ここから本文です
灯かりと明りの違い。。
ココロにともす灯りは揺らいでも消さないで居たい。。。そうありたい。

書庫向き合う

記事検索
検索

全11ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1



今、国会は金とスキャンダルで揺れて辞職ドミノが第一次安倍内閣の再来としてメディアは取り上げ安倍政権は窮地に追い込まれ再び内閣は崩壊して安倍政権は倒壊する可能性を示唆する報道がメディアは伝えている。
果たして、これから審議される法案を通せないままに終わることがあるのか?
そうなってくれるならそれに超したことはない。
政治と金の問題は注目を浴び次第にエスカレートしているがそのことで国会審議は本当に停滞しているのだろうか。
審議は支障が出ているがこのドサクサに紛れて中小企業への増税、福祉の助成の切捨てと減額、医療保健の高齢者医療の特別措置の取り止め、生活保護における家賃扶助の減額、寒冷地の冬季加算の減額、派遣法の改定としてより正規雇用を少なくし派遣雇用の拡大化、そして年功序列の賃金制度を見直すというより実質賃金のカットなどを画策されている。
消費税10%については慎重論も出て取り上げられてはいるが集団的自衛隊と原発、秘密保護法についてはメディアで取り上げられることも確実に制限を加えて大手新聞社やテレビでは取り上げられずに地方紙に記載された報道を知ってインターネットで広まって判明している。
ただそこにも確実に規制の手は入り込み
全国各地や国会前を始めとした抗議活動やデモに関しては報道されることは無くなっている。
ましてもっと不都合な政府内の法案作成に関する情報は一切聞こえて来ない。
この半年くらいの報道はそのまま前とは一変する程大手新聞社やテレビの報道はされない情報隠蔽は進んでいるようです。
最近は日本の国内の政治に関することは海外のメディアから知るケースが増えて
国内では腫れ物に触る様な様子でひた隠しにしてることでもネットから流出して私たちが知ることが多くなっています。
国内ではG8了承の様に扱われ景気先行きの為にも消費税の10%への引き上げは必須と報じらているのにアメリカの財務省が日本の消費税の引き上げを真っ向から否定し止める様に指示して来ています。
日本の経済の現状が国債の大量発行と財源の株への不当な投資で株バブルという中身のないものと危険視されているからです。つまり海外ではアベノミクスはもう評価されない失敗策と映っているのです。
これらの情報は政権が意図的に隠蔽を現状でさえも実施し、12月に施行しようとする機密情報保護法を阻止しえなければ政府の隠蔽は更に極端な形で進み情報の流出とその情報を得てそれを公開する事にも処罰を持って規制されかねない。
名前と若干の
表現こそ違えど治安維持法とさほど変わらず言論の自由を損なう統制にあっと言う間にひるがえる危険が私たちの暮らしと社会を脅かそうとしているのです。

この秋から冬で通されようとしている議事のほとんどが一部の権力や資本を持つ者以外にとって何の幸福も平穏ももたらさない生活を脅かすだけでなく今後いつ日本が戦争に舵を切り日本の若者が徴兵されて生死の境を彷徨わされてもおかしくない法律の骨格を担う危険な中身を持ちその法案はそれぞれが別ではなく器用に連係して私たちの暮らしと自由を規制し脅かすことに気が付かなくてはなりません。

過去の政治にも不信感を持ち危険を感じたことはありますが今の安倍政権程、怖いと感じ危ないと感じた事はありません。
情報を操作し、国民にはパフォーマンスで誤魔化し大企業と右翼団体と結託してアメリカよりでもなく諸外国の味方になりうる国と権力を物色して金と権力更に彼の思想を反映するファシズム、国粋主義と歴史をさかのぼりしてでもその目標を達成しようとしている様にしか思えません。
国民は彼にとっては戦時中と同じ道具に見えているのでしょう。

