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			<title>万年寝太郎徒然日記</title>
			<description>世のため人のためになることは一切書きません。</description>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>万年寝太郎徒然日記</title>
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			<description>世のため人のためになることは一切書きません。</description>
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			<title>『男はつらいよ』全48作を区分けする</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;映画『男はつらいよ』。&lt;br /&gt;
その第１作が封切られたのは、昭和44年８月27日のことです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;渥美清演じる「寅さん」こと車寅次郎を主人公に、足掛け26年、全48作が作られた『男はつらいよ』シリーズは、大きく４つに区分けすることが出来ると考えます。&lt;br /&gt;
先ずは、第１作から第８作『寅次郎恋歌』（昭和46年）までの「黎明期」。&lt;br /&gt;
第１作『男はつらいよ』は、昭和44年６月に作品が完成したものの、元々がその前年に放送されたテレビドラマを映画化したものであったため、配給元の松竹では難色を示し、「絶対にヒットしない」という声が多くを占めていました。しかし、この第１作が予想外の大ヒットを記録すると、３ヶ月後の同年11月に第２作『続・男はつらいよ』、それから２ヶ月後の翌昭和45年１月に第３作『フーテンの寅』（監督・森崎東）、更にそれから１ヶ月後の同年２月に第４作『新・男はつらいよ』（監督・小林俊一）と、僅か半年の間で一気に４作が作られます。これは第１作が興行的に当たったから次々と続編を作ったという程度に過ぎなかったのですが、久々にメガホンを取った山田洋次監督が「完結編」のつもりで作った第５部『望郷篇』（昭和45年）から本格的なシリーズとして方向付けられ、第８作『寅次郎恋歌』では、それまで100万人弱だった観客動員数が一気に150万人を突破して、人気を不動のものにします。&lt;br /&gt;
この「黎明期」は、そのまま「おいちゃん」こと車竜造役が初代の森川信だった時代と重なります。浅草の軽演劇出身で、テレビドラマから引き続いてこの役を演じた森川信は、同じく浅草のストリップ劇場「フランス座」出身の渥美清とは芝居の息がピッタリで、コミカルな仕草や寅さんとの掛け合いは、落語そのままの雰囲気を感じさせるものでした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;次に、第９作『柴又慕情』（昭和47年）から第26作『寅次郎かもめ歌』（昭和55年）までの「絶頂期」。&lt;br /&gt;
『柴又慕情』から８月のお盆前後と正月の年２回の公開が定着し、「国民的映画」の道を着実に歩んで行きます。シリーズに欠かせない「マドンナ」役を見渡しても、『柴又慕情』と第13作『寅次郎恋やつれ』（昭和49年）の高見歌子（吉永小百合）、第17作『寅次郎夕焼け小焼け』（昭和51年）のぼたん（太地喜和子）、それに第11作『寅次郎忘れな草』（昭和48年）で初登場し、第15作『寅次郎相合い傘』（昭和50年）、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』（昭和55年）にも登場したリリー松岡（浅丘ルリ子）など、印象に残る顔触れが登場します。全48作の中でファンの人気が高い作品の大半もこの時代のものが占めており、まさにシリーズの歴史の中でも最も充実した時代だったと言えます。&lt;br /&gt;
尚、『寅次郎恋歌』まで森川信が演じたおいちゃん役は、『柴又慕情』から２代目の松村達雄に引き継がれ、更に第14作『寅次郎子守唄』（昭和49年）からは３代目の下條正巳が演じ、ここにシリーズお馴染みのメンバーがほぼ揃うことになります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「絶頂期」の後、第27作『浪花の恋の寅次郎』（昭和56年）から第41作『寅次郎心の旅路』（平成元年）までが「安定期」になります。&lt;br /&gt;
第１作以来、様々なマドンナと出会い恋を繰り返してきた寅さんですが、「安定期」の途中からは、マドンナに恋しながら、そのライバルが現われるや、一転してそのサポート役に転じて２人の仲を取り持つというパターンが見られるようになります。また、さくら（倍賞千恵子）一家の生活が急激に変化し豊かになって行く課程が以前よりも深く描かれるようになったのもこの時代の特徴でしょう。&lt;br /&gt;
「安定期」の始まりを『浪花の恋の寅次郎』にしたのは、この作品からさくらの長男・満男役が吉岡秀隆になったからで、シリーズが進むにつれて満男の存在は大きくなって行きます。第33作『夜霧にむせぶ寅次郎』（昭和59年）からは、タコ社長（太宰久雄）の娘・あけみ（美保純）が登場。第40作『寅次郎サラダ記念日』（昭和63年）からは、「とらや」の名称が「くるまや」に変わります。マンネリ化が囁かれ、渥美清が60歳を迎えたこともあり、『男はつらいよ』シリーズは大きな曲がり角に立つことになります。&lt;br /&gt;
シリーズが始まって20年、年号が昭和から平成に変わって最初の作品となった『寅次郎心の旅路』が、夏に公開された『男はつらいよ』としては最後の作品となりました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第42作『ぼくの伯父さん』（平成元年）から、『男はつらいよ』は「晩期」へと入ります。&lt;br /&gt;
この作品から「お正月映画」として年１回の公開となり、同時に寅さん中心の物語から、満男の成長にも重点を置いた物語へと変容します。ここで重要な役割を担ったのが、後藤久美子演じる満男の恋人・及川泉で、この２人の恋の行方もシリーズの大きな見所となります。&lt;br /&gt;
平成に入ると、渥美清の体は病魔に冒され、急激に体力の衰えを見せるようになります。第47作『拝啓車寅次郎様』（平成６年）、そして最後の作品となった第48作『寅次郎紅の花』（平成７年）は、山田洋次監督が「もう１作」と「これで最後」という２つの思いを交錯させながら作ったそうです。&lt;br /&gt;
