万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

徒然

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100・百・一〇〇

5月から書き始めた、この「万年寝太郎徒然日記」。この記事が、ちょうど100番目となります。
そこで、「100」という数字についての色々なことを書いてみようと思います。

漢和辞典で「百」という漢字について調べてみると、部首は「しろ」。意味は「10の10倍」「百たび」、それに「もろもろ」「あらゆる」「多い」「さまざま」などがあるそうです。「百」の部首である「白」という漢字は「博識」の「博」に通じ、「広い」の意味があり、大きい数としての「ひゃく」の意味を表したものであろうということです。
例えば、「百姓」という漢字には、我々が普通使っている「農作業をする人」という意味の他にも、「多くの役人」とか「多くの人民」という意味も載っています。ライオンは「百獣の王」と呼ばれていますが、この「百獣」の「百」の字も「多くの」という意味を持っているという訳です。
他にも、「百花繚乱」とは「色々な花が咲き乱れている様子」を表し、「百鬼夜行」とは「色々な妖怪が、暗夜に列をなして歩くこと」という意味から転じて、「多くの人が怪しく醜い行為をすること」「悪人たちが時を得て勝手な振る舞いをすること」という意味に使われています。ここでも、「百」という漢字が「色々な」とか「たくさん」という意味を持っています。

これとは別に最近至る所にあるのが、いわゆる「100円ショップ」。その数は「百」どころではないくらい全国にあるようですが、売られている商品は殆ど「100円」を少し超える値段という物ばかり。ここでの「100」という数字は「安い」という意味を持っていて、漢字の意味とは正反対と言えるでしょう。
自分もよく利用しますが、急にある物が必要になった場合に非常に便利です。これからもコンビニに負けないくらい数が増えていくかも知れません。

「100」という数字には、物事の一つの区切りや目安の意味も込められているように思います。世紀は100年ごとに変わるし、テストの点数も満点は100点が普通。100歳という年齢にも「長生き」という意味以上に、一つの区切りの意味が強いように感じられます。
「100」という数字が郵便番号の初めの3桁となっているのが、東京都千代田区。ここには皇居や国会議事堂などがあって、まさに日本の中心というべき地。「100」という郵便番号に相応しい所と言えるのではないでしょうか。

「百」や「100」についてだらだらと書いてみましたが、それこそ色々な意味やイメージを持っているように思います。
因みにこの「万年寝太郎徒然日記」。記事が100個を超えても勿論続けて行きますので、これからもどうぞ宜しくお願い致します。

地震は怖い

今日、また大きな地震がありました。
午前11時46分、宮城県沖を震源とする震度6弱の地震があり、5つの都と県で重傷者5人を含む58人のけが人が出ました。死者が出なかったことが、まさに「不幸中の幸い」でした。

ここ数年、全国各地で大きな地震が立て続けに起こり、特に昨年あたりから頻発するようになりました。
昨年は、7月にやはり東北地方で大きな地震があり、10月には新潟県で発生して多くの被害が出ました。このうち、家が倒壊して車で寝泊りしていた被災者が、肺の動脈の血管を詰まらせる、いわゆる「エコノミー症候群」で死亡するという例も多く見られました。
今年に入っても、3月に福岡県で大きな地震があり、そして今回の宮城県沖の地震が発生したという訳です。
今回の地震では、仙台市の複合健康施設内のプールの天井が落下して、多数の負傷者を出し、1万9千戸が一時停電した他、東北新幹線も停電で全面ストップし、乗客が8時間も車内で缶詰状態にされていたそうです。

僕自身は、平成7年1月17日の「阪神・淡路大震災」と、平成13年3月24日の「芸予地震」の両方を経験しています。
阪神・淡路大震災の時は、発生したのが明け方の5時45分頃のことで、当時大学生だった僕は、大きな揺れと地響きで叩き起こされました。何事があったのかと思い、無意識にテレビのスイッチを入れると、今起こったばかりの地震の速報がされていました。その後、時間が経過するにつれて、被害状況が明らかにされ、大学も全て休講になったことが分かると、早速尾道の実家に電話で連絡し、無事であることを知らせました。その日は熱を出してしまい、1日中寝込みましたが、それから2〜3日は大学は休講となり、終日テレビ・ラジオの地震に関するニュースを見聞きしていたことを今でもはっきりと覚えています。
芸予地震の時はちょうど土曜日で、僕は最寄りの書店にいました。地震発生と共に店内は停電となり、出入口の自動ドアも作動しなくなってしまいました。ただ、店員さんたちが落ち着いて対応したお陰で大きな騒ぎになることはありませんでした。僕の住む尾道は震源地から距離があったこともあって、大きな被害は殆どありませんでした。