戦争の出来る国にしてはいけません
戦争に加担するということは自ら日本が戦争をする事です。
この平穏な景色は一瞬でなくなります
私たち国民に見向きもしない政治などはハッキリいらないと断言してNOを突きつけましょう!
子供たちにせめて今の平穏な景色を残し残酷で悲しい未来にさせないためにも…






 
メンタルカテゴリーでの記事を書くのは久しぶりになります。
(転載はある)
 
精神医療及び福祉に関する事象はさまざまに変化しているように思われていますがはたしてどうなんでしょう。
殆どの変化はハード面での変化と物理的な側面での変化にとどまり、精神医療については一時的な多剤処方に対する規制はあったとしても意識も治療に関する患者への処遇はさほどこの10年変わっていないように思えます。
インフォームドコンセント自体も徹底されていないし、長期に渡る同じ薬剤の処方を制限したことは実践されていないで(薬剤の副作用や耐性による影響を考察したもの)相変わらずばら撒き続けられているとしか思えない。
 
福祉事業に求められるものは何時しか当事者の収容に切り替わり、抱き込に熱心な事業者が事業拡大をしていく中で産業として企業家の注目を集めるようになっている現状の中で福祉における根本的な理念などは紙くず以下になってどこに捨てたのかさえ分からないほど日々利用者の確保と事なかれ主義で当事者の意向など関せずに事業所における名目上の業務の確保ないしは不足分の収益の穴埋め的な業務に専念している中で自立支援という肩書だけは整えられてしまうおかしな現象が繰り広げられている。
 
当事者は自分の主張などは微塵も出す隙間を見つけられずに言いなりになりながら助成金の単価のノルマを認識しないままに果している。
 
ただ集められる環境に身を寄せるだけで個々が抱える希望は行政に提出する書類のえさになり、ひたすらあてがわれる作業を短時間の中でできる範囲といわれながら要求にこたえてさっさと終業時間には帰されてしまうから本当は抱えている問題も棚上げのまま相談もできずに緩慢に時間を費やして自分の存在感も得れないままにやり過ごさせられている。
 
就労を志すと福祉的就労という一般には知られない言葉が飛び出して要するに福祉事業所におけるA型という事業になるわけだが最低賃金の時給は保証というが実態は仕事が足りなく支払う余裕を事業所自体もなく大人数を確保しながら2〜4時間の仕事を分配するような形で利用者に支払われる金額は月にしてみたらB型の工賃とさほど変わらないしとても就労に結び付くほどの作業量をこなす訓練にもならない。
当事者はその実態を一般就労先がカミングアウトして求職してもなかなか就労先がないことの現実に晒されて甘んじて許容するしかない。
就労に関する面接指導なるものも盛んに行われているが新卒の学生でも個性のない金太郎飴の生産現場の様に同じ座り方コメントを暗誦するそれと同様の指導でありながら紹介される仕事は低賃金で個々の特性を無視した仕事で健常者とは格差をつけられた賃金体系の中で務める環境に限られてしまう。
 
こうして書いてしまうとお先真っ暗なネガティブな環境しか見当たらないが本人がカミングアウトしなければその個性と能力を発揮することは可能だがケアはないし、自己管理力は体力も含めて自身がちゃんと身に着けて勤務する健常者と同じ仕事をこなし、時間数も休みもその会社の通常についていくことによって確保される。
この場合における支援は今の行政の中には検討もされていない。
本来この場面でのケアこそ充実されるべきであってそれによって安心して当事者が働けるようになるのなら福祉における個々の当事者の権利と環境におけるバリアフリーは格段に進み偏見や差別の対象から大きく変化と障がい雇用に対する考え方も海外の福祉先進国の歩みが理解できて近づける可能性があるのだけど…
 