歴代マドンナの中でも随一の人気を誇るリリーが、『寅次郎ハイビスカスの花』以来15年ぶり、４度目の登場となった『寅次郎紅の花』が公開されて約８ヶ月後、平成８年８月４日、渥美清は68歳で世を去り、映画『男はつらいよ』シリーズはその歴史に幕を降ろしたのでした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;人の一生がいくつかの段階に区分け出来るように、『男はつらいよ』も４つの段階に区分けすることが出来ます。&lt;br /&gt;
このような映画は古今東西、後にも先にもなく、またこれからも出てこないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/59790214.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Aug 2010 23:02:27 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>戦争と回覧板</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;戦争が終わって65年。&lt;br /&gt;
「戦争を知らない子供たちの子供」の世代である我々は、「戦争を知っている大人たち」から戦争の記憶を聞くことで、その恐ろしさや愚かさを知り、そこから平和の大切さやありがたさを知ることで後世に伝える責任を負う世代なのかも知れません。&lt;br /&gt;
「戦争を知っている大人たち」から得る物は大きいのですが、今やその時間も多くは残されていません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;尾道は長い歴史を持つ町としても知られていますが、戦時中の生活について伝えるものは殆ど残されておらず、したがって我々もその時代の尾道について知る機会はありませんでした。当時の人々の暮らしを知る手がかりとして、町内で配布されていた「回覧板」があるのですが、全国的にも今日ではあまり現存していないそうです。何故なら、これらの行政文書は終戦と同時に即刻焼却処分されてしまったからです。&lt;br /&gt;
ところが、尾道という町は我が町ながら凄い所で、このほど市内の旧家から長年埋もれたままになっていた、太平洋戦争が勃発する前年の昭和15年（1940年）から戦時下真っ只中の昭和17年（1942年）頃にかけて、隣組（町内隣保班）に回覧・配布された当時の回覧板などが発見され、更に市内にある時宗の寺院。常称寺からも戦時中の紙芝居が発見されました。&lt;br /&gt;
尾道の地域文化の掘り起こしや再発見、その研究材料となる歴史資料の収集に取り組んでいる「尾道学研究会」が、これらの資料の一堂に集めて完全復刻した史料集『戦時下ノ尾道』を発表することになり、それに先立った公開展示会が、現在市内にある「おのみち街かど文化館」で開催されています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　&lt;a href=&quot;http://www.onomichig.com/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.onomichig.com/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;回覧板の中で先ず目立つのは配給に関するもので、例えば、昭和15年８月５日付の回覧板では、「お互国民が贅沢をして居る間は此事変は片付きません。真剱味ある生活をいたしましょう」という見出しの後、「七月七日事変記念日（注、昭和12年７月７日に起きた満州事変のこと）に贅沢品の製造、販売に制限が入る規制が発布」されたことに触れ、「此時勢此規則が発せられたのは吾々大和民族の恥」とした上で、「法に拠らず国民が自粛自戒すべき時」「今日只今より贅沢や豪華な生活は断然止めましょう」「お互いが目覚めて真の生活をして我経済力に無限の強みを持った時初めて聖業完遂する時です」と記載されています。&lt;br /&gt;
定期的な会合であり、国民の統合を図るための場でもあった「常会」で話し合われた内容を伝える「常会通達事項」は毎月26日に発布されていたもので、「指導目標」と「通達事項」の２つの項目に分けられています。「指導目標」では陸軍記念日、国民貯蓄の強化継続、結核予防、資源・金属類の回収、中元贈答品廃止といったものの他に、防諜、つまり、いくら近所の親しい間でも軍事機密についての不正確な情報を無闇に話してはならないということについても触れられています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;回覧板以外では、「国民精神総動員」「銃後の護りを堅めましょう」など戦意高揚を謳った国策標語付きの日付印が入った葉書のコレクションや、ビルマ・スマトラ島から尾道の留守家族へ宛てた軍事郵便、臨時召集令状、所謂「赤紙」などが展示されている他、昭和17年１月頃に書かれた「配給簿」や昭和18年７月頃に書かれた「防空資材台帳」も見ることが出来ます。配給簿は当時の配給の記録が細かく記された貴重な資料で、一方の防空資材台帳には、空襲に備えての準備事項が記入されているのですが、その準備すべき物というのが、班用ポンプ１、はしご１、スコップ１、ロープ２、消毒粉２、警報用振鈴２、拍子木１、メガホン２。実際には何の役にも立たない貧弱なもので、当時の人々がこれで空襲から身を守り、戦争に勝てると本気で思っていたのかという憤りと哀れさを感じました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;尾道は幸いにも戦争の犠牲を直接受けませんでした。そのことが今回発見された回覧板などが残った一因にもなったことは間違いありません。全てが戦争一色であり、また国民全体が戦争へと駆り立てさせられた時代を知る上で、これらのものは貴重な財産であると思います。&lt;br /&gt;
「凄い物を見ることが出来た」と思う一方で、「こんな時代は二度と御免だ」という思いを強く感じた次第です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/59781091.html</link>
			<pubDate>Tue, 24 Aug 2010 22:20:56 +0900</pubDate>
