万年寝太郎徒然日記

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戦国時代

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全国各地に群雄が割拠し、熾烈な覇権争いが繰り広げられた戦国時代。そうした時代は、強烈な個性がなければ生き抜いて行く資格がなかったと言えるかもしれません。
それ故に、この時代を代表する武将たちには、それぞれに相応しいニックネームが付けられています。

先ずは、美濃の斎藤道三。一介の油売りから数々の謀略によって主家を乗っ取り、美濃一国を我が物にした彼は、「美濃の蝮」と恐れられました。蝮は一度喰らい付いたら放れず、確実に毒が回って来ます。一度目を付けた美濃という国を絶対に逃さず、確実に自らの勢力を拡大してものにしていった過程は、蝮の毒が蔓延する様子と重なっていたと言えなくもありません。
戦国時代最大のライバルである甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、それぞれ「甲斐の虎」「越後の龍」と並び称されています。生涯独身を通し、決して私利私欲のためには戦わなかったと伝えられている謙信は、「聖将」とも呼ばれました。

青年時代は、その奇抜な言動から「尾張のうつけ者」と呼ばれた織田信長は、後に「赤鬼」と言われ、怖れられるようになります。これは元亀2年(1571年)、比叡山を焼き討ちして僧俗3千人余りを殺戮したことが大きく影響しています。憤怒の表情の赤鬼に例えるとは、信長の悪魔的な性格を見事に言い当てていると言えるでしょう。一方、豊臣秀吉と言えば「猿」が有名ですが、これとは別に「ハゲ鼠」とも呼ばれました。共に信長の命名とされ、秀吉の貧弱な顔をからかったものと言われていますが、同時に機敏で才覚に溢れた秀吉の人物像にも通じるようにも思います。後に「日吉(ひえ)権現の生まれ変わり」を称した秀吉にとって、その神獣である「猿」とは縁起の良いニックネームでした。徳川家康の「狸」とは、晩年の老獪なイメージが大いに影響しているのでしょう。

地方の武将たちに目を転じると、信濃の真田昌幸は、敵か味方か見分けのつかない油断のならない者という所から、秀吉に「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評されました。陸奥の伊達政宗は、隻眼であったことから「独眼竜」。四国の覇者となった土佐の長宗我部元親は、幼い頃は「姫若子」と呼ばれていたのが、後に「田舎大名だが油断がならない」と、真田昌幸と似たような理由で、信長から「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」と呼ばれました。
その勇猛ぶりが海を超えて轟いたのが薩摩の島津義弘。文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の2度の朝鮮出兵において、1万の兵を率いて明国の水軍を全滅させたことから、明軍から「鬼石曼子」(おにしまづ)と呼ばれその強さが恐れられました。

戦国武将のニックネームの中から代表的なものを挙げましたが、ここに挙げた武将たちは、いずれも一時代を築いた人物ばかりで、やはり強烈な個性に加えて、他を圧倒する行動力や業績を残した者こそ乱世を生き抜くことが出来、またそれによって、初めてニックネームを付けられる資格を有することが出来たと言えるのではないでしょうか。
戦国武将たちが「上洛」にこだわった理由が、いずれも足利幕府の体制内の権力闘争の枠内であった中で、いち早くその「枠」を打ち破り、一躍「天下人」の座に躍り出たのが織田信長でした。

信長は、15代将軍となる足利義昭を上洛させた後、近江・山城・摂津・和泉・河内の畿内5ヶ国の知行を許されながらこれを辞退し、代わりに和泉の堺、並びに近江の大津・草津に代官を置くことを願い出ます。この背景には、信長が自分の実力で獲得していない知行国など無意味であることを理解していた上に、堺・大津・草津という交通の要衝を押さえることで、商業を支配しようとする意図がありました。信長にとっての「上洛」とは、ただ単に京に上って権力闘争に加わるだけではなく、領国支配を拡張しながら経済的先進地域を支配するという明確なビジョンのもとで行なわれたものでした。

もう1つ忘れてはならないことは、京には将軍と共に天皇がいたということです。室町幕府が実質的な権威を持っていた間は、天皇の権威は将軍のそれに隠れており、大名たちにとってもさして気になるものではありませんでした。しかし、幕府の権威が衰退して戦国乱世に突入すると、戦国大名たちが自らの戦の大義名分を得るために将軍以上の権威として天皇を利用しようとします。例えば、上杉謙信が2度上洛したことについては前回も書きましたが、これは関東攻略の綸旨、つまり天皇からの命令を得るという目的もありました。
また、実力でのし上がって来た戦国大名にとって、まさに「喉から手が出るほど」欲しかったものが官位でした。それまで幕府を通していた任官も、12代将軍・足利義晴以降、将軍自身が京にいないという有り様で、各々が勝手に官位を貰うという状況でした。奥州のさる大名などは、官位を得るために遠路はるばる上洛したほどでした。