福祉事業における心のバリアフリーに関する行政指導とノーマライゼーションの理念を福祉に関する法律や自治体の条例においてもっと徹底できるような教育とルール作りが動き出さないと見えてこないだろう。
これを国や政治に求めてただ指をくわえて待っていても何も変わらない。
何故ならそこには当事者の意向が取り上げられることは現状ではないに等しいからである。
この検討をする委員会なのか有識者会議なのか解らないがそこに当事者自身がせめて30%はいないと意向は伝わらないだろうが今の政治の仕組みの中でその環境は整わない。まして精神を特化すると全て薬品メーカーとベッタリな精神医学会の医者が当事者を排除して医療側の勝手な事情を背景に当事者不在の勝手な論議を繰り出して今回のように福祉の分野も病院経営に取り込もうとするのがオチ。
そういった背景の中で当事者の環境を改善しえるのは如何に自分たちの声を届けるかは当事者による運動によって権利主張することが地味に見えるが一番の近道になるのが現実的だ。
これを支援者に頼っても極一部にしか共有は起きないだろう。
現状の福祉事業に従事する支援者はその場の仕事と収入の安定から従事しているケースが圧倒的な中で意識の改革がなされなければ一番ならないのがこの支援者という肩書を持つ人たちなのだから。
ただ当事者の自助グループから発生した事業所を取り巻く環境の中の福祉関係者の協力は欠かせない。
そこから理解と協力を得ることは多くの当事者のエンパワーメントになると同時に運動における多くの法制度上、行政の課題を解決しながら目的と要求の獲得における方向性とそのノウハウを得ることができる。
 
当事者の暮らしと環境の多くは健常者よりもさらに政治に影響される。
普段知る機会も少なく更にメディアもほとんど報道されないところで厚労省の法整備は行われており、その取り決めで当事者の年金や助成、保護費などと福祉のサービスは決定されるので生きるためのその爪に火を点す様な少ないが大事な費用が突然減ったり消滅するかを起こしかねないのが全て政治の影響下にある省庁、厚労省の部会で決められている。
転ばぬ先の杖としてもそれだけは頭に入れてせめて確認しうる一つのツールである厚労省のホームページはチェックする習慣はつけたいものである。
 