			<category>広島県</category>
		</item>
		<item>
			<title>東横落語会の歳月</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今年の４月、『東横落語会～ホール落語のすべて～』というＣＤブックが小学館から発売されました。&lt;br /&gt;
昭和31年から60年にかけて開催されたホール落語「東横落語会」の歴史を、当時の高座を収録したＣＤと196ページにまとめられた本で振り返るもので、全20組のＣＤでは六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵（彦六）、五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝の噺を聴くことが出来ます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　    　　　　　　　&lt;a href=&quot;http://www.shogakukan.co.jp/toyokorakugo/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.shogakukan.co.jp/toyokorakugo/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;戦後の昭和20年代後半から30年代にかけて、東京落語が黄金時代を迎えた原動力となったのは、一つは昭和20年代後半に続々と開局した民間放送の存在であり、もう一つは時を同じくして登場したホール落語でした。&lt;br /&gt;
東横落語会は、昭和28年４月に始まった「三越落語会」に続く二番目のホール落語として、昭和31年５月30日、東京・渋谷の東横百貨店（現在の東急百貨店東横店）内の東横ホール（後に東横劇場と改称）で幕を開けました。会の創始者・湯浅喜久治は、これに先立つ昭和30年秋、当時嘱望されていた若手落語家数人にメンバーを限定した「若手落語会」を発足させ、後にバラエティーショー「東横寄席」の企画・演出も手がけ、４年連続で芸術祭奨励賞を受賞したことから「芸術祭男」の異名を取った名プロデューサーですが、絶頂期にあった昭和34年１月26日、睡眠薬の大量服用が原因で29歳の若さで亡くなってしまいます。没後半世紀が過ぎた現在では、その記録が殆ど残っていない「伝説の人」となっています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;東横落語会を始めるにあたって、湯浅は出演者をレギュラー制にして限定します。「現在の落語家の芸で鑑賞に耐えるのは、この五人だけ」という主張の下に選ばれたのは、当時60代の五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、50代の六代目三遊亭圓生、三代目桂三木助、それにまだ40代になったばかりの五代目柳家小さん。これに「若手落語会」のメンバーを前座として加えるというものでした。「若手落語会」のパンフレットの題字を武者小路実篤、原稿を志賀直哉や小泉信三などに依頼したほど並外れた一流趣味の持ち主だった湯浅は、東横落語会のポスター、パンフレットの文字を画家の木村荘八に書かせて話題を呼びます。演目を記した「めくり」が寄席文字ではなく前衛書道で書かれ、高座の脇に鉄瓶を載せた火鉢が置かれているのも大きな特徴でした。&lt;br /&gt;
第一回の出演者と演目は、柳家小ゑん「蜘蛛駕籠」、古今亭志ん生「粗忽長屋」、三代目三遊亭金馬「転宅」、桂三木助「へっつい幽霊」、柳家小さん「提灯屋」、そしてトリが三遊亭圓生「品川心中」。レギュラーのうち、文楽が出演出来なかったため、金馬が代わりを務めています。最初に登場した柳家小ゑんは、当時二つ目でまだ二十歳。それから７年後の昭和38年に真打ちに昇進し、「立川談志」と名を改めます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;当初は年６回、奇数月のみの開催だった東横落語会も、昭和32年からは、毎年８月11日の三遊亭圓朝の命日に合わせてこの月に「圓朝祭」が行なわれるようになり、昭和40年１月からは毎月開催されるようになります。芸術祭にも度々参加し、昭和35年11月30日の第28回では、三木助の「三井の大黒」の上演時間が長くなったため、次に上がった圓生がやむなく「首提灯」を短く演じた所、これが評価されて芸術祭賞を受賞する結果となりました。レギュラーの一人であった三木助はこの日が最後の高座となり、翌昭和36年１月16日、59歳で亡くなっています。&lt;br /&gt;
三木助の没後間もなく開催された昭和36年１月31日の第29回で、彼が演じる予定だった「芝浜」とトリの「抜け雀」の二席を演じるサービスを見せた志ん生も、この年の秋に脳卒中で倒れてしまいます。&lt;br /&gt;
昭和40年代になると、志ん生が昭和43年に事実上高座から引退、文楽も芸に衰えを見せ始め、圓生、小さん、それに新たにレギュラーとなった十代目金原亭馬生などが中心となり、更に昭和50年代に入ると立川談志、三遊亭圓楽、それに古今亭志ん朝などが主要メンバーとなり、一時は「若い東横落語会」と題した若手中心の会も不定期で開催されました。&lt;br /&gt;
第一回のトリを務め、長年会を支えてきた六代目圓生は、昭和54年８月27日の第224回を最後に、それからわずか１週間後の９月３日、79歳で世を去ります。最後の「ネタおろし」となった三遊亭圓朝作「福禄寿」の初演も、この年７月30日の第223回（「圓朝祭」）でのものでした。十代目馬生の最後の高座も昭和57年８月30日の第260回で演じた「船徳」で、それからわずか半月後の９月13日、54歳の若さで亡くなります。この日の様子については、立川志らく著『全身落語家読本』（新潮選書）の中に綴られています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;東横落語会は、昭和60年６月28日の294回を最後にその歴史に幕を閉じます。レギュラーが次々と亡くなり人気が下降線を辿ったことと、会場の東横劇場が老朽化により閉鎖されることが理由でした。&lt;br /&gt;
