万年寝太郎徒然日記

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戦国時代

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戦国時代の流れと群雄

戦国時代とは、応仁の乱が勃発した応仁元年(1467年)から、大坂落城により「元和偃武(えんぶ)」が宣言された元和元年(1615年)までの約150年間を指すことは、以前にも書いた通りです。
しかし、応仁の乱によって日本全国が一斉に戦乱の世に突入した訳ではなく、また地域によっては時代の流れがそれぞれ異なっていました。
ここでは、戦国時代の流れを、各世代ごとの武将たちを紹介しながら見て行こうと思います。

全国で最も早く騒乱状態に陥ったのは関東で、鎌倉公方・足利持氏が時の将軍・足利義教に対して叛旗を翻した、永享10年(1438)の「永享の乱」がきっかけでした。それから3年後、嘉吉元年(1441年)の「嘉吉の乱」によって将軍義教は暗殺されてしまいます。
永享の乱以降の関東の混乱の中で台頭してきたのが、戦国武将の先駆け的存在である伊勢新九郎長氏、後の北条早雲です。そして、早雲以降の北条5代の当主とそれぞれの同時代の人物を見ることで、戦国時代全体を概観することが出来ます。

北条早雲は、永享4年(1432年)の生まれと言われていますが正確にはよく分かりません。しかし、彼の活躍した時代は戦国時代の開幕から前半の時期にあたり、永享4年生まれが正しいとすれば、8代将軍・足利義政より4歳年上にあたり、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元は2歳年上、太田道灌とは同い年ということになります。
早雲の跡を継いだ北条氏綱は長享元年(1487年)の生まれで、彼の代から北条氏を名乗るようになりました。彼と同世代の人物には、駿河の今川氏親、中国地方では尼子経久、大内義興などが年上にあたり、「塵芥集」を制定した伊達稙宗は1歳、武田信玄の父・信虎は7歳、毛利元就は10歳年下にあたります。

北条氏が最も大きく版図を広げたのは、永正12年(1515年)生まれの北条氏康の時代です。長年関東の覇権を争った駿河の今川義元は4歳、甲斐の武田信玄は6歳、越後の上杉謙信は15歳、それぞれ年下にあたり、謙信を除いてほぼ同世代になります。また、織田信長の父・信秀は4歳、薩摩の島津貴久と経久の跡を継いだ尼子晴久は1歳年上にあたり、謙信と同い年の武将には、元就の二男・吉川元春と豊後の大友宗麟がいます。氏康が亡くなったのは元亀2年(1571年)ですが、同じ年に毛利元就と島津貴久も亡くなっています。
次の北条氏政の代になると、各地で後に覇者となる武将たちが活発な行動を見せ、時代も「天下統一」へと動いて行きます。氏政は天文7年(1538年)の生まれ。信長は4歳、豊臣秀吉は2歳年上で、徳川家康は4歳年下にあたります。また、5歳年上で薩摩の島津義久と元就の三男・小早川隆景、3歳年上で義久の弟・島津義弘がおり、土佐の長宗我部元親は同い年、伊達政宗の父・輝宗は6歳、信州の真田昌幸は9歳年下にあたります。氏政が家督を相続した永禄3年(1560年)は桶狭間の合戦があった年であり、翌永禄4年(1561年)には、4度目の川中島の合戦があり、最も激しい戦いが繰り広げられました。
氏政が家督を相続してから2年後の永禄5年(1562年)に生まれたのが、北条氏最後の当主となった北条氏直です。彼と同世代の武将には、2歳年上で石田三成が、5歳年下で伊達政宗と真田幸村がいます。氏直が家督を継いだ天正8年(1580年)は、既に室町幕府は滅亡し、信長による天下統一事業も大詰めを迎えていました。本能寺の変後、信長の遺志を受け継いだ秀吉によって北条氏が滅亡させされたのは、天正18年(1590年)、氏直28歳の時でした。

「戦国時代がいつ終わったのか?」については、天正18年の北条氏滅亡をそれとする説もあるようですが、この後にも秀吉の死後、関ヶ原の合戦が行なわれ、更に豊臣家が滅亡して「元和偃武」が宣言されるまでにも15年の歳月を要しました。尚、北条氏直は家康の娘婿にあたり、北条氏滅亡後関東を治めた家康によって、漸く天下統一の事業は達成されたのでした。

「戦国大名」とは何か

戦国時代について考える場合、その原因を作った室町幕府と、更にその機能が低下したことによって登場した「戦国大名」の存在を抜きにすることは出来ません。
ここでは、室町幕府について簡単に説明した後、「戦国大名」について書いて行きたいと思います。

戦国時代とは、室町幕府の衰退によって日本各地が動乱期を迎えた時代のことです。元々室町幕府は内部の対立が激しく、政府としての権力基盤も弱いものでした。その傾向は、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍・足利義教の暗殺事件、いわゆる「嘉吉の乱」によって一層拍車がかかり、応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけての「応仁・文明の乱」によって、幕府の権威の失墜は決定的なものになりました。
室町幕府の政治機能の低下は、各地に戦国大名という独立勢力を乱立させる結果となり、長い戦乱の時代を呼ぶきっかけにもなって行ったのです。

