|
戦国時代は各地に群雄が割拠し、熾烈な覇権争いが繰り広げられましたが、一方で、民衆や信仰の力を見せ付けた時代でもありました。 それがもっとも明確な形となって表われたのが、15世紀半ばから16世紀後半にかけて勢威を振るった「一向一揆」でした。 一向宗(浄土真宗)は、鎌倉時代に親鸞によって開かれ、教団内の最高指導者である法主(ほっす)は、親鸞直系の子孫によって代々受け継がれてきました。この一向宗の門徒が大幅に増えて行ったのは、第8世法主蓮如が、近畿・東海・北陸地方を中心に布教活動を展開した15世紀半ばのことでした。天台宗や真言宗などのいわゆる「平安仏教」や禅宗が貴族や武士の為の宗教だったのに対して、一向宗は庶民への布教に力点を置き、蓮如が明快な言葉遣いにより大衆に語りかけたことから、地侍や農民を中心に多くの人々が一向宗の門徒となって行きました。 権力者との対立を好まず、門徒たちへの自重を促した蓮如の意思に反して、各地の門徒たちは自分たちを治める守護大名や戦国大名らの支配を嫌い、権力者と抗争を繰り返すことになります。こうして、一向宗門徒によって「一向一揆」が組織され、北陸や東海を中心に激しい抗争が展開されて行きます。 守護大名や戦国大名にとって、自分たちに刃向かい、時にはその地位さえも脅かしかねない一向一揆の存在は、当然厄介なものとなりました。 一向一揆が起こり、彼らが支配者となった地域では、門徒たちは「講」と称される一向宗の地方組織を中心に結束し、年貢を領主へ納めようとはしませんでした。守護大名や戦国大名が自らの権力基盤を維持していく為には、一向一揆の支配する地域においても年貢を取り立てておく必要がありますが、彼らの結束は固く、その対処を誤ることがあれば、自らの地位が危ぶまれる結果を招くことになります。 長享2年(1488年)、一向一揆の恐るべき実力を天下に知らしめる出来事が加賀国で起こります。 加賀は、鎌倉以来富樫氏によって代々治められていました。この頃の当主である富樫政親は、応仁の乱で東軍に付きましたが、弟の富樫幸千代が西軍に付いたことから家督を巡って争うことになりました。この時政親は、当時越前国吉崎御坊に滞在していた蓮如に支援を要請。摂津石山本願寺の援助や加賀国内の武士団の支持を得て幸千代を加賀から追放し、再び当主の座に就きます。 ところが、守護大名から戦国大名への脱皮を図る政親は、本願寺門徒勢力の実力を抑えるため、一向一揆の自治権を拒否。更に加賀の一国支配の認知を目指して、9代将軍・足利義尚の六角氏遠征に従軍した際の戦費の拡大が、国人層の反発を生みました。そして、一向宗門徒たちが蜂起したことにより、政親は本拠の高尾城を一向一揆の大軍に包囲され、自刃したのでした。これ以後、天正8年(1580年)までの約百年間、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれ、宗主代理の一門衆が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配へと移行して行きました。天文15年(1546年)には尾山御坊が建設され、ここを拠点に一向一揆は北陸全体に拡大して行ったのでした。 こうして北陸全域をはじめ、畿内や東海地方などの一向宗の盛んな地域では、例えば、織田信長が石山本願寺や伊勢長島の一向一揆などと約10年にわたって抗争を繰り広げたり、徳川家康も本拠の三河での一向一揆に苦しめられるなど、戦国大名はその結束力の強さに悩まされ続けます。一向一揆が終幕へと向かうのは、石山本願寺が信長との抗争に敗れ、また加賀の一向一揆が織田軍の進攻を受けた天正8年のことでした。
|
戦国時代
[ リスト | 詳細 ]
|