最終回の出演者と演目は、春風亭小朝「紀州」、立川談志「山号寺号」、三遊亭圓楽「紺屋高尾」、古今亭志ん朝「火焔太鼓」、そしてトリは柳家小さん「笠碁」。第一回の出演者の中で名を連ねているのは当時小ゑんだった談志と小さんの２人だけで、まだ落語家になっていなかった志ん朝やわずか１歳だった小朝の名前が見られることに、戦後の落語界と共に歩んだ東横落語会の歳月の長さが感じられ、更にそれから四半世紀が経った今、この最終回の出演者の中で健在なのが小朝と談志の２人だけであることに、人気と格調を誇ったこの会が姿を消してからの歳月の長さと、落語界が失ったものの大きさを感じる落語ファンは多いことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/59772318.html</link>
			<pubDate>Sat, 21 Aug 2010 21:29:33 +0900</pubDate>
			<category>伝統芸能</category>
		</item>
		<item>
			<title>菅野美穂・1997―2010</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;女優としてデビューしたのが1993年、15歳の時。&lt;br /&gt;
それから17年が経つというのだから、この８月22日で33歳になる菅野美穂にとって、女優として過ごした時間が人生の半分を超えることになります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;デビューしたのが高校生の頃だったこともあって、当初は制服姿の美少女役が多く、しかし『イグアナの娘』（1996年）のように、その制服姿の奥に複雑で屈折した感情を秘めた役柄を演じたことは、その後の女優としての大成を予感させるものでした。&lt;br /&gt;
菅野美穂を語るとき、やはり1997年８月22日という日を外すことは出来ません。単に20歳の誕生日を迎えたというだけでなく、突如としてヌード写真集『Ｎｕｄｉｔｙ』を発表したことで、女優としても、また自らの人生においても重大な転機をもたらすことになったからです。今では最早「遠い昔の話」となった感もありますが、当時世間に与えた影響は本人の想像以上に大きく、出演していたＣＭの降板を余儀なくされたほどでした。菅野自身、この当時のことをそれから約１年後に発売されたフォト・エッセー集『定本・菅野美穂』（集英社）の中で振り返っていますが、自分が投じた波紋の大きさやそこから垣間見た現実について、ありのままに、しかし努めて冷静に綴っています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;20歳以降の菅野美穂は、ＣＭ降板以外で写真集騒動の余波を受けることは殆どなく、可愛さや親しみやすさから妖艶さ、魔性に至るまで女性が持つあらゆる面を兼ね備えて表現出来る女優へとパワーアップして行きます。&lt;br /&gt;
テレビドラマには殆ど休むことなく出演し続け、一方で舞台『奇跡の人』（2000年）のヘレン・ケラー役や、北野武監督の映画『Ｄｏｌｌｓ』（2002年）などでも印象に残る演技を見せますが、菅野が持ち前の演技の幅広さを遺憾なく発揮しているのは、寧ろ単発ドラマや実在の人物を描いた作品ではないかと思います。前者は耳の不自由なヒロインが周囲の善意に支えられながら、結婚、出産、子育てなどを通じて成長する姿を描いた『君の手がささやいている』シリーズ（全５作、1997年～2001年）、悪役・玉梓（妙椿）を演じた『里見八犬伝』（2006年）など、後者では、ピアニスト、フジ子・ヘミングの半生を伝記調で描いた『フジ子・ヘミングの軌跡』（2003年）などがあり、昨年から３年がかりで放送中の『坂の上の雲』（2009年～2011年放送予定）の正岡子規の妹・律役もこれに当たります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;21世紀に入り、朝のテレビ小説『ちゅらさん』（2001年）で天邪鬼なメルヘン小説家役を演じた辺りから、菅野美穂は「働く女性」像を数多く演じるようになり、それは30代にさしかかってからの『わたしたちの教科書』（2007年）での弁護士役や『働きマン』（同）の猛烈編集者、不可解な事件を推理する女刑事を演じた『キイナ～不可能犯罪捜査官～』（2009年）、それに『曲げられない女』（2010年）といった一連の作品と役柄へと繋がって行きます。菅野美穂がそれだけ年齢とキャリアを積み重ねたことの表われであると言える一方、2006年にそれまでの所属事務所から現在の研音に移籍したことも大いに影響していると思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;取材したマスコミ関係の人々が皆揃ってファンになってしまったという逸話を持つ菅野美穂は、最近では「アラサー」世代の女性たちの間で最も支持されている女優と言われています。&lt;br /&gt;
1997年以降、女優としても女性としても着実に成長を続けて来た菅野美穂は、「アラサー」世代の人々と共に生き続けている女優でもあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/59770069.html</link>
			<pubDate>Fri, 20 Aug 2010 23:07:53 +0900</pubDate>
			<category>俳優、女優</category>
		</item>
		<item>
			<title>『野良犬』とその時代</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;黒澤明監督が、平成10年９月６日に亡くなって12年。&lt;br /&gt;
今年は明治43年３月23日に生まれた黒澤監督の生誕百年でもあり、二つの意味で節目の年になります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;一般的に「黒澤映画」と言えば、『七人の侍』（昭和29年）や『用心棒』（昭和36年）に代表されるダイナミックな時代劇のイメージが強いと思われます。&lt;br /&gt;
しかし、終戦直後から『羅生門』（昭和25年）で国際的名声を得るまでの黒澤は、様々なテーマやジャンルに取り組みながら、当時の世相や人々の姿をリアルに映し出した映画監督でした。&lt;br /&gt;
