、武略、計略、調略を身に付けよ」と息子たちに語り聞かせたといいます。調略とは嘘の情報を流したり、敵方の武将を寝返らせるなどの謀略のことで、元就は武略や計略の面でも優れていましたが、調略も得意とし、強敵を内部から崩壊させて行きました。例えば、尼子氏を攻略する際には、家中きっての精鋭戦闘集団であった尼子国久とその一族、いわゆる「新宮党」が、元就に内通しているという噂を月山富田城下に流し、新宮党を滅亡させて尼子氏の内部分裂と弱体化に成功しました。また、天文23年(1554年)、陶晴賢は、ある重臣を元就への内通の罪で殺害するという出来事がありましたが、これも元就がその人物と内通したという噂を流して晴賢に殺させたのでした。元就は、調略の重要性を説くと同時に、決して骨肉の争いを演じぬように兄弟の結束を誓わせたのでした。

武略、知略、そして調略を縦横無尽に用いて、中国地方の覇者となった元就は、元亀2年(1571年)6月14日、75歳で亡くなりました。
権謀術数に長けた一方で、息子たちに教訓上を遺すという細心な苦労人としての一面も持っていた元就。彼の生き様や信念は、残された「二本の矢」、すなわち吉川元春や小早川隆景、それに孫の毛利輝元にも、確実に継承されたと言っても良いのではないでしょうか。

人呼んで「蝮の道三」

斎藤道三と言えば、寺の小坊主から油売りとなり、諸国行商の後に美濃へ仕官するや、たちまちにしてのし上がり、遂には美濃一国の大名になったという物語で、北条早雲と並ぶ「下剋上の申し子」として語り継がれています。
成り上がりと数々の悪業によって「美濃の蝮」と恐れられた道三からは、早雲よりも「胡散臭さ」や「悪」のイメージを色濃く感じることが出来ます。

先ず、通説として知られる道三の美濃を手に入れるまでの経歴をまとめてみたいと思います。
明応3年(1494年)、山城国で元北面の武士・松波基宗の子として生まれ、11歳の時に京都の妙覚寺に入って法蓮坊と名乗ります。やがて還俗して京都の油商人の娘婿となり山崎屋庄九郎と名乗り、諸国を行脚するうちに、妙覚寺時代の弟弟子で、美濃の守護土岐家の重臣長井家の一族の出である常在寺の住職・日運上人と再会。その縁で仕官して西村勘九郎と呼ばれるようになります。次いで守護土岐盛頼の弟・頼芸の側近となり、謀叛を起こさせて盛頼を追放して頼芸を守護職に就かせます。更に長井家の名跡を継いで長井新九郎と改名。天文7年(1538年)、守護代斎藤氏の名跡を継いで斎藤左近太夫利政(後に秀竜)と名乗り、天文11年(1542年)、遂に頼芸を追放して美濃一国を我が物とします。これが一般的に伝えられる道三の経歴です。
ところが近年の研究で、これまでの道三の前半生は、彼の父である長井新左衛門尉の経歴であり、道三は父の跡を継いで美濃の国主にのし上がって行ったことが明らかにされ、油売りから一国一城の主となったという従来のイメージとは程遠いものとなりました。とはいえ、「蝮」と恐れられた梟雄であったことには変わりはありません。

美濃乗っ取りに成功した後の道三は、土岐兄弟を後押しする越前の朝倉氏や尾張の織田氏の攻撃に悩まされながらこれを撃退。特に天文16年(1547年)に織田信秀が道三の居城・稲葉山城下まで押し寄せた時には、敵を引き付けておいて一気に攻め破り、織田勢5千余を討ち取る大勝利を収めました。
その織田家との間に和議が成立し、道三の娘・帰蝶(濃姫)と信秀の嫡男・信長との婚姻も成立します。その後行なわれた道三と信長との会見のエピソードは有名です。行列を組んで会見に向かう時の信長は、「うつけ者」の評判通り、肩衣で瓢箪をぶら下げた格好で進む一方で、見事な槍隊や鉄砲隊を従えていました。そして、会見の席に現れた信長は、先ほどとは打って変わって正装の凛々しい若武者姿を見せ付けて、道三の度胆を抜いたのでした。会見後、道三は家臣たちに「我が子らはいずれあの『うつけ者』の城門に馬を繋ぐことになろう」と信長を評したと伝えられています。

「悪」のイメージが強いと書きましたが、早雲同様道三も決してそれだけの人物ではありませんでした。国人層を掌握して家臣団を形成し、稲葉山城下には「楽市・楽座」を開くなど、美濃一国の経営に専念して他国を侵略することはありませんでした。面白いのは、道三の手法が娘婿の信長にそのまま踏襲されたことで、その意味でも道三は信長の先駆け的存在であり、また信長の真価を誰よりも見抜いていたのかも知れません。