戦国時代について語る時、欠かせない言葉の1つに「下剋上」があります。 今日はこの「下剋上」という言葉がいつどのように生まれ、戦国時代においてはどのような現象として起こったのかについて書いて行こうと思います。 下剋上の「剋」という字は、訓読みでは「剋」と言い、返り点を振ると「下、上に剋つ」と読みます。古代の律令制社会では、官位によって人間の上下が定められており、下の階層の者が上の階層の者を倒す行為は許されないものでした。 但し、「下剋上」という言葉自体は鎌倉時代には既に出現しており、南北朝時代には定着しています。争乱の時代になると、やはり実力のある下級の者が権威ある上級の者を脅かす風潮が生まれ、強まって行くのでしょう。 この下剋上現象が決定的なものになって来るのは、応仁元年(1467年)の「応仁の乱」以後のことです。これによって中央政府である室町幕府は統治権を失い、実力のない権威は否定されます。 それまでは、天皇を中心とする公家や寺社勢力が、実体のない「権威」によって荘園という土地を維持していたのが、下剋上の風潮が強まることによって実力のある武家に横領され、彼らの生活基盤は脅かされて行きます。凋落する公家や寺社勢力にとって、「下剋上」という言葉は限りない憎しみや怨念を込めたものだったのです。 実力主義社会の到来という見方からすれば、「下剋上」という言葉からはむしろ肯定的なイメージが浮かび上がってきます。 戦国時代において下剋上を象徴する出来事や事件を挙げていくと、先ず文明17年(1485年)に、山城国南部で守護畠山氏の支配を嫌った土地の地侍たちが蜂起し、南山城から畠山氏の影響力が排除した上、以後8年間にわたって「山城国一揆」という自治的組織によって統治を行なうという現象が起こりました。この出来事は、それまでの秩序では最下層に位置付けられていた地侍や農民たちが、「一揆」という横型の結束によって権威に依存した支配者の排除に成功した一例と言えます。 その他、延徳4年(1491年)に北条早雲(伊勢宗瑞)が堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼして伊豆一国を手に入れたことや、下って永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝が松永久秀らに暗殺された事件、更に天正10年(1582年)6月2日の「本能寺の変」など、様々な形の下剋上が繰り返されました。 こうした下剋上の時代が続いた末に、豊臣秀吉による天下統一の事業が達成されます。百姓の出身である秀吉が天下人にまで上り詰めたことは、下剋上の時代を象徴する出来事でしたが、同時にそれは「次の秀吉」が登場しないための布石が打たれる基にもなりました。秀吉は関白としての自らの権威と権力を維持するため、天正13年(1585年)に「惣無事令」と呼ばれる私戦禁止令を発布。次いで天正16年(1588年)発令の「刀狩令」によって百姓から武器を取り上げることなどで、新たな下剋上の芽を摘み取ろうとしました。下剋上の風潮によってのし上がった人物によってその現象が封じられていったというのは皮肉なことですが、よくよく考えてみれば当然の帰結だったのかもしれません。 秀吉によって下火となった「下剋上」の現象は、彼の死後、徳川家康が天下の覇者となって泰平の時代が到来したことにより、完全に終止符が打たれたのでした。
|
|
応仁元年(1467年)に勃発した「応仁の乱」をきっかけに、約百年にわたって続いた戦国乱世は、当時日本最大の都市であった京都の町を著しく荒廃させました。 しかしその一方で、戦乱を避けるために京都から地方へと疎開した一部の公家たちによって、京都の先進的な文化が各地に伝えられました。そしてそこから多くの地方都市を生み出すことになりました。 戦国時代に登場した地方都市として、先ず挙げられるのが「小京都」と呼ばれるものです。この小京都の代表格として周防山口があります。室町幕府の守護大名から戦国大名へと脱皮する大内氏の本拠であったこの地は、南北朝時代の大内弘世の時代から、既に町造りが始まったと言われています。その原点は、「統(な)べて帝都の模様を遷(うつ)す」ということにあり、祗園社や清水寺などの寺社が建立され、街路も京都の街並みに似せて碁盤の目のようにした上、「鞍馬小路」など都風の名前が付けられました。町には公家や僧侶、学者が多く疎開し、大内氏が中国地方の覇者として強大な力を発揮すると共に全盛期を迎え、その繁栄は、大内義隆が陶晴賢の謀叛によって自害する天文20年(1551年)まで続いたのでした。 