とにかく、地震は怖いです。地震そのものも勿論ですが、その後に起こる余震や津波の恐ろしさも決して侮ってはいけないということは、過去の実例からも明らかにされています。阪神・淡路大震災以降、地震対策も強化されているようですが、それでも地震が起きる度にまた新しい課題が出てきています。
「自分たちは絶対大丈夫」とは考えずに、「いつ地震が起こっても大丈夫」と言えるような備えと心構えを持つことが大事だと思います。
今日は8月6日。広島は60年目の「原爆の日」を迎えました。
原爆投下の年である昭和20年の生まれで、広島テレビの名物アナウンサーだった脇田義信さんは、ある年の8月6日に「今日は、広島の命日です。今日という日は家族の命日と同様、永久に忘れてはならない日です」と、ブラウン管を通じて全国の人々に訴えたことがあります。
その脇田さんも、今年3月にガンによってこの世から旅立って行ってしまいました。

僕が小・中・高校生時代を通じて、8月6日という日は学校の「全校登校日」に当たり、原子爆弾が投下された8時15分になると各クラスで黙祷を捧げ、その後全校集会があり、続いて各クラスで平和や核兵器に関する学習が行なわれていました。長崎でも、8月9日に同じようなことが行なわれていたと、長崎出身の大学の同級生から聴いたことがあります。今でも、引き続いて行なわれていることでしょう。

僕自身、8月6日の「平和祈念式典」に参列したことがあります。中学3年生の時のことで、奇しくも平成に年号が変わって最初の「平和祈念式典」でした。生徒会の一員だった僕は、他の生徒会のメンバー数人と引率の先生と共に、朝5時頃尾道を出発し、7時前に広島へ到着。そのまま平和公園に直行し、式典に参列しました。その後、原爆ドームや広島平和資料館などを見て回り、当日の広島の様子を取材して、夏休み終了後に1冊の取材ノートにまとめました。あの時の広島の様子を自分の目で観たことは、今でもかけがえのない体験として記憶の中に鮮烈に残っています。

ところで、「昭和20年8月6日に広島で何が起こったか」「広島に原爆が落とされたのはいつか」という問いに答えることが出来ない広島の子供たちが年々増えているのだそうです。また、原爆投下から60年の月日が流れて、被爆者の平均年齢も70歳代を超え、実際に被爆体験をした人たちも1人、また1人と亡くなっている現状があります。戦争や原爆の記憶が風化されることが不安視される中、これまで原爆について固く口を閉ざしていた被爆者の方たちが、その体験を子供たちに語る会も最近では多くなっているそうです。こうした取り組みを通じて、原爆の記憶が途切れることなく語り継いでいくことは、今後益々必要になっていくことでしょう。

最初の言葉をもう一度引用すると、8月6日は広島の命日であり、9日は長崎の命日になります。たとえ広島県人や長崎県人でなくても、日本人は「ヒロシマ」と「ナガサキ」を決して忘れてはならないのです。そして、それを忘れさせてはならないのが、他でもない自分自身の義務であると思っているのです。

こんな旅がしてみたい

夏休みを海外で過ごす人が相変らず多いようです。
企業でも夏休みの日数が増えたことが原因でしょうが、毎年この季節になると、海外へ旅立つのを待っている人々でごった返す空港の様子がテレビのニュースで紹介されることが、すっかり「風物詩」として定着したようにも思います。
僕は海外へ行くほどの余裕も時間もありませんが、旅に行きたいという思いは強く持っています。それも、飛行機ではなく、普通列車やローカル線を利用しての旅に「憧れ」のようなものを抱いています。