自分の立たされている現状をどうとらえ、何ができるのかというアンテナを誰もが少しでも当事者運動という方向に向けることはとても今、大切な時期に来ている。
 
 
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
しばらくブログに気持ちが入る切っ掛けもなく、景色だけは出かけるたびにデジカメを持って切り取ってはいたけど言葉が浮かんでは消えたり消化不良になりながら溜まって沈殿はしている感じがしていた。自分のココロと反する環境の中に参加して観ても所詮、頭を悩ますだけで余計にココロの中には淀んでしまって消化不良で便秘気味の胸の内は只混沌として行くだけだった。
そんな自分の時間が過ぎて行く間にも政治はまた国民不在と云うよりは弱者切り捨ての方向に大きく傾きかけている。今までの選挙でもそれなりに大きな問題を孕んできたけど今度の選挙は、今まで何がしか公平性や人権の保障に置いてそれなりに箍が掛かって居た様に思うけどこの選挙の争点には格差の是正や人権擁護よりもはるかに憲法改定、実質増税、社会保障の切り捨てそして弱者に厳しい社会への方向転換が物すごくキナ臭い危うさを漂わせながら富裕層や大企業の顔色をうかがった政治が当たり前に公約になって云っている。自民党の阿部総裁の右傾向はより鮮明になって、9条の廃止に止まらず自衛隊を軍隊に変えようと積極的な姿勢を見せている。その先にはこの国に徴兵制の復活や自主的な戦時参入が見えて来ている。少数政党の乱立の中、日本維新の会、民主党、自民党の三党でほとんどの議席を占める結果になりそうな気配を感じながら、既存の少数議席を確保している政党はこの選挙でもしかしたら、消滅する事もあり得るだろう。この三党の何処に権力闘争以外の違いを見出せるのだろう。国民や弱者目線の政治等期待も出来ない。まず憲法改定として9条の廃止と25条の生存権に於いて危機感を覚えざる負えない。日本は世界でも類を見ない平和憲法を持っている国として誇りにして来た筈だった。少なくとも1990年代の初めごろまでは憲法改定(とくに9条)に於いては一部のタカ派議員と右翼以外はタブー視されて来ていたものがアメリカのアフガン、イラク侵攻によって国内では日米軍事同盟の基、有事立法の制定以来沸々と議論が次第に国会や政争の具になってきた。護憲と云う言葉が叫ばれながらもその存在がこの数年しだいに弱体化して来ている。9条の改定論者の唱え文句は自主独立、国防、強い外交などと表面的には国益を持ちだしているが裏側にはあの敗戦後も燻ぶり続け生き残ってしまった軍事産業に執着した財閥の意向が今も大きく支配していることには変わりない。その一部の利権が今まさに首をもたげてきている。更に社会保障に於いて増税と一体改革と云う名のもとで最後のセーフティネットの切り詰めもこの3党共に公言し始めている。格差の問題の根本には触れず、政治の失態で起きている格差の原因になっている雇用不安定と大企業の雇用切り捨てには政治は触れずに一番の弱者におけるQOLを取り上げ、25条における生活保護法の切り崩しに手をつけようとしている。弱者から搾り取ると云う蛮行を正論としてセーフティネットの崩壊を間違った公平と云う言葉を振りかざして推し進めようとされている事には怒りを覚える。
日本の資産の75%を国民の中の富裕層と呼ばれる25%が占めているのに派遣労働や正規雇用者の減少で起きている格差の底辺に居る職業難民が増えた現実を持って見受けられる最低所得を見直す事をしないでナショナルミニマムで保護されている生活保護の支給水準に注目してその基準を引き下げるのは邪道としか言いようがない。その生活保護の切り下げは他の福祉の切り捨てや最低賃金の基準格下げにもつながるし、年金額に於いても影響すると云うのだからやりきれなく想う。メディアを使って大胆なキャンペーンをして不正受給を取り上げて来て国民の眼を誤魔化しているが日本の生活保護受給率は先進国の中で見ても高い方じゃなく国民の1%強が受給しているに過ぎない。フランスが2,5%前後とされているのから考えても多いとは言い難い。増して不正受給者の該当は受給者の1%未満とされている事からもメディアのこの最近の取り扱いは弱い者いじめとしか言いようがない。生活保護法を誤解している人々が多すぎるし、確かな知識を持つ機会がなくイメージの中での差別に終始している現況は修正されるべきだと思う。一部の富裕層に対する増税と宗教法人や社団法人などへの課税を検討した方が税収及び歳入は圧倒的に増えるのにそこには敢えて目を向けない様にしている政治家たちに今後も政治を任して良いのだろうか。
 
