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数ある戦国武将の中でも、上杉謙信という武将は極めて異色の存在と言えるのかも知れません。 宿敵・武田信玄と並ぶ戦上手と称される一方で、生涯女性を近づけなかったこと、仏教の浄土の北面を守る神である毘沙門天を心酔するなど神仏への信仰心が厚く、自ら毘沙門天の化身と信じるまでになっていたこと、旧来の秩序や権威を重んじ、生涯「正義」を貫き通したことなど、個性豊かな人物が多い戦国武将の中でも、特に異彩を放っている存在だと言えます。 越後の守護代・長尾為景の子として生まれた長尾景虎、後の上杉謙信が、父の没後その跡を継いだ兄・晴景に代わって長尾家当主の座に就いたのが18歳の時。領内で勢力を振るう国人たちを押さえて越後を平定したのが天文20年(1551年)頃のことでした。 その後、国内での秩序維持に努める一方で、信濃や関東への出陣を繰り返し、生涯の宿敵となる甲斐の武田信玄や相模小田原の北条氏康と戦いを繰り広げることとなります。このいずれの経緯にも、信義に厚い謙信の生き方がよく表れています。 信玄と戦うことになったのは、彼によって信濃を追われた村上義清らが旧領を回復するために謙信へ懇願したのがきっかけでした。関東についても同様で、関東管領・上杉憲政が関東に勢力を拡げていた北条氏康に追われ、謙信のもとに逃れて家督を譲り、関東の平和を回復するように要求し、これを受けて関東への出陣を決意したのでした。信玄とは川中島で計5回戦い、また関東へは14回にわたって出陣し、陣中で7度も年を越しましたが、どれも「領土拡張」のためではなく、義理を通すためのもので、戦上手であったことから尚更頼りにされたのでしょう。 謙信が旧来の秩序や権威を重んじていた例として、先ず2度の上洛が挙げられます。当時の他の武将たちが自ら天下に号令する目的で上洛を目指していたのに対して、天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の2度にわたる謙信の上洛は、時の将軍・足利義輝や天皇へ拝謁し、信濃や関東への出陣の許可を求めることが目的だったそうです。また、上杉憲政の要請を受けて関東へ出陣したのも、関東管領として室町幕府の支配体制を立て直すことが目的でした。当時、室町幕府や朝廷の権威は既に地に墜ち、また関東管領の権限も「有名無実」と化していましたが、謙信はそれらの維持と回復のために戦い、特に関東管領職は、実力者である謙信によって、再びその権威と効力を回復したと言えるのかも知れません。 このような考え方の持ち主であった謙信にとって、合戦での宿敵は信玄や氏康でしたが、思想上での宿敵は、むしろ4歳年下の織田信長だったと言えます。旧来の秩序や古い因習を破壊して新しい時代を開こうとする信長の存在は、謙信にとっても脅威的で、お互いに嫌悪感を持っていたのではないかと推察します。実際、信長は手紙の中では謙信に低姿勢を見せながら、家臣には「阿呆」呼ばわりして軽蔑していたそうです。信長が勢力を伸ばしていくにしたがって、彼との対決は避けられなくなり、天正5年(1577年)の加賀手取川の合戦では織田軍に圧勝し、続く関東出陣の後には信長追討を計画してその作戦を練っていた矢先、天正6年(1578年)3月13日、脳卒中で倒れ亡くなります。時に、謙信49歳でした。 武田信玄が亡くなる寸前、息子の勝頼に「もし武田家に存亡の危機が訪れた際には謙信を頼りにせよ」と遺言を残したエピソードは、謙信が信義に厚く、敵将であった信玄もそれを認めていたことを表わしたものとして有名です。彼の生き様は、戦国武将よりも源義経に代表される源平時代の武将のそれに近いのかも知れません。謙信の生きた時代は、彼自身にとっては居心地の悪いものだったことでしょう。しかし、戦国乱世に無欲で並外れた正義感を貫いたその孤高の生き方こそ、いまだに高い人気を維持している所以であると思います。
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戦国武将