経済的に困窮していた朝廷にとっても任官は重要な収入源でした。それまで幕府の重臣にしか与えられなかった「左京大夫」や「修理大夫」といった官位が、甲斐の武田氏や相模の北条氏、或いは薩摩の島津氏といった有力な大名家ばかりでなく、中小領主にまで「安売り」がされるようになりました。加えて守護職の権威が失墜してしまったために、それに代わって国司の位が重要な意味を持つようになります。例えば信長に尾張守、徳川家康に三河守という風に、大名の領国の国司に任命するという現象が起こります。
このように、京都を押さえるということは、そのまま戦国大名たちの権威の源を押さえることを意味していました。信長が、武田信玄や近江の浅井長政、越前の朝倉義景、それに摂津の石山本願寺の包囲を受けて「四面楚歌」の状況に陥りながらこれを乗り切ることが出来たのも、天皇や将軍による「講和調停」という切り札を持っていたためでした。

信長から豊臣秀吉を経て、家康によって天下が平定されると、京を離れて江戸に幕府が開かれます。これは、戦国の世が終わったことで大名たちにとって私的に大義名分が不要になったからだと考えられています。再び京都が注目を浴びることになるのは、徳川幕府が成立してから約250年後の幕末のことでした。
戦国時代を語る上で重要な言葉の1つに、「上洛」があります。
諸国の群雄たちにとって、京に上って天下に号令することは自らの存在意義を賭けるものであり、また彼らの中で「上洛」の2文字が頭に浮かばない者はなかったと言っても良いでしょう。
それでは、戦国時代において京都はどのような魅力を持ち、また戦国武将たちはなぜ上洛することを目指したのでしょうか。

応仁の乱以後、京都は家督争いやクーデター、それに一揆が入り乱れ、一時として平穏な時が訪れることはなく、永正6年(1509年)の管領細川政元の暗殺をきっかけに管領細川家が分裂したことによって、更に拍車がかかりました。諸国の戦国大名が領国支配を進めて行く一方で、畿内の諸大名は権力闘争を繰り返し、確固とした領国支配を怠りました。当時の京の町は、政治の中枢都市であると同時に日本一の大消費地であり、また、手工業の一大生産地、学芸・文化の中心地であった上に、「町衆」と呼ばれた商人たちの経済力をバックにした自治的商業都市でもありました。地方の大名たちは競って名のある学者や僧侶を招いて京の文化の導入を試み、「小京都」と呼ばれる地方都市が生まれるきっかけにもなりました。
同じ頃、畿内に位置する泉州堺は、勘合貿易・南蛮貿易の一大拠点として繁栄していました。その繁栄ぶりは、当時のイエズス会士たちから、「この町はベニスのように執政官によって治められている。日本全国でここ堺の町ほど安全な所はない。この町には動乱がなく、敗者も勝者もこの町に来れば、皆平和に生活している」と賞賛されたほどでした。

戦国武将と「上洛」との関係を語る時、先ず紹介しなければならないのが、駿河の今川義元。今川氏は足利将軍家の一門に連なり、南北朝期から駿河・遠江の守護職を兼ねた名門にあたります。そうした家系に生まれ育ち、自らも西上志向が強かった義元は、永禄3年(1560年)5月、2万5千の大軍を率いて上洛の途につきます。苦境に立つ足利将軍家を盛り立てて、自ら天下に号令するという野心を実現しようと目論んだ義元でしたが、その途上の5月19日、田楽狭間で休息中に尾張の織田信長の奇襲を受け、その野望は儚く破れたのでした。