この衆院選挙は正直、どこの政党にも誰にも信頼ができない未来を任せる相手が不在な選挙になって居る様に思う。
 
この1年の間に福祉の民間の事業所には呆れてしまうような経験をさせられてきたけど福祉行政はこのままだと日本は世界の常識的な福祉意識とは別の処に舵を取って遭難してしまうのではないかと思っている。福祉の事業所を運営している事業者やそのスタッフにおいて自ら疑問も感じないで利用者や当事者を差別と偏見の目で見て当り前の顔で従事しているのには呆れてしまうし、利用者には少なからず生活保護によって生命をつないでいる人がいる。つまり税金で生存権を守ってもらっているわけだが、それを偏見で考えるスタッフや事業者がそう云う事業をして暮らしているのは本末転倒だろう。事業所の運営における収入は殆んどが助成金や給付金と云う税金によって賃金を受け取っている。それだけでも充分に境遇的には変わりない、働いていると云う個々のプライドだけの違いであり所詮、小規模事業所では高額な賃金の支払いは出来ない。
つまり、利用者や当事者と同様でこの日本の格差社会では同じ貧困層に該当する訳でしかない。福祉の意識を高く持ち自らよりも利用者の立場に寄り添い同じ世界観を共有する中で真摯に努力されている方は別だが、中身も考えずに只働き先として務めている方には、却って辞めて居なくなってくれた方が運営は旨く行くだろうにと毎度思う。
この事業は必要以上にそこに関わる利用者の人生と向き合う場面が本来多い筈である。
だがほとんどの従事者はそれに目を背ける事で自分を庇い勤労としてマニュアル通りにやり過ごして飯の具としている。そう云った簡単にできるイメージで就労する事で自分に正当な理由を作ってしまっているが本来、とても大変で緊張の連続になる様な大変な仕事であって一言の言葉や態度が利用者のその近未来を左右してしまいかねない。
それに対する賃金は対価であって今ここにあげた様なアルバイト的な労働では本来は給料泥棒で国に返還しても良いんじゃないかと思う。かと云って人の人生を背負い込むのは並大抵のことじゃないから自分自身もカウンセラー資格を取ってからより悩む事が増えている。自我の中における認識だけでは対応できない事例は以前から数多く見せられてきた。そこから逃げ出してしまいたくなる自分にも充分に嫌悪してきたから今は色んな意味で過敏になってしまう自分をこれから抑制していけるのだろうかと考え込んでしまう。だけどあまりに合理的に当事者を枠にはめながらやり過ごす様な福祉事業の在り方は検証され適性を推し量った上で認可されていく様にならないと将来混乱しか生まないのではないだろうか。ただそれを指揮する行政自体が無理解の中で措置されているこの社会自体に変革が起きなければ可能性は薄いとしか思えない。
 
 
以前にも書いたけど自己啓発セミナーと云う怪しい宗教。いわゆるカルト集団に身内が関わってそこに参加だけしているけどなんとなく底が見えてきた気がする。確かに、ちょっと信じてしまう様な不思議な体験は起きるけど人を始めとする生きもの全てが神聖で神秘的なものなのだからリアルな理屈にだけでは当てはまらない感覚や事象を見受けることは自然なこととしてあるものだと思う。精神的な理由だけで身体症状として痛みや苦しみが押し寄せる様にまた自然治癒力が増すことにより不快な症状が緩和される事もあり得ると考えれる。だから、自分が良い事をしていると思い込むことにより高揚した気分の中で何度もロールプレイされた言葉は当然の様に自己暗示になり、マインドコントロールされていくだけであって、そこで何かが心理的に変化が起きるのも行動心理が変わるのも必然的な側面が強い。ごく単純な言葉のリプレイと複雑であいまいな言葉を巧妙に繰り返すことだけで「素晴らしい」「すごい」「守られている」などと大げさに言葉にする事でその自己暗示はより研ぎ澄まされていく。根本的にはそこに人が多く集まることによる集団心理をうまくコントロールされているだけなのだけど、信仰というものはそれを有難がることに意味を持たせている。偶然であろうが現実におき得た事実とその自己暗示とを結びつけて本来は何の因果関係のないものであっても信仰の材料とされて言葉の中で加工されて信じ込まされてしまう。人の中には何万人か何百人なのかは不明だがその中の一人として特別な能力に長けた人はいるんじゃないかと思うが仮にその部類の人がそのアレゴリーのシンボルとして存在したとしてもそこに集まる大勢の信者がそのシンボルの能力を共有するなんてありえない。集う人の中には自分こそその望まれて集ったものと思い込んで勇ましい顔をして何度もロールプレイされた文句を懸命に暗唱して見せるけど自然とそこはマインドコントロールされたものをなぞるだけで本人が何かを理解しているかといえば怪しいものがある。まだオウム真理教程の組織化と凶暴性もなくただ「社会や他人のためになる人」という至極曖昧な目標を唱えているだけで済んでいるから危険性はないのかもしれない。「他者愛」って言葉をやたらと使っているがその根底は言葉の使い回しによって最終的にはその教祖にあたる人物を尊敬させるための言葉の遊びのようなものが、聞こえの良い道徳や真理という言葉でカモフラージュされて何回もくり返し唱えさせることでそこでの本当の意味には自然と誰もが気がつかないようにしているのが客観的に見ていると馬鹿馬鹿しくて面白い。そもそも道徳をここでは何を指しているかさえ朗らかにしないんだから全てがいい加減だと捉えたほうが妥当なんだろう。それでも人は募り集まるこれはこの集団が秀れているんじゃなく日本の社会が混乱して個々の思考や意識が漠然としてきているせいなんじゃないかと思う。
こんなことを書いているともしかしたら身内との関係も次第にうまくいかなくなることはなんとなく予期しているがそれで身内が幸せに感じているなら今は放っておきたいし、僕自身はある程度の距離が出来ても構わないと思うようになってきている。
 