日本映画に「刑事もの」というジャンルを確立し、その後のテレビの刑事ドラマにも多大な影響を与えた昭和24年公開の『野良犬』も、その中の１本です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;恐ろしいほど暑い夏のある日、警視庁捜査一課の新人刑事・村上（三船敏郎）は、射撃訓練の帰りのバスの中で弾丸７発が入ったコルトを盗まれます。スリ係の刑事の協力を得て、盗みに手を貸した女スリから「ピストル屋」の存在を聞き出した村上は、淀橋署のベテラン刑事・佐藤（志村喬）と組んで野球好きのピストル屋を後楽園球場で張り込みの末、逮捕。コルトが遊佐新二郎（木村功）という男の手に渡っているという供述を得ます。復員兵の遊佐は数日前に実家から姿を消しており、幼馴染のレビューの踊り子・並木ハルミ（淡路恵子）からは最近金回りが良く、彼女に言い寄っていたことを聞き出します。しかしこの間、村上のコルトを使った強盗傷害事件、続いて強盗殺人事件が発生。２人はハルミのアパートを訪ね、遊佐の居場所を尋ねますがなかなか口を開こうとしません。遊佐が殺人犯であり、兇器が自分のコルトであること、そして自らも遊佐と同じ復員兵であることをハルミに明かす村上。一方、ハルミの部屋にあったマッチを頼りに神田の簡易ホテルに向かった佐藤は、遊佐を突き止めて警察と村上に電話で連絡しますが、捜査の手が及んでいることを知った遊佐に撃たれてしまいます。病院で佐藤の容態を案ずる村上の前にハルミが訪れ、遊佐から朝６時に待っていると連絡があったことを告げます。事件解決とコルトを取り戻すため、村上は一人で待ち合わせの場所へと向かいます―。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;サスペンス映画として評価が高く、今日のように冷房が発達していない時代の文字通りの「恐ろしい暑さ」が画面全体から伝わってくるこの作品は、戦争が終わってやっと４年が経ち、街や人々の間に漸く活気が戻って来た様子と、戦争が終わってまだ４年しか経っておらず、人々の生活も貧しく先も見えないという現実の、いわばこの時代の「明」と「暗」が明確に描き出された作品でもあります。事件を追う側である村上刑事と追われる側である犯人の遊佐が共に復員兵であり、また復員途中で同じ経験をした共通点を持っているという設定が、当時の時代背景を如実に示している上、そのまま２人の男の明暗が分かれたその後の生き方を際立たせているように思います。『野良犬』とは、事件とピストルを執念深く追う村上は勿論、世間からドロップアウトしてしまった遊佐のことも指しているのでしょう。&lt;br /&gt;
この映画で圧巻なのが、村上がピストルを捜し求めて東京の盛り場を歩き回るシーンと、最初の山場である後楽園球場のシーン。前者は本作の監督助手で、後に『ゴジラ』（昭和29年）を手がける本多猪四郎が担当したもので、黒澤も後にこのシーンの出来栄えを大いに認めたそうです。後者では、後楽園球場で実際に行なわれた巨人―南海戦が登場。『野良犬』が公開された昭和24年は、日本のプロ野球が１リーグだった最後の年で、特にこの年の巨人―南海戦は、最も注目を集め人気を呼んだカードでした。川上哲治、千葉茂、青田昇などの当時の人気選手の映像が見られる点でも貴重な作品です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;映画『野良犬』は、公開から60年以上経った今、歴史資料的価値の高い作品となっています。&lt;br /&gt;
黒澤明の時代と人間を見る眼の確かさの証と言えるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/59767804.html</link>
			<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 23:50:01 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>平成21年最後のご挨拶</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;我が町尾道は、時折雪がちらつく寒い大晦日となっています。&lt;br /&gt;
皆さんがお住まいの町は、どのような大晦日となっているのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて、平成21年、西暦2009年も残す所９時間を切り、いよいよ暮れも押し詰まったという思いを強く感じています。&lt;br /&gt;
大晦日を迎えて思うことは、「一年が過ぎて行くのが早い」という思いが、齢を重ねて行くごとに強くなって来ているということです。&lt;br /&gt;
この思いは、来年の今頃には更に強く深いものとなっていることでしょう。&lt;br /&gt;
そして、人間というものはそんな風に出来ているのではないかとも思ったりします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今年一年を振り返ってみると、この『万年寝太郎徒然日記』に関して言えば、一年を通じて記事の更新が殆ど停滞状態に終わってしまいました。&lt;br /&gt;
実は色々と書きたいことはあったんです。例えば、この５月に親戚の結婚式で十数年ぶりに東京に行き、そのついでに「らくごカフェ」に行った時の話とか、８月に母校の同窓会に参加した時、後輩に噺家がいることが分かったこととか…。&lt;br /&gt;
他には、落語・映画・プロ野球に関する話題とか、今年亡くなった方々についての感想とか、更には今年最も世間を騒がせた事件や人物に対しての自分の思いとか、そういった事が全く書けずじまいに終わってしまった事が自分でも残念に思っています。&lt;br /&gt;
来年は、今年あまり更新出来なかった分、しかしあくまでマイペースで、この『万年寝太郎徒然日記』を更新して行きたいと思います。&lt;br /&gt;
とりあえず、年明けからは「志ん朝」と「コロンボ」と「寅さん」について書いて行こうかな…と、考えています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ともあれ、今年一年間御愛顧頂きまして、誠にありがとうございます。&lt;br /&gt;
来年も何卒宜しくお願い致します。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/58947616.html</link>
			<pubDate>Thu, 31 Dec 2009 15:32:27 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>『仁義なき戦い』と戦争</title>
			<description>昭和48年から49年にかけて、全５作品が作られた深作欣二監督の『仁義なき戦い』。&lt;br /&gt;