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武田信玄と言えば、戦国史上最強と謳われた騎馬軍団を率いた戦上手であり、宿敵・上杉謙信との対決をはじめ、織田信長や徳川家康も恐れたという、戦国武将の中でも「大物中の大物」というイメージが強く、一方では野心家で、父を追放し、実の息子を死に追いやるなどの冷酷非情な印象も強く持たれているように思います。 しかし、実際の信玄は、行政や統治の面でも優れた手腕の持ち主でもあり、武将としてだけでなく、政治家としても一流の人物でした。 信玄の生涯にわたっての行動は、自ら治める甲斐国を豊かにしたいという理想から始まったと言えるのではないでしょうか。その代表例として、いわゆる「信玄堤」と「甲州法度之次第」が挙げられます。 勇猛ながら悪逆非道な振る舞いもあったという父・信虎を駿河へ追放して、その後を継いだ武田晴信、後の信玄は、甲斐と武田家の発展のために全力を尽くします。先ず着手したのが治水対策。洪水が多かった釜無川や笛吹川などの河川工事を断行し、20年もの歳月をかけて「信玄堤」と呼ばれる防水施設を築き上げ、洪水が減少しただけでなく、農業生産の向上によって甲斐の国力をも充実させていきました。天文16年(1547年)には、「甲州法度之次第」を制定・公布。民政や武士のあり方などに言及し、全55箇条の最後には、信玄自らがこれを遵守する旨を記載しています。自分の作ったものは先ず自分が従わなければならないという姿勢は、為政者としてのあるべき姿と言うべきでしょう。 その他、鉱山開発や度量衡、貨幣鋳造制度の確立、商人・手工業者たちの保護に商品流通の活性化など、信玄の民政における業績は数え切れず、これらの徹底した「富国強兵」策が、山国であった甲斐を豊かにし、また武田軍団の強さへと繋がったのではないでしょうか。 「群雄割拠」と言われた戦国乱世の中でも、信玄が生きた時代は、相模に北条氏康、駿河に今川義元など、近隣にも名だたる武将がそれぞれ勢力を伸ばしていました。そこで信玄は大きな統一勢力を持っていなかった信濃に注目し、進出を図ります。外交、謀略、諜報活動を駆使して信濃の大半を治めたところで、越後の上杉謙信と対決することとなり、全5回に及んだ川中島の合戦の後、信玄は信濃全域を支配下とすることに成功します。 この頃から、信玄の領土拡大の版図は更に拡がり、永禄3年(1560年)に今川義元が桶狭間で織田信長に討たれ、今川家が弱体化すると、駿河への進出を画策。しかし、これがきっかけで嫡男・太郎義信と対立。義信は幽閉され、永禄10年(1567年)に30歳で亡くなります。この間、永禄8年(1565年)に織田信長と同盟を結び、永禄11年(1568年)、大軍を率いて駿河へ進攻。これに北条氏が反発したために戦いは長期化しますが、信玄は巧みに関東に進撃し、北条の領内を撹乱して撃退。元亀元年(1570年)、遂に駿河一国を手中に収め、130万石を領する大大名となります。 同じ頃、信長は上洛を果たし、足利義昭を将軍に擁立して天下統一への動きが加速していました。元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなると、信玄は再び北条氏と手を結び、また近江の浅井長政や本願寺などの反信長勢力と結んで信長包囲網を形成し、翌元亀3年(1572年)10月に上洛作戦を敢行します。同年12月の三方ヶ原の合戦で徳川家康の軍勢を撃破した信玄は、更に軍勢を西に進めようとしましたが、病が悪化したために、甲斐への撤退を余儀なくされ、天正元年(1573年)4月12日、帰国途中の信濃駒場で、53年の生涯を閉じたのでした。 武将や政治家としてだけでなく、教養の高さでも知られ、『論語』『孫子』『呉子』『周易』などの中国の書物を学び、また詩や和歌を詠み、書画も巧みであったそうです。有名な「風林火山」の旗印は、『孫子』の一節を書いたものとしてよく知られています。 信玄が亡くなった時、「自分が亡くなったことは3年間秘密にせよ」と遺言に残したというエピソードには、彼の存在の大きさとその死の重大さがよく表れています。彼の死を聞いた上杉謙信は、「惜しい大将を亡くしたものだ」と言って涙を流したと伝えられ、徳川家康も「あれほどの弓取りは他にあるとは思えぬ」と言って、その死を悼んだといいます。信玄の死後、武田家はわずか10年で滅亡しますが、信玄が制定した「甲州法度之次第」が、家康が江戸幕府を設立後に定めた「武家諸法度」のモデルになるなど、その影響力は江戸時代になっても強く残っていたと言って良いでしょう。そうした意味でも、武田信玄は、戦国武将の中でも一際大きな影響力を持った「巨人」だったと言えるのではないでしょうか。