 
 
 
 

「宗教と障がい」

イメージ 1
イメージ 2
 
 つい最近この記事を書いたけど、不具合で消えてしまった。今書く事が都合が悪かったのかどうかは判らないけど、やっぱり自分の中の蟠りもあって書かないと気がすまない。
 
 夜更けに古いアメリカの曲を聴きながらコーヒー片手に考えながら書く事にした。
 
 色んな宗教があるけど、最近は身の回りに宗教がらみの話が増えてきているので以前から疑問に感じていたことや自分が当事者になってから思うようになったことも含めて話をしてみたい。
 
 僕は基本的には信仰心が薄い人間でありながら、神道に関わって一時は神官になる研修を受けていた。僕自身というよりは連れ合いの意向で氏子になって、疑問も感じながらも僕は熱心になってしまった。神社の神秘的な作用も感じ神話の世界にも感心があったので拍車がかかったんだろうと思う。そんな経験もあって宗教を否定するわけじゃなく、人が信仰にすがることはまるっきりの肯定はしないにしろ、理解もできる。
 
 僕が病気になってから、信仰が若干でも癒す作用があることにはなるんじゃないかと思う気持ちもあり、自分自身が熱心になることには抵抗を感じるが、他人や家族が熱心になることには構わないでいた。ただ、色んな話を聞かされるに連れその教えや経典の中には健常者に向けた物はあるにしてもそこに障がいを持つ当事者には配慮がないし、場合によっては信仰を怠ったものが障がいを持ち忌み嫌われるような印象を醸し出しているものも有り、明らかな偏見が存在する感じは少なからずどの宗教にもあるのかなと最近は思う。
 
 一度信仰を志した経緯から天照大神を仰ぎ奉り、朝と夜には挨拶をしながら毎日を送っている。日々の感謝と暮らせている幸せを頭の中で思いながら挨拶をする。これは自分が熱心なわけじゃなくもしかしたら強迫観念から続けているだけなのかもしれないけれど今はその団体との付き合いも絶って一人で、お参りをするようにしている。それであっても当事者が抱く社会感や世界観と健常者が抱く世界観には隔たりがあり、宗教においてその隔たりには、踏み込まないようにしているように感じてしまう。障がいを理解すること自体が古くから伝わるものを大事にする宗教にとっては過去に迫害した経緯もあるのだから認めることもありえないだろうし、理解するためにカウンセラーや心理学を取り入れるなどは宗教の教えとシンクロしたり相反したりしてしまうから無理な話なんだろう。
 
 新興宗教というものなのか、自己啓発セミナーという類に入るのか、カルトなのか良くは判らないが、ベストグループというものと接することがあって、家族が参加しているがそれについては自分は反対もしないとしながらも自分はいま資格試験が近いのでその件は冬になってから聞いても構わないと話しておいたのだけど何を急いているのか、勧誘するためにDVDを見せられて参加を促され、それでも自分は、今は何かに傾向する様なことはしたくないのでお断りさせていただいたけど家族の中では妙な空気になってしまった。
 