その第１作（昭和48年１月13日公開）のオープニングタイトルは、東映お馴染みの「三角マーク」に続いて、昭和20年８月６日、広島に投下された原爆による忌まわしいキノコ雲のモノクロ写真をバックに、殴り書きのようなタイトル文字が表われるというものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　&lt;a HREF=&quot;http://www.youtube.com/watch?v=nb8VXy4Takc&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.youtube.com/watch?v=nb8VXy4Takc&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第１作のオープニングタイトルにも象徴されているように、『仁義なき戦い』という映画では、戦争が投げかけた暗い影も重要な要素となっています。&lt;br /&gt;
『仁義なき戦い』の物語は、終戦から１年後の昭和21年、「戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼る他はなかった」（オープニングナレーションより）頃の、広島県呉市から始まります。終戦後、復員兵である主人公・広能昌三（菅原文太）は、闇市で殺人事件を起こして服役。出所後、その度胸を見込んだ山守義雄（金子信雄）率いる山守組の子分となり、暴力の世界に身を投じることで自らの思いをぶつけようとするも、やがて20年以上に及ぶ「広島ヤクザ戦争」の渦中に飛び込むことになってしまいます。&lt;br /&gt;
ここで描かれているのは、戦争が終わって己の行き場を失った広能という男が、一つの大きな流れに流されるまま抜け出せず、もがき苦しむ姿であり、また舞台である呉という町が終戦までは海軍の一大拠点であり、それが戦後になると、今度は新しい「戦争」の舞台になるという点に、歴史の皮肉さを感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１作でも随所で見られた「戦争の影」が、物語の背景として更に色濃く描かれたと言えるのが、シリーズの中では「番外編」でありながら、「最高傑作」の呼び声も高い次作の『広島死闘篇』（昭和48年４月28日公開）。&lt;br /&gt;
この作品では、広島でのヤクザ抗争が激化する中、名うての「ヒットマン」として恐れられた山中正治（北大路欣也）という男が事実上の主人公として登場します。予科練志願の学徒だったが終戦で心のやり場を失ったこの男は、「国のために戦う」という思いを果たせなかった無念さを、「国」を「親分」や「組」に置き換えて晴らそうとしますが、結局利用された挙句、「国のために死ぬ」以上に無様な最期を遂げてしまいます。山中と恋仲になる組長の姪・靖子（梶芽衣子）は戦争未亡人で、その夫の遺影が映るシーンは、「国のために死んだ者」とそれが出来なかった山中との対照的な関係が象徴されているように思います。&lt;br /&gt;
シリーズ第４作まで手がけた脚本家の笠原和夫は、『広島死闘篇』の製作にあたり、自らと同世代で「戦争に行き遅れた青年」である山上光治という実在の人物に注目し、彼をモデルに山中正治というキャラクターを生み出します。一方、笠原とは３歳年下で昭和５年生まれの深作は、山中の宿敵となる武闘派ヤクザの大友勝利（千葉真一）に共鳴し、その捉え方の違いに「時代感覚のギャップ」を痛感したといいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『仁義なき戦い』では、『広島死闘篇』以降、原爆ドームが映って物語が終わるというスタイルが定着します。これは、以前から「ヤクザ映画には社会性が足りない」と考えていた撮影担当の吉田貞次カメラマンが、戦争の犠牲者とヤクザの犠牲者とを重ねる形で原爆ドームを撮ることを決めたそうです。&lt;br /&gt;
事実、広島の象徴であり、戦争の悲惨さの象徴でもある原爆ドームを映画の最後に出すことで、『仁義なき戦い』が何を訴えようとしているのかを表わすのに効果的な役割を果たしています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『仁義なき戦い』と戦争との関係について書いてみましたが、ここまで書いて気付いたことは、国同士の戦争も、ヤクザ同士の争いも、「形」や「規模」は変わってもその実態には変わりはなく、また、巨大な力によって若者たちが操られ、その尊い命が犠牲になるという構図も全く同じであるということです。&lt;br /&gt;
シリーズ最終作となった『完結篇』（昭和49年６月29日公開）は、「人間の社会から弱肉強食の戦いが絶えるのは、果たしていつのことだろうか」というナレーションで締め括られ、全５作に渡った『仁義なき戦い』は幕を降ろします。&lt;br /&gt;
『仁義なき戦い』という映画は、単なるヤクザの争いを描いた作品に留まらず、戦争の悲惨さ、愚かさや平和の尊さを考えさせてくれる映画でもあると思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/58440279.html</link>
			<pubDate>Mon, 31 Aug 2009 21:51:30 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>もう一つの「禁演落語」</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;かつて、落語がお寺に葬られた時代がありました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日中戦争が始まって４年。太平洋戦争開戦も目前に迫っていた昭和16年（1941年）、軍国一色に塗り潰され我が国では、あらゆる分野で戦争への協力が求められ、芸能の世界も例外ではなく、落語界・演芸界も演目の自粛を強いられます。&lt;br /&gt;
落語の演目は「甲乙丙丁」に分類され、このうち廓噺や花柳界、妾、それに「間男」に関わる題材など53演目が、時局に合わない「丁」と見なされ、この年の10月20日、落語界の先輩たちの霊と共に東京・浅草にある日蓮宗の寺・本法寺（ほんぽうじ）に建立された「はなし塚」に葬られます。&lt;br /&gt;