「小京都」に限らず、戦国時代には様々な形の都市が各地に登場しました。「城下町」の出現もこの時代からのことです。戦国大名は、自らの居城の周囲に城下町を築いて商工業者を集住させ、領国経済の中心地として機能させようとしました。代表的城下町として、朝倉氏の本拠であった越前一乗谷が知られています。朝倉氏は城下町を建設して多くの公家たちの下向を得る一方で、芸能者や絵師を育成するなど、文化の発展にも積極的に取り組みました。 戦国時代の代表的な都市として、他には泉州堺があります。堺は南蛮貿易によって発展を遂げた貿易都市であり、豪商たちの合議制によって運営された自治都市である一方で、ヨーロッパから伝来した鉄砲の生産も盛んに行なわれており、当時の日本屈指の一大商工業都市でもありました。また、一向宗の拠点であった摂津石山に代表される「寺内町」(じないちょう)も繁栄を見せ、石山には、本願寺が撤退した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれることになります。 このような「小京都」や「城下町」の出現と、それに伴う文化の発展は、都市と地方との盛んな交流によってもたらされたものですが、その背景には当時の商品流通や交通・運輸の発達があり、その媒介者となったのは、それに支えられた商人や職人、琵琶法師などの芸能に携わる人々、そして各大名家の家臣たちでした。 戦国という時代は、血生臭い合戦に明け暮れていただけでなく、江戸時代に入って城下町などの形態の都市が全国に登場する、その礎が築かれた時代でもあったのです。「小京都」や「城下町」などの登場と発展は、そのまま近世へと繋がって行ったと言えるでしょう。
|
|
戦国時代、各地の武将たちは自らの領国統治を円滑に行なうために、それぞれ独自の基本法を制定していました。これが「分国法」、或いは「戦国家法」と言われるものです。 ここでは、戦国時代に制定された主な分国法を古い年代から順を追って紹介したいと思います。 分国法の中でも最も古いものは、周防を本拠とする大内氏によって制定された「大内家壁書」です。これは、応仁の乱が起こる前の永享11年(1439年)から明応4年(1495年)にかけて、大内教弘・政弘・義興の3代によって50項目が制定されたもので、壁や門に条文を記した板などを掲げて民衆に達したことから、この名があると言われています。 次に、文明5年(1473年)頃、越前の朝倉孝景(敏景)によって制定された「朝倉孝景条々」、別名「朝倉敏景十七箇条」があります。これには朝倉家には代々の宿老を置かずに能力本位で人材を登用すること、本拠である一乗谷へ家臣は集住することなどを定めており、「一万疋の名刀を買う金があれば百疋の槍を百本買って百人の足軽に持たせよ」という記述もあり、戦の形式が個人から集団へと変化していったことへの意識も窺い知ることが出来ます。 分国法が各地で本格的に制定されるようになったのは16世紀に入ってからで、全国で群雄が割拠し、熾烈な争いの中から各地の覇者が登場していく時期にあたります。 相模小田原を本拠とする北条早雲(伊勢宗瑞)は、永正10年(1513年)頃に「早雲寺殿二十一箇条」を制定。日常生活や礼儀作法、文武両道の心得などが詳細に記されており、誰にでも分かり易く書かれているのが特徴で、「梟雄」のイメージが強い早雲が、その一方でいかに民政へ心を砕いていたのかが窺えるものです。 駿河の今川家には「今川仮名目録」があります。これは、今川氏親が大永6年(1526年)に定めた33ヶ条と、その子義元が天文22年(1553年)に定めた21ヶ条の合わせて54ヶ条から成るもので、訴訟に関する法規が多く見られ、他国の人との通婚禁止なども定められています。 天文年間(1532〜54)に定められた分国法では、天文5年(1536年)、陸奥の伊達稙宗が制定した「塵芥集」、天文8年(1539年)、薩摩の島津貴久が制定した「島津貴久家法」、そして天文16年(1547年)、甲斐の武田信玄が制定した「甲州法度之次第」、別名「信玄家法」があります。