 僕には話を聞きながらできるだけ否定しないように気を遣い、資格試験が近いことを理由にしてお断りし続けたけど、訝しさは拭えないような内容で、道徳を過大評価した教えと「良い人生を歩むためには人の為になることをしなければ自らがよくなる事はない。」と「日本をよくするためにあなたの参加が必要です。」等と言葉だけは良く聞こえるけど表面的な言い回しで、後はヒーリングとか言っているけど心理的な作用での自己暗示による応答を超常現象のように見せられて「素晴らしいでしょう。」と云われてもって感じがした。
 話の聞こえは公明正大で全ての人にって言っているつもりでもその世界観は狭小でそこに障がいを抱え苦しむ当事者にかけるべき言葉は何もないんじゃないだろうか。僕はもう自分の将来に対して自分の欲求なんて大分失せてきていて、自分が何かで良くなりたいとも経済的に豊かになりたいという感覚もあまりなく、可能なら自分で出来る範囲での人の役に立てればと思って今、資格を取得するのもその一つのツールかなと思っている。僕が誰かの為になればと思うのはそんな大勢の役に立つなんてものじゃなく、障がいと向き合う為の少しのお手伝いができればいいと思うだけで世の中を良くするとか、日本を良くするだとかそんな大袈裟なものじゃなくそういう言葉の中に何を見ているのか疑わしく感じてしまう。「日本が良くなったらいいと思いませんか?」って聞かれ僕は「何も期待していないし、そもそも僕は、日本は嫌いです。」と答えた。僕は高度成長期以降の日本の歴史や政治にウンザリしている。そもそも、日本が歴史の中で天皇を生き神に崇め戦争における権力と国民を戦地に送るための道具にしてきた頃から、その後の戦争終結後においても侵略の爪痕に謝罪もできない国民性にもアメリカにへつらう外交にも、日本がアジアで一番の軍備を抱えていることも全てが嫌いなだけ。日本の歴史的な建造物や神話の世界や幕末から維新にかけての歴史には関心もあるし、魅力はあるけどこの国の現代における政治や中身よりも形からなんでも入っていく懐の浅い考え方や世論には飽き飽きしている。
 ちょっとズレてしまったけどそういう勧誘には僕は馴染めないし、新興宗教が持つ危うさみたいな物も感じながら、自分なりに遠遼しながら断ったのだけど、身内はどうやらはまり込んでしまったようで僕のことよりも信仰の方が大切になっているらしく、不快に捉えられてしまった様で絶縁状態になりそうな気がする。
 
 自分のことを書いてしまったので話がややこしくなったけど、宗教における長い歴史の中の教訓と福祉や精神医療における時代の変化はまだ融合する時期には来ていないように感じる。キリスト教が昔、宗教弾圧の中で魔女狩りの話が有名だけどあの時に火炙りになったのは精神に疾患を持った人間に対する排除だったとも言われているし、日本の過去においても精神を患ったものは身分が高い家では座敷牢に閉じ込めて世間の目を避けた話は有名なわけで貧しい者は山に籠って人との関わりを絶っていた時代と宗教における世界観の中の障がいを持つ当事者の存在は未だあまり変わっていないんじゃないだろうか。
 
 まだ、もっと客観的にこの問題は考えていく必要があると思うのでまたいつか記事にしてその時は違った視点から見直してみたい。
 
 
 
 
 
 
 
 

「7月 24日」 

イメージ 1
イメージ 2
 
最近思考力や言葉の形成に自ら疑問を感じるケースがよくある。
自分だけの問題が他に波及したりすると若干の戸惑いと周囲が煙たく感じてしまうこともしばしばで放っておいて欲しいと思うこともよくあるから、そんな些細なことが積み重なるとストレスを感じてバランスが崩れてしまう。環境にまだ自分が左右されることを自覚するとなんとなく自分に呆れてしまったり頼りなく思えて次のことに地団駄して留まらないようにはしなきゃと少しの焦りも感じたりする。
 
人との関係の中に訝しさや人を揶揄する気持ちが自分に起きること自体が嫌気がさして面倒くさくなってしまうけどそれで全てを放棄してしまえばいいって物じゃないだろうから自らの思考だけで受け止めることなんて所詮出来