そんな道三の最期は、嫡男・義竜の謀叛といういかにも乱世らしいものでした。道三は常日頃から義竜を疎んじており、また義竜も自分は道三の子ではなく、前の守護・土岐頼芸の落胤であるという噂を信じていました。道三が自分を廃嫡して弟に家督を継がせようとする動きがあることを知った義竜は、2人の弟を殺害し、父に叛旗を翻します。道三も兵を起こしますが、長良川での合戦は義竜の勝利に終わり、道三は討たれます。時に弘治2年(1556年)4月20日、享年63歳と伝えられています。
数々の謀略と裏切りによって美濃一国の主にまでのし上がった道三にとって、その最期は彼の生涯に相応しいものであったのか。それとも、余りにも皮肉なものであったのか…。

風雲児早雲

「戦国時代は北条早雲から始まる」と言われます。
出自もはっきりとしない一介の素浪人が、諸国流浪の日々を送るうちに突然小城の主となり、一夜にして一国の治める大名へとのし上がった。実力がものを言う戦国乱世の幕開けに相応しい人物と言えるでしょう。

北条早雲。またの名を伊勢新九郎長氏(または盛時)。彼の出自についてはいまだに謎に包まれており、出自だけでも山城国宇治説・室町幕府政所執事伊勢氏説・備中国伊勢氏説・伊勢国説・大和国在原説など、諸説があります。生まれた年も室町中期の永享4年(1432年)であると言われていますが、最近では康正2年(1456年)とする説もあってはっきりとしません。「北条」の姓は後の俗称で、早雲の通称は出家後の「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」という号からきています。この謎めいた前半生が、彼の「風雲児」としての生き様とイメージを象徴しているように感じます。

諸国流浪の日々を送っていた早雲が、歴史の表舞台に躍り出るきっかけとなったのは、応仁の乱から間もない文明元年(1469年)、駿河の守護大名・今川義忠の側室だった妹・北川殿を頼って駿河に下って来たことでした。文明8年(1476年)、義忠の戦死後、今川家で家督を巡る争いが起こり、その調停役となった早雲は、北川殿の子の竜王丸(後の今川氏親)を当主に就けることに成功し、自らは駿河興国寺城主となりました。この時既に50代半ばであったと言われています。
その後、着実に力を蓄えていった早雲が更に飛躍したのが延徳3年(1491年)のことです。当時の関東では足利将軍家の一族である古河・堀越の両公方家と、関東管領を務める山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉家の4勢力の間で争いが絶えず、その上、堀越公方・足利政知の死後、強引に家督を継いだ嫡子茶々丸と家臣団との間でも対立が生じていました。早雲はこの混乱に乗じて茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆一国を手に入れることに成功しました。時に早雲、60歳のことでした。
明応4年(1495年)2月11日、相模小田原城主・大森藤頼に、「鹿狩り」を口実にして一気に夜討ちをかけて城を乗っ取り、関東へ進出。以後、小田原城を拠点に相模一国を手に入れる足掛かりとし、永正9年(1512年)、鎌倉以来の名族である三浦氏がいる相模新井城の攻略を開始。4年後の永正13年(1516年)11月に三浦氏を攻め滅ぼし、85歳にして、遂に相模一国を平定することに成功したのでした。

北条早雲は「下剋上」の代表的存在とされ、美濃の斎藤道三などと並んで「戦国の梟雄(きょうゆう)」とも呼ばれています。「梟雄」とは、「残忍で猛々しい人」という意味にあたるそうですが、早雲は決してそれだけの人物ではなく、人身掌握や領国経営でも巧みな手腕を発揮しました。
伊豆を手に入れた早雲が最初に着手したのは、現地の国人たちを掌握することでした。早雲は各所に高札を立てて、自分に従う国人の所領は安堵し、敵対すれば火を放つと宣言。これを聞いた国人たちは揃って早雲に従うことを約束しました。また、風邪が流行っていたことから、部下に命じて病人の看護をさせたので農民たちは安心して自分たちの村に戻ってきました。更に、年貢を「五公五民」から「四公六民」へ軽減した上に他の賦役も撤廃したことから、伊豆だけでなく他国の農民たちも「自分たちの国も新九郎殿になれば」と言ったと伝えられています。
早雲は「早雲寺殿廿一箇条」で、領国経営にあたる将たる者が守るべき家訓を子供や家臣たちに残しています。そこには日常生活の心得や作法が細かく記されており、人身掌握や善政に心を砕いた彼の苦労を偲ぶことが出来ます。

永正15年(1518年)、家督を嫡子氏綱に譲って隠居した早雲は、翌永正16年(1519年)8月15日、伊豆韮山城で天寿を全うしました。享年88歳と伝えられています。
早雲が戦国武将の「先駆け」として今日でも評価されているのは、決してその謎に満ちた素性や謀略家としてだけではなく、青年期の諸国流浪による見聞などで培ったとされる人身掌握術や、それを基にして領国制を確立したことが大きいと言えます。北条家は5代にわたって関東で勢力を振るうことが出来たのも、こうした早雲の「善政」があったからでしょう。

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