戦国時代屈指のライバルである甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信。この2人の上洛の形は対照的なものであったと言えるでしょう。信玄は、元亀2年(1571年)、相模の北条氏康が亡くなり、かつて同盟関係にあった北条氏と再び手を結んだ後、近江の浅井長政や本願寺などの反信長勢力と結んで信長包囲網を形成した上で、翌元亀3年(1572年)10月に上洛作戦を敢行します。天正元年(1573年)4月12日、53歳で亡くなったことによって頓挫してしまいますが、もし上洛を果たしていたら、信玄が自ら天下を治めていた可能性も十分に考えられます。これに対して、謙信は「上洛して補佐して欲しい」という将軍家の要請に応えて、天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の2度にわたって上洛を果たし、時の将軍・足利義輝や天皇に拝謁しています。決して自らが天下に号令するためではなく、信濃や関東への出陣の許可を求めることが目的だったという点にも、旧来の秩序や権威を重んじる謙信の性格がよく表われています。
「上洛」に対して独特の考えを持っていたのが中国の覇者・毛利家。これは、毛利元就が遺した「領国が5ヶ国となろうが10ヶ国となろうが、それは一時のことであって、それ以上天下を望んではならない」という教訓が影響しており、実際に上洛を目指すことはありませんでした。決して無欲であったという訳でなく、寧ろ中央の権力闘争に明け暮れ、領国の統治を怠ったために滅んだ周防の大内氏の興亡を目の当たりにした経験が背景にあったと考えられています。

上洛についての考え方やその理由は、戦国武将たちにとって様々であったようですが、結局は足利幕府の体制内での権力闘争の枠内のものであったことは否定出来ないようです。その「枠」をいち早く打ち破った信長が「天下人」の座に躍り出たのは、当然の結果だったのかもしれません。
一般庶民の間で「苗字」が許されるようになったのは、250年余りに及ぶ徳川政権による締め付けがあって後の明治以降のことです。ところが、江戸より以前の戦国時代に「姓」が普及していたことはあまり知られておらず、また、自分の子供に親や祖父母の名前の一字を与える習慣も、実は戦国時代に始まったと言われています。

江戸時代に農民を含む一般庶民が苗字を持つことを許されなかった背景には、豊臣秀吉の「兵農分離政策」を継承した徳川家康が、「士農工商」の身分制度を確立し、武士以外が苗字を持つことを禁じたことがあります。しかし逆の言い方をすれば、庶民が苗字を持つことを禁止しなければならない事情があったということになります。つまり、戦国時代には庶民の間にも「苗字」が普及していたのです。
時代が更に遡って、鎌倉・室町時代には苗字は武士(侍)の持ち物で、その象徴であり「ライセンス」でもありました。そして、武士に憧れる農民たちが真似をして、半ば遊び半分で苗字をつけることを楽しんでいました。これを不快感を抱いたのは寺社などの当時の荘園領主たち。農民たちが苗字をつけることによって表向きだけでも武士になれば、農民として土地に縛り付けることが出来ず、「下剋上」の風潮と相俟って荘園領主にとっては死活問題へと繋がりかねません。そこで、京都の東寺をはじめとする荘園領主たちは、苗字を名乗ることを厳しく禁止します。これが「苗字禁止令」の始まりとなったのです。

この「苗字禁止令」が多少は功を奏したのか、苗字の流行は下火となりますが、それ以前から苗字を持っていた人たちがいました。いわゆる郷士たちです。「半武半農」の彼らは、たとえ殆ど農業に従事していたとしても、堂々と自分の姓を名乗っていました。しかし、秀吉の「兵農分離」によって「半武半農」という形態は認められなくなり、「武士」と「農民」は明確に分化され、「農民」が苗字を名乗ることは公式に禁止されました。それでは、その「農民」たちは潔く苗字を捨てたのかというと、実は秘かに使い続けていたのです。家康が武士以外の苗字の使用を禁じたのもそうした背景があった訳ですが、それでも彼らは苗字を捨てず、明治に入り「苗字帯刀」が許されるまで代々に渡って守り続けていたそうです。

親が自分の子供に自分やその祖父母の名前の一字を与えるという習慣は、平安時代末期から始まった習慣だと言われています。元々は、成人の儀式である「元服」の際に、土地の有力者が勤める「烏帽子親」か祖父などから、その名前の一字を貰い受けるという習慣が、公家から武家や一般庶民の間にも普及して行きました。つまり、大人としての新たな名前を与えられたのです。そして、「一字」を与えられるということは、「主従」や「同族」であることを強調、あるいは強制する意味を持っていました。この習慣が活発化してくるのが戦国時代に入ってからで、いつ裏切られるか油断出来ないような時代には、「主従」や「同族」の関係を結ぶことは極めて重要であったことが分かります。この時代、「与える」というより一方的に送り付けるという例が多く見られ、例えば、秀吉は自分の身内だけでなく、家康の子である結城秀康や徳川秀忠にまで「秀」の字を押し付けました。その家康が今川義元の人質となった際、従属の証として付けられた名前が「元信」。後に祖父清康から一字を貰い「元康」となりますが、「家康」と名乗るようになったのは、義元が桶狭間で討ち死にした後のこと。この時、家康は感涙に咽んだと伝えられています。