個人的な印象ですが、旅には、目的地へ行ってそこの名物などを見物したりして楽しむものと、目的地は決めているが、そこへ到着するまでの風景や予定外の出来事などを楽しむものとがあるように思います。大体、最初に挙げたタイプのものが一般的な旅なのかも知れませんが、後に挙げたタイプの旅も案外楽しいものではないかと思っています。そして、このタイプの旅は、鉄道を使うのが打ってつけではないかとも思うのです。

旅とは違いますが、今の時期は夏休みやお盆休みなどで、故郷へ帰省する人も多い時期です。僕も大学時代は大阪に下宿していたので、夏休みに入り8月になると、大阪から実家の尾道へ帰省することが恒例になっていました。当日は午前中に出発し、最寄りの近鉄や地下鉄、そしてJRの大阪環状線を乗り継ぎ昼頃に梅田で昼食を済ませ、それから大阪駅から在来線に乗り、途中で何回か乗り継いで、夕方6時前後に尾道駅に到着するというのが僕の帰省のパターンでした。乗車している時間は大体4時間あまりで、この間、携帯していた本に目を通したり、車窓から風景を見たり、また次の乗り換え線が到着、出発するまでの時間も帰省時の楽しみの1つになっていました。新幹線も使わず、乗車途中の風景などもゆったりと楽しむというのは、大学時代だからこそ出来たのかも知れませんが、今でも、この時のことを思い出しては、こんな旅をしてみたいという思いに駆り立てられます。

NHKのBSで、日本列島の北から南までの在来線を乗り継いで、途中下車をしながら日本一周するという番組をやっていましたが、番組を見る度に、大学時代ののんびりとした帰省と、また大阪へ戻る時のことを思い出し、そして、いつか自分もこんな旅がしてみたいという気持ちになったものです。
いつの日か、こんな旅が出来るようになりたいです。
僕はいわゆる「食通」ではありません。それどころか食べ物の好き嫌いが頗る激しい人間ですが、「いつも美味しいものを食べたい」という気持ちは強く持っています。
好きな食べ物は色々とあるのですが、中でも麺類が好物で、昼食には必ずと言っていいほど食べています。

先月末、うちの両親が3泊4日で北海道旅行に行き、2人とも満足な様子で帰って来たのですが、ただ1つ残念がっていたのが、札幌でラーメンを食べることが出来なかったとのこと。
北海道は札幌の「味噌ラーメン」が有名な他に、函館や旭川なども有名で、さしづめ「ラーメン王国」と言った所でしょう。
全国の「ご当地ラーメン」が1度に食べられる横浜の「新横浜ラーメン博物館」には、全国20の「ご当地ラーメン」が紹介されていて、どれも1度は食べてみたいものばかりですが、その中には僕が住んでいる広島県尾道市の「尾道ラーメン」が含まれています。

「尾道ラーメン」の始まりは、昭和3年の屋台からだそうです。その屋台が人気を博して店を構えるようになり、今ではそば屋やうどん屋と比べてもラーメン屋の数が圧倒的に多く、ラーメン好きの風土がすっかり定着しています。
昔ながらの尾道ラーメンの特徴は、醤油味のスープにコシと歯ごたえのある平麺。スープは鶏がらがベースで、隠し味に小魚を使っているのが港町である尾道ならではだと言えます。更に背脂のミンチをスープに浮かせているのも大きな特徴です。最近ではスープに豚骨を合わせたり、麺を平麺に変わって伸びにくい細麺を使ったり、店によっては小魚を使わずに独自の調理法を用いたりしているようです。
尾道ラーメンが「全国区」になったこともあって、地元でもラーメン屋が以前よりも多くなって、それぞれの店で独自の味の工夫やサービスが見られるようになってきました。
昔と同じ味と値段を守り続けている老舗の店から、地元の小麦農家と提携して独自の細麺を使っている新しい店まで、店ごとに個性が感じられます。
最近のサービスの中で特に嬉しいのが、ラーメンの中に煮玉子が入っているというもの。鶏がらベースのスープが半熟の煮玉子にしみこんで堪えられません。麺はどちらかと言えば細麺が好みです。

最近はカップでも「尾道ラーメン」なるものがあり、僕も食べたことがありますが、やはり実際に店へ足を運んで「本物」を食べるのが一番であると思っています。

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