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徳川家康は、信長・秀吉と並ぶ「戦国三英雄」の1人ですが、この2人に比べると何となく平凡な印象があり、また、これといった強烈なエピソードも少ないように思います。 一般的には律義で実直、忍耐強いというイメージがある一方で、狡猾で「狸親父」というイメージも根強く、これほど一定の評価がしづらい人物は他にいないのではないでしょうか。 家康が生まれた当時の生家・松平家は、東には駿河の今川氏、西には尾張の織田氏という2大勢力に挟まれ、苦しい立場に置かれていました。少年時代の家康は駿府での人質生活を余儀なくされ、永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれるまでの12年間続きました。この長年に渡る人質生活の屈辱に耐え抜いたことが、その後の家康の人間形成に大きな影響を与えたのではないでしょうか。 桶狭間合戦後、岡崎城に戻りそのまま今川家から独立して信長と同盟を結んだ家康は、三河一向一揆に苦しめられながらも三河一国の統一を果たし、その後、遠江を攻略して浜松城へ居城を移します。 浜松城へ移った後、家康は2度の人生最大の失敗を経験します。そしてこの2つの失敗から、彼の長所である律義さ、実直さ、それに忍耐強さがより浮かび上がってくるように思われます。 1つ目は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の合戦。45,000の大軍を率いて上洛を敢行した武田信玄に対して、家康は信長の援軍を合わせても約8,000という圧倒的不利な状況の中で真正面から合戦に挑んで大敗し、命からがら浜松城へ逃げ帰ります。しかし、この時家康に仕える三河武士たちは「敵に後ろを見せて死んだ者は1人もいない」と、信玄やその配下の武将たちを驚かせました。信玄ほどの武将にこのような「真っ向勝負」を挑んだのは恐らく家康だけではないでしょうか。そして、大敵を相手にして正々堂々と戦いを挑んだ実直さが、三河武士団や多くの諸将の信頼を得たことは確かでしょう。家康が自らを戒めるために、三方ヶ原での敗戦で意気消沈した自分の姿を肖像画に描かせたのは有名な話です。 2つ目は、三方ヶ原の合戦から7年後、正室築山殿と長男信康を死に追いやってしまったことです。築山殿は今川氏の重臣の娘であり、一方信康の正室徳姫は信長の娘で姑とは仲が悪く、また信康にも乱暴な振る舞いが見られたそうです。徳姫が信康と築山殿が共謀して武田家と内通したという手紙を信長に送ったことから、信長が家康の重臣に問いただした所、一言も弁解出来なかったために、信長は築山殿と信康の処分を家康に命じます。まだ力の弱かった家康は、信長の要求に涙をのんで応じ、築山殿を殺害させて、信康には切腹を命じました。この時家康は、内心では築山殿と信康が逃げてくれることを期待していたようです。 仮に、家康がこの時信長の命令を無視していたら、確実に家康は信長に討たれていたでしょう。妻と息子を死なせてしまった無念さ以上に、ここでも家康という人の並外れた忍耐強さを感じてしまいます。 持ち前の律義さや忍耐強さによって数々の危機を乗り越え、また信長の死を経て、豊臣秀吉に臣従してからも一貫して地道にコツコツと物事に取り組んできた感のある家康が、関ヶ原の合戦に勝利して天下の覇者となってからは、一転して強引さが目立つようになってきました。特に最晩年の豊臣家取り潰しに関しては、明らかに「言い掛かり」としか言いようのない手段を用いており、これが「狸親父」のイメージに繋がっていると言えます。天下泰平と徳川家の繁栄を維持するために、自分が生きているうちに災いのもとを断ちたいという思いがあったのでしょうが、「晩節を汚した」という印象も否定出来ません。 俗に「徳川三百年」と称される長期政権の創始者であり、長い平和の時代を招き入れた偉大な人物でありながら、家康はどうも「平凡」というイメージが拭いきれないのは最初にも書いた通りですが、それ以上に決定的な評価が出来ないように思います。
徳川家康を評価することは、想像以上に難しいことなのかも知れません。 |