名前から一字を与え、授けるだけならまだ良いのですが、最も悲惨な事例は末期の足利将軍家。12代・足利義晴や13代・足利義輝は、自分の名前の「義」や「晴」、それに「輝」の字を殆どばら撒くように各地の大名家に送り付け、特に義輝の場合、何とその使用料まで明記して請求したそうです。時の将軍が命と同然の「名」を売るという、文字通りの「売名行為」を行なっていた事実は、当時の足利幕府の衰退ぶりを象徴するエピソードと言えます。
「名」という字は、「命」と同じく「めい」と読むことが出来、また「姓名」と「生命」は、共に「せいめい」と読みます。戦国時代は、「姓」や「名」が命と同様に大事であるという意識が、今よりも強かったのかも知れません。

親子兄弟皆敵同士

戦国乱世において、親子や兄弟が激しく争い、時には殺し合いにまで発展することは、「下剋上」の風潮と共に決して珍しいことではありませんでした。
兄弟は、互いにその家の当主の座を巡って争い、特に母親が違えばたとえ兄弟でも他人と同じといっても差し支えありませんでした。また叔父と甥、従兄弟同士といった血縁関係は、互いの相克を緩和する役割は全く果たさず、むしろ互いに近親憎悪が生まれ、増幅していく場合が多く見られたのです。

戦国大名を中心とする組織がいわゆる「ピラミッド型」であればあるほど、その頂点に立つ当主と、それ以外の血縁者との落差は大きなものでした。そのため、頂点である当主の座を巡って、激しい骨肉の相克が繰り広げられていきました。親子の場合でも、父親が嫡男を嫌い、溺愛する側室の子を後継者にしようとすれば、子は親の存在が疎ましくなり、これがまた血で血を洗う争いへと発展することも、戦国乱世にはよく見られました。

「骨肉の相克」という点で、最もその洗礼を受けた戦国武将と言えば武田信玄でしょう。先ず天文10年(1541年)に、父信虎を駿河へと追放します。これはかねてから信虎に悪逆非道な振る舞いがあったことからだと言われていますが、信虎が嫡男である信玄を疎んじ、利発な弟の信繁に家督を譲ろうとしたことも原因とされています。その後、同盟関係を結んでいた今川義元が亡くなり、駿河への進出を画策したことがきっかけで、義元の娘を娶っていた嫡男義信と対立。義信を幽閉した末に、自害へと追いやってしまいます。信玄が冷酷非情な印象を持たれるのも、このように肉親の情に恵まれなかったことが大いに影響しています。
親子の争いと「下剋上」が絡み合った事例と言えるのが、斎藤道三・義竜親子の争い。道三は日頃から嫡男である義竜を疎んじており、また義竜も自分は道三の子ではなく、道三によって追放された前の美濃守護・土岐頼芸の落胤であるという噂を信じていました。父の道三の異母弟に家督を継がせようとする動きを知った義竜は、先ず2人の弟を殺害し、次いで道三に叛旗を翻して攻め殺しました。道三の場合は、数々の謀略と裏切りによって美濃一国の主へとのし上がっていったことの「因果応報」と言えなくもありませんが、しかし、親が子を殺すという事例は、戦国時代といえどもあまり例がありません。

母親の愛情に恵まれなかったことから、兄弟と争う破目に陥ったという点で共通しているのが、織田信長と伊達政宗。共に少年時代に父を失い、母は弟を偏愛し、信長の場合は弟信行、政宗の場合は弟小次郎を擁立する一派が、それぞれ打倒を画策したことから、母親が同じであったにも拘らず弟を殺害してしまいます。信長や政宗の時代から遡って、毛利元就も、兄興元とその子幸松丸が相次いで亡くなった時、異母弟の相合(あいおう)元綱と家督を争い、これを討ち取って毛利家当主の座に就きました。その元就の子である隆元・元春・隆景の三兄弟が、兄弟間の固い絆で結ばれていたというのは皮肉な話ですが、このような例は珍しく、戦国大名は自分の地位を守るため、兄弟さえも敵に回さなければなりませんでした。

やがて戦国乱世が終結し、江戸幕府が開かれて泰平の時代がやって来ると、能力の有無に関わらず、正室との間に生まれた長男が家督を相続するという原則が確立します。しかし、それでも「御家騒動」と呼ばれるものが絶えることはありませんでした。いや、これは現代でも変わっていないのかもしれません。

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