これが所謂「禁演落語」です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/38860431.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/38860431.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;やがて終戦を迎え、それから約１年が過ぎた昭和21年９月30日、「はなし塚」に集まった噺家たちによって「禁演落語復活祭」が行なわれ、禁演落語はめでたく「解禁」。「はなし塚」には今まで納められていた53席の噺に替わって、戦時中の落語の台本が納められます。&lt;br /&gt;
長い戦争が終わり、落語界にも漸く自由で平和な時代が戻って来た…と思ったら、これがとんだ大間違い。&lt;br /&gt;
「禁演落語」解禁からまだ半年余りしか経っていない昭和22年５月30日、今度はこの月の３日に施行されたばかりの日本国憲法の線に沿い、連合国軍最高司令官総司令部民間情報部、即ちＧＨＱの検閲機関の指示に応じる形で、落語協会と日本芸術協会（現在の落語芸術協会）によって、新たに20演目が「禁演落語」に指定され、前回と同じく浅草・本法寺の「はなし塚」に葬られたのです。&lt;br /&gt;
この背景にあったのは、当時ＧＨＱが推し進めていた日本の民主化と非軍事化。&lt;br /&gt;
小島貞二編著『禁演落語』（ちくま文庫）によれば、これに先立つ昭和20年12月の日付で、「上演不可能歌舞伎之部」72演目と「上演不可能新時代劇之部」260演目がリストアップされ、これらを含めた約500本に上る脚本のうち、上演が許されたのは約３分の１の174演目だったそうです。また、映画界では「戦闘心を煽る」との理由から、チャンバラ映画が禁止されるという事態が起こります。「禁演落語」もこれらの事情と決して無関係ではなかったと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて、「禁演落語」となった20演目は以下のものです。&lt;br /&gt;
　お七　景清　巌流島（岸柳島）　胆つぶし　くしゃみ講釈　袈裟御前　後生鰻　写真の仇討&lt;br /&gt;
　宗論　将棋の殿様　城木屋　高尾　ちきり伊勢屋　寝床　花見の仇討　毛氈芝居&lt;br /&gt;
　桃太郎　宿屋の仇討　山岡角兵衛　四段目&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;戦時中の「禁演落語」が、廓噺などのいわば「柔らかい」噺が中心だったのに対して、ここでは「仇討ちもの」「婦女子虐待もの」など軍国主義的、暴力的、荒唐無稽に過ぎると見なされたものが選ばれ、中には「後生鰻」「城木屋」「高尾」のように、前回に続いて「２度目のお勤め」となったものもありました。&lt;br /&gt;
しかし、「宿屋の仇討」「花見の仇討」「写真の仇討」のように、題名に「仇討」と付いているだけで「禁演」となったものや、見当違いの理由で選ばれたと思われるものが殆どで、新しい政策や体制に過剰に反応した結果、そうなってしまったことは否定出来ません。&lt;br /&gt;
実際、この２度目の「禁演落語」が登場してから半年足らずの昭和22年11月には、それまで上演禁止となっていた歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演が許可されており、「禁演落語」の存在自体が全く無意味なものであったことは明らかなようです。&lt;br /&gt;
結局、新体制の「御機嫌を伺う」という意味で生まれたであろう戦後の「禁演落語」は、昭和27年の占領体制終了に伴い自動的に解除されますが、実際にはそれよりずっと以前の昭和24年４月頃に「禁演落語復活祭」が本法寺で行なわれたそうで、更に言えば、今も書いたように存在自体が「有名無実」であったと言えます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;長くて暗い戦争の時代が終わり、日本が平和への道を進んで行く中で、落語の世界にも「紆余曲折」があったことを証明するものが、このもう一つの「禁演落語」であったということでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/58430243.html</link>
			<pubDate>Sat, 29 Aug 2009 14:33:15 +0900</pubDate>
			<category>伝統芸能</category>
		</item>
		<item>
			<title>黒門町・夏の噺</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生と並んで「昭和の名人」と謳われ、その住まいから「黒門町」の通称でも知られた八代目桂文楽。&lt;br /&gt;
志ん生や圓生などと比べて噺のレパートリーが少なく、持ちネタの数は30前後であったと言われていますが、その一つ一つが長年研鑚を積み重ねた末に、寸分の狂いもない「完成品」として仕上がっていました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;文楽の十八番の中には、夏を舞台にした噺がいくつかあります。&lt;br /&gt;
先ずは「船徳」。「道楽とは『道を楽しむ』と書くそうですが、中には『道に落ちる』と書く“道落”がある…」というマクラから始まるこの噺は、「道楽」の果てに「道落」をして実家から勘当され、柳橋の馴染みの船宿に居候する若旦那の徳さんが主人公。ある日突然「船頭になりたい」と言い出して親方を驚かせますが、「ここでなれなきゃ、他所へ行ってなる」の一言で親方も渋々承知します。暑い盛りの七月十日、浅草観音の縁日、所謂「四万六千日」の日。男２人連れの客が船宿にやって来ますが、あいにく船頭が出払って、残っているのは徳さん一人。断ろうとする女将を振り切って大張り切りで仕事を引き受け、柳橋から大川へ舟を漕ぎ出す徳さんでしたが…。&lt;br /&gt;
「にわか船頭」の身でありながら、一年の内で一番の書入れ時に舟を漕ぐ破目になった徳さんの悪戦苦闘ぶりもさることながら、親方に呼び出された船頭たちが「藪をつついて蛇を出す」ことになる件や、思いがけない「修羅場」を体験する２人の客、そして聴き手を一気に夏の盛りへといざなう「四万六千日、お暑い盛りでございます」など、聞き所満載の一席です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「半可通」や知ったかぶりを指す言葉のもとになった「酢豆腐」も、また夏の代表的な演目。&lt;br /&gt;