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豊臣秀吉は、日本史上最も人気の高い英雄の1人です。 その理由は、何と言っても低い身分から天下人にまで登り詰めたという空前絶後の出世を果たしたことにあるのですが、名だたる武将たちがひしめく戦国乱世の中で、何故秀吉が天下人になれたのでしょうか。 それは、秀吉が単なる武将、政治家ではなく、多彩な才能の持ち主であったからかも知れません。 ここでは、秀吉を天下の頂点にまで押し上げたその多彩な才能について紹介したいと思います。 秀吉の才能として先ず挙げたいのは、「人たらしの名人」と呼ばれたほどの優れた人心掌握術です。人身掌握と言っても、秀吉の場合は決して上から押さえつけるものではなく、いきなり相手の心中に入り込み、いつの間にか相手を自分のペースに引き込んでしまうというものでした。これは、秀吉が百姓の家に生まれ、社会の底辺からのし上がってきたことが背景にあり、「人の心を掴む」ことから相手の要望を受け入れ状況を判断し、それに見合う行動も起こしたこともあります。織田信長の草履取りであった頃に、信長の草履を懐で温めていたという有名なエピソードも、秀吉のそうした一面をよく表わしており、この点では、人の心が読めなかったであろう信長よりも抜きん出ていたと言えます。 次に、建築の分野でも秀吉は恵まれた才能を持っていました。美濃攻略における「墨俣一夜城」のエピソードは史実であるかどうかは疑わしいですが、秀吉がいかに城造りに関しても優れた才能を持っていたかを示しています。長浜城や大坂城、伏見城、肥前の名護屋城、それに小田原攻めにおける石垣山の「一夜城」と、いずれも築城の名人であった秀吉の面目躍如たるものがあります。 「パフォーマンス」の面でも秀吉は優れていました。例えば、関白・太政大臣に任ぜられた後の天正14年(1586年)に徳川家康が臣従した際、公式対面の前日、秀吉の家康の宿所を突然訪問して歓待し、「明日の対面の時には少々偉そうに振舞うがお許し下され」と言い、当日の公式対面の席ではまるで大上段から言い放つように、「家康、大儀!」と一喝し、家康はただ平伏するのみであったと言います。秀吉は持ち前の演技力によって、自分と家康との格差を同席していた諸将に見せ付けたという訳です。 このように多才な秀吉も、文字通り命がけで働いたことも何度かありました。元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を攻めた際、義弟であり同盟者でもあった近江の浅井長政の裏切りを知り、急遽撤退して京都へ逃げ帰る事態となりました。その時、自ら殿軍を買って出たのがまだ木下藤吉郎と名乗り、織田家の一部将に過ぎなかった秀吉でした。秀吉の勇猛果敢な活躍によって、信長軍は無事に京都への撤退に成功します。これが有名な「金ヶ崎城撤退戦」です。「本能寺の変」の後の、毛利氏との和睦から山崎合戦までの迅速な行動力も、「信長の後継者になる」という野心からではなく、「失うものは何もない」という人間の強味のなせる業だったと言えるでしょう。一方で、「高松城水攻め」に代表される奇想天外な発想や、出来る限り「無益な殺生」をしない戦いぶりも、秀吉の特徴と言えます。 秀吉は、茶の湯などの文化や芸術にも深い造詣を持っていました。天性の才能に恵まれる一方で、学問も地位も持っていなかった秀吉にとって、常に努力と勉強の連続だったことでしょう。そうした「天才と努力の人」であったことこそ、信長の後継者となり、天下人にまでなった所以であると思うのです。 多才にして努力家。加えてバイタリティーと勇気に溢れ、稀代のパフォーマーでもあった秀吉ですが、晩年になるにつれて、それらの輝きに陰りが見え始め、特に朝鮮出兵以降の秀吉は冷酷さや残忍さが目立つようになり、それまでの彼とは全くの別人に成り下がってしまったと言わざるを得ません。権力者となったことの驕りや急激な老化が原因と言われていますが、晩年の秀吉の行動が、不思議なほどに豊臣家滅亡への道に繋がっていることに、運命の皮肉さを感じてしまいます。