戦国大名の存在を語る上では、それ以前の「守護大名」の存在が重要になってきます。室町幕府から各地の支配を任された大名である守護大名は、鎌倉時代の「守護」の警察権に加えて、土地管理の権限や荘園から得た年貢の半分を配下の武士に与える権利を認められたことで、武力と共に経済力も有するようになりました。しかし、あくまでも幕府という中央から派遣されたものであり、実際の土地の掌握は在地の武士である守護代や国人領主を通して行なわれていました。このため、室町幕府の権威の失墜と同時に、守護代や国人領主が守護大名を追放し、自力で領国経営に乗り出すケースが相次ぎました。一方で、守護大名の中でも、幕府の政治体制に見切りをつけて自力での領国経営を成功させ、戦国大名への脱皮に成功する者が出始めるようになりました。

戦国大名は、大きく4つのタイプに分けることが出来ます。先ず守護大名から脱皮したケースで、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、長門・周防の大内氏、近江の六角氏、薩摩の島津氏、豊後の大友氏などがいます。次に在地武士の有力者で、守護大名のもとで領国経営にあたり、実質的な領国支配者であった「守護代」から転身したケースがあり、代表的な存在に出雲の尼子経久、越前の朝倉孝景(敏景)、越後の長尾為景がいます。長尾為景の子である上杉謙信が、後に関東管領職に就いた背景には、甲斐の守護の家に生まれた武田信玄に対して、自分は守護代の家に生まれたことにコンプレックスを持っていたからだとも言われています。一番多かったのが国人領主から脱皮したというケースで、中国地方の覇者となった毛利元就の場合、安芸の国人領主から「一揆」(「心を1つにする」という意味)によって勢力を拡大し、中国地方11ヶ国を支配する戦国大名へとのし上がって行きました。他には陸奥の伊達氏や土佐の長宗我部氏などがいます。
更に、出自・素性は不明だが「下剋上」の風潮に乗って戦国大名に成り上がった人物として、相模の北条早雲と美濃の斎藤道三が有名です。

室町幕府の機能と権威の失墜は、日本の各地に「自らの力で国を治めよう」という機運を生み出し、また「力のある下の者が、力のない上の者を倒す」という「下剋上」の風潮をも生み出して行きました。そのような社会状況の中で登場したことこそ、「戦国大名」の特徴であると言えます。

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この間から、戦国の武将たちについて書いていますが、そもそも「戦国時代」というのがいつからいつまでを指すのかについては様々な説があって、その時代区分が必ずしも確立されているとは言えません。

一般的に「戦国時代」と言えば、応仁の乱が起こった応仁元年(1467年)から、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした永禄11年(1568年)までの約100年間、つまり、ちょうど室町時代から安土・桃山時代にまたがる時代を指すと考えられています。辞典や教科書でも概ねこのように定義付けられています。
しかし、その始まりについては北条早雲が相模の小田原城を奪取した明応4年(1595年)とする説もあります。また、その終わりとされる永禄11年以降も各地での争いは絶えておらず、地域ごとの歴史的な流れにも多少の差が見られます。一番顕著な例は東北地方で、後に東北を制覇した伊達政宗が生まれたのはこの永禄11年のことで、未だに各地で「小競り合い」が繰り広げられていました。他の地域の当時の情勢を見ると、九州では、薩摩の島津氏が薩摩・大隅両国の統一を漸く果たそうとしている時期であり、豊後の大友氏や肥前の龍造寺氏も勢力を伸ばしていました。また四国でも土佐の長宗我部元親が勢力を拡大し、これから土佐一国を統一しようとしていました。以上の理由で、戦国時代を永禄11年までとするのは無理があると言えます。

次に、信長の遺志を引き継いだ豊臣秀吉が、北条氏を攻め、「天下統一」の事業を成し遂げた天正18年(1590年)が戦国時代の終わりとする説がありますが、当時は一方で徳川家康という実力者がおり、また秀吉が朝鮮侵略という暴挙に出た上に豊臣家内部の勢力争いも絡んで、それが秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦へと繋がって行きます。その「天下分け目」と謳われた関ヶ原の合戦で勝利した家康が、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いたことにより戦国時代が終わったとの解釈もありますが、この時点でも、豊臣家は徳川家への最大の反対勢力として存続しており、諸大名の豊臣家への尊崇の念も根強く残っていました。
家康と豊臣家の「最終決戦」と言うべき合戦が、慶長19年から20年(1614〜15)にかけての大坂冬の陣・夏の陣で、夏の陣で豊臣秀頼が自害して豊臣家は滅亡します。大坂落城から間もなく、徳川幕府は元号を「元和」と改元し、いわゆる「元和偃武」(げんなえんぶ)を宣言します。ここに真の「天下統一」が達成され、「戦国時代」も終結したと言えます。

以上のように、「戦国時代」とは応仁元年から元和元年までの約150年間を指し、この間に活躍した武将たちを「戦国武将」と定義したいと思います。

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