このうち、「塵芥集」は全170ヶ条から成る最大の分国法で、鎌倉期の「御成敗式目」の形式に倣ってありとあらゆる規定がなされているという意味から、この名が付けられたと言われています。また「甲州法度之次第」は上下二巻から成り、上巻には57ヶ条の条文、下巻には家訓が記され、軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められています。 この他、天文年間以降に制定された分国法としては、弘治2年(1556年)、下総の結城政勝により制定された「結城家法度」や、永禄10年(1567年)、近江の六角義治により制定された「六角氏式目」(別名「義治式目」)、そして慶長2年(1597年)、土佐の長宗我部元親・盛親父子により制定された「長宗我部元親百箇条」がなどがあります。 室町幕府に任命された守護が領地支配を強化して成長した守護大名に対して、戦国大名は自力で成長し、幕府の意向とは関係なく統治権を確立していました。「分国法」の制定は、自国の支配を法的に整備するという目的と同時に、そのまま室町幕府体制とは一線を画することを意味していたのです。
|
|
「織田が搗き 羽柴がこねし天下餅 座りしままに喰らう徳川」 江戸時代に詠まれたこの狂歌は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のいわゆる「戦国三英雄」の果たした役割をよく表わしたもので、教科書で覚えた方も多いことでしょう。 信長は軍勢を率いて上洛を果たし、天下統一への素地を築き、その後継者となった秀吉によって天下統一が完成され、秀吉の死後、豊臣家に代わって天下人となった家康によって泰平への道が築かれました。 家康は、実際には労せずして天下を取った訳ではありませんが、最終的に戦国の勝利者となったことで、その後の徳川家による泰平の時代が200年余りにわたって続いたのでした。 織田信長は天文3年(1534年)、豊臣秀吉は天文5年(1536年)、徳川家康は天文11年(1542年)の生まれです。3人が生まれた当時は応仁の乱から半世紀が経過し、戦国乱世の真っ只中にありました。歴史は「戦争と平和」の繰り返しによって成り立っており、日本でも源平争乱後に鎌倉時代が到来し、南北朝の動乱を経て室町時代を迎えました。応仁の乱から続く戦乱の時代を、なぜ信長・秀吉・家康の3人によって終結することが出来たのか。それには3人の出身地が深く関わってきます。 諸国の情勢に目を向けてみると、畿内周辺では、室町幕府の実力者であった細川氏と三好氏が主導権争いに終始し、畿内を平定して天下を統一する実行力はありませんでした。東国では、甲斐の武田氏は信玄という優れた当主がいながら、本国が山国であり、京都からも距離があったことなどが大きな壁となりました。中国地方を制した毛利氏も地理的には天下を望めたものの、当主の元就が晩年に入って漸く覇者となり、その後継者も「天下取り」という勝負に出ることがありませんでした。九州の島津氏も覇者となったのが遅かったのに加えて、地理的にも困難な状況にありました。 これに対して、信長と秀吉は尾張、家康は三河と、それぞれ現在の愛知県の出身です。彼らの出身である東海地方は、京都からは適度な距離間があると同時に、農業や商業も発展しており、上洛して天下に覇を唱えるには絶好の地理的環境にありました。東海地方には、駿河に今川義元という天下を望める実力者がいましたが、永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の合戦で信長に討たれ、その望みを断たれます。その後、信長は上洛を果たしたので、ある意味で信長は今川義元の後継者でもあった訳です。 信長・秀吉・家康の3人は、地理的にも時期的にも恵まれていたことから天下を望むことが出来、実際にその役割を果たしたのでした。もし彼らが他の地方に生まれていたら、いかに実力があったとしても天下を狙うことは不可能だったでしょう。3人には生まれながらの強運があったと言えるのかも知れません。
|