夏の暑い盛り、町内の若い衆が寄り集まって酒を呑む相談をしています。酒はあるが肴はない。糠味噌があるが、誰も糠味噌樽に手を突っ込みたがらない。昨夜買った豆腐は、与太郎がうっかり釜の中に閉まったために、腐ってカビが生えている始末。どうしたものかと困っている所へ通りがかったのがキザで何でも知ったかぶりをする若旦那。日頃から若旦那のことをよく思っていない連中は一計を案じて…。&lt;br /&gt;
江戸時代中期の宝暦13年（1763年）に書かれた『軽口太平楽』が原話とされるこの噺、特別にこれといった筋はないのですが、前半のとりとめのない若い衆の会話からは、原題の通り「太平楽」な雰囲気が感じられ、噺の「核」である豆腐を巡る場面と合わせて、全編が聞き所と言うべき噺と言えるかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;桂文楽は、「富久」「愛宕山」「つるつる」など幇間（たいこもち）の出てくる噺も多く演じました。「鰻の幇間（たいこ）」はその中の一つ。&lt;br /&gt;
夏の炎天下、しがない幇間の一八は顔に見覚えのある浴衣姿の男と出会い、適当に話を合わせながら上手く取り入って鰻屋に案内してもらいます。この鰻屋というのが汚い店で、二階へ上がると子供が勉強机を持って出て行くという有様。それでもお世辞を並べた一八は酒と鰻にありつくことに成功します。ところが、男が小用に立ったのを境に、事態は思わぬ展開に…。&lt;br /&gt;
客を「釣ろう」と考えた一八が逆に「踏んだり蹴ったり」の目に遭う顛末を描いた一席。元々この噺には、一八が男と出会う場面の前に馴染みの芸者屋を訪ねる件があるのですが、文楽はいつしかこの場面をカットして、鰻屋での騒動に内容を絞り込んで演じるようになりました。一八が連れて来られた鰻屋の凄まじさが笑える一方で、男が席を外した後の一八の独り言や「十円札」の件には、明日の見えない芸人稼業に身を置く一八の悲哀がよく表われています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところで、文楽の落語の特徴として、それぞれの噺ごとに一度耳にしたら忘れられないフレーズがあることが挙げられますが、ここに挙げた３席も例外ではありません。&lt;br /&gt;
「船徳」では、今も書いた「四万六千日、お暑い盛りでございます」。&lt;br /&gt;
「酢豆腐」では、「金がないが刺身は食う」に「さすがはスンちゃん」。&lt;br /&gt;
そして「鰻の幇間」では、「先のとこ」に「見ろ、この十円の影の薄いこと」―。&lt;br /&gt;
どんな場面でこれらのフレーズが出てくるのかは、聞いてのお楽しみということで…。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/58397586.html</link>
			<pubDate>Fri, 21 Aug 2009 21:22:49 +0900</pubDate>
			<category>伝統芸能</category>
		</item>
		<item>
			<title>ラムネとゼリーコーヒー</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;例年よりも大幅に遅かった梅雨明けに、豪雨や地震など各地で相次ぐ自然災害など、今年の夏はいつも以上に我々人間にとって厳しいものになっているようです。&lt;br /&gt;
しかし、日中の「うだるような暑さ」には変わりがありません。この季節、暑さと日々の生活に追われる毎日に疲れた心と体を癒してくれるのは、やはり冷たい飲み物です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;先日、飲料水を作っている父方の親類から荷物が一箱送られてきました。中身は１ダース分のラムネ。&lt;br /&gt;
子供の頃から炭酸飲料好きで、特に夏になると毎日のようにサイダーやソーダ、コーラを口にしていますが、ラムネとは暫く御無沙汰でした。&lt;br /&gt;
独特の形をした瓶、見るからに爽やかな色合い、涼やかさを感じさせるビー玉、そしてどこか心を和ませてくれる瓶の手触り…と、何もかもがある種のノスタルジーを思い起こさせてくれて、存在そのものがまさに「日本の夏」と言っても決して過言ではありません。送られてきたラムネは、昔ながらのガラス瓶ではなくプラスチックの瓶に入ったものですが、ラムネ本来の「味わい」は見事に守られていました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;送られてきて数日後の風呂上がり、よく冷やしたラムネを頂きました。&lt;br /&gt;
冷蔵庫から取り出してフタでビー玉を瓶の中へ押し込むと、「ポン」と炭酸の泡の弾ける音。これもまたラムネの「醍醐味」。一口飲んだ後、口の中に広がる清涼感と喉から体内へと突き抜けて行く爽快感。&lt;br /&gt;
こうしてみると、ラムネほど目にも耳にも体にも涼しく、それでいて温かく、更に懐かしさを感じさせてくれる飲み物は他にありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ラムネと並んで最近ハマっている飲み物が、「ジョージア」のゼリーコーヒー。&lt;br /&gt;
６月のある日曜日、出先で立ち寄った自動販売機で買い求めて、「５回以上振ってからお飲みください」という缶の説明書きを見落としてしまったばっかりに、「何じゃこりゃ！？」と思いながらも何とか飲み干したのが最初でした。しかし、従来の缶コーヒーとは違う独特の味にすっかり病み付きになってしまい、ほぼ２日に１回の割合で飲んでいます。ゼリー独特のドロリとした食感とコーヒー本来の苦味のマッチングが堪えられません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ラムネとゼリーコーヒー。&lt;br /&gt;
僕にとって、これがこの夏の愉しみです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/58394061.html</link>
			<pubDate>Thu, 20 Aug 2009 22:24:52 +0900</pubDate>
			<category>飲み物</category>
		</item>
		</channel>
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