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織田信長ほど、名のある戦国武将の中でも魅力に溢れ、今でも根強い人気を誇っている人物はいないでしょう。 信長と言えば、独創的な軍略と政策によって天下統一への道を開いた天才というイメージがある一方で、比叡山焼き討ちに代表される残忍さや狂気を持った人物と評価する向きもあります。ここでは、僕が考える信長の特徴を挙げることで、信長という人物について考えて行きたいと思います。 先ず、武人としての信長について考えてみたいと思います。今川義元を討ち取った永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いや、鉄砲を有効に活用して武田軍に勝利した天正3年(1575年)の長篠合戦のように、信長は型破りな戦術で劇的な勝利を収めたイメージが強烈ですが、決してそれだけではありませんでした。 例えば、桶狭間での勝利後に行なった美濃攻略では、地理的に河川の多い要害である上に、何度も美濃勢に撃退されるや、斎藤家の家臣たちを切り崩す方法を取り、永禄10年(1567年)、稲葉山城(後の岐阜城)を攻め美濃一国を手にするまで、実に7年の歳月を要しています。また、武田勝頼を滅ぼしたのは、長篠合戦から7年後の天正10年(1582年)のことで、それまで武田氏の衰退をじっくりと待っていた姿には、「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」の句とは正反対の信長の姿を垣間見ることが出来ます。石山本願寺との対決では、およそ10年もの歳月を要しています。これらの例から、戦いにおける信長の辛抱強さが窺われます。 元亀元年(1570年)の越前朝倉攻めの際には、義弟である近江の浅井長政の裏切りを知った途端、それまでの作戦を全て捨てて京都へ逃げ帰り、一から出直すということもやっています。決して目先のことに囚われることのなかったこの時の決断にも、他の武将たちとは違う信長の非凡さが感じられます。 次に政治家としての信長はどうだったのか。先ず評価したいのは、信長が民政や経済の面に目配りをしていたことです。民政面では安土をはじめとする城下町の整備と、そこでの商業を活性化するための楽市・楽座の施行、そして農村での検地による税収の増加と、いずれも信長自身の実力の増強に繋がっています。経済面では、室町幕府15代将軍となる足利義昭を擁立して上洛した後、関所を廃止し、泉州の堺と、近江の大津・草津に代官を置くことを切望し、承諾を得ています。堺は当時日本最大の海外貿易港であり、琵琶湖を控えた大津・草津は日本全国の物資が集まる土地で、いずれも経済上の重要地点でした。そこに注目したところに、信長が経済の分野でも優れた視点を持っていたことがよく分かります。 外交面では、美濃攻めにおいてその手腕が大いに発揮されました。美濃の西隣に位置する近江の浅井長政とは、妹のお市を通じて姻戚関係を結び、東隣の甲斐の武田信玄とも姻戚関係を結びました。また、東方の安全を確保するために三河の徳川家康と同盟を結び、美濃の斎藤氏を孤立無援に追い込むことに成功したのでした。その後、「信長包囲網」が布かれ危機に陥った時に、信長は外交で乗り切ることは敢えてせず時期を待ち、自分が再び優位に立った時に、一気に殲滅作戦を行ない、再び外交戦略を展開しています。ここにも信長の辛抱強さと用意周到さがよく表われていると思います。 そして、信長を語る上で忘れてはならないのは、信長が常に「新しさ」を追求する人だったということでしょう。信長と同時代の武将として、特に代表的な存在が武田信玄と越後の上杉謙信ですが、2人とも合戦での強さは信長以上であったと言われていますが、どちらも迷信家で保守的な思想の持ち主でした。これに対して信長は元来迷信というものを持たず、だからこそ比叡山焼き討ちや高野聖数千人を斬るといった思い切った行動をすることが出来たのでしょう。現実主義者であった信長にとって、「古さ」の象徴であり、また偽善で腐敗しきった当時の仏僧たちの存在は我慢出来ない存在で、対照的にキリスト教に理解を示したのは、その宣教師たちが天文、地理などの近代的な知識の持ち主だったことも影響していたと考えられます。 織田信長は用意周到さと辛抱強さ、そして他の武将たちになかった「新しさ」を併せ持っていた人でした。そしてこれらはいずれも「天下統一」という大きな目標に活用されました。信長がいたからこそ豊臣秀吉による天下統一が達成され、徳川家康も長期政権を確立出来たと言えるでしょう。中世という古く大きな壁を壊し、近世という新時代を到来させた信長が、明智光秀によって本能寺に斃れたことは、そのまま信長が歴史的役割を終えたことを意味していたのかも知れません。
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