プレシャンブルーの風に抱かれて

地球と共に進化し、人類が共生の道へ歩むことを願いつつ。

全体表示

[ リスト ]

「るいネット」さんより

地方自治体再生〜貧しい寒村から平均年収2500万円の農業王国へ:長野県川上村①
 
蔵端敏博 16/11/04 PM05
長野県最東端に位置する川上村。村域全体が標高1000m以上という高冷地にあり、かつては貧しい寒村だったこの地が、今や川上村は日本一のレタス産地となり、農家一戸当たりの平均年収は2500万円を超えている。30代40代の若手農家が多く、出生率も全国トップクラスで、後継者問題とは無縁の農業王国となっている。
この変革をリードしたのが、村長・藤原忠彦で、路線バスの整備や、農業の情報共有化(CATV)など、熱い思いで様々なことを実践してきたことが今に繋がっている。

「信州のチベット」が高収入、高出生率を誇る「明るい農村」に変貌するまで。
リンクより
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
■1.「信州のチベット」が「明るい農村」に
山梨県、埼玉県、群馬県との県境にある長野県川上村。西に八ヶ岳連峰が聳え立ち、東、北、南もそれぞれ2千メートル級の山々に囲まれ、かつては陸の孤島、信州のチベットと呼ばれていた。
村の平均標高は1270メートル、真夏でも平均温度20度前後、冬はマイナス20度近くまで冷え込む寒冷な高地である。そのため稲作や果樹の栽培には適さず、昔は猟や林業で細々と生計を立てていた。
千曲川の源流もここに発し、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』で川上村を「信州の中で最も不便な、白米はただ病人にいただかせるほどの貧しい荒れた山奥の一つ」と記していた。
その村がいまや平均年収2,500万円もの豊かな農村に生まれ変わっている。
年収ばかりではない。多くの農村が過疎と高齢化に悩まされている中で、川上村の出生率(一人の女性が一生に生む子どもの人数)は1.83と、全国平均の1.34どころか、県別トップ沖縄県の1.75すら上回っている。
川上村では、農業を継ぐ若者も多く、農業従事者のうち、30代、40代が約37パーセントと、全国平均の9.4パーセントを大きく上回っている。また7割の嫁が東京などの都会から嫁いできて、3、4人の子どもを生み育てている例も多い。

■2.期待、安心、そして夢を運ぶ村営バス
川上村の変革をリードしたのが、村長・藤原忠彦さんである。藤原さんは昭和13(1938)年、川上村の農家の次男として生まれた。父親が若くして亡くなり、長男は東京の大学に進学したばかりだったので、藤原さんが高校を中退して農業を継ぐ事になった。
「家の犠牲になった」という意識もあって、東京に出ては遊び回っていた時期もあったが、昭和36(1961)年に転機が訪れた。農林省による寒冷地対策事業の一環として、大型トラクターが導入され、その運転手として村役場の臨時職員に採用されたのである。機械好きで、村では珍しく大型特殊免許を持っていたのが、幸いした。
藤原さんはトラクターを運転するのが楽しくて、村中の畑を耕した。その姿を見て、当時の村長が正規職員にしてくれた。
昭和57(1982)年、藤原さんは44歳で企画課長に昇進した。この頃、村では人口減少と過疎化が進んでおり、唯一の民営路線バスも赤字続きで、廃止が決まっていた。「路線バスが廃止されれば、村の安心感がなくなり、過疎に拍車がかかる、なんとか存続させたい」と藤原さんは考えた。
そこで路線バスを村営化し、さらにスクールバスや幼稚園送迎バスと併用することで黒字化する、という案を作った。しかし路線バスは運輸省管轄、スクールバスは文部省管轄と監督省庁が異なり、前例もないので、なかなか認可が下りなかった。
藤原さんは関係部局に夜討ち朝駆けの説得を行い、やがてその意気に感じた役人が、遂に認可をしてくれた。この方式で村営バスは黒字化に成功し、以後、全国的にも「川上方式」として有名になった。
藤原さんが幼稚園の卒園式に招待された時、一人の子どもが「ぼくは大きくなったら村営バスの運転手になる」と言った。これを聞いて、藤原さんは、「バスは単に人を運ぶだけではなく、人々の期待や安心、そして夢をも運ぶものなのだ」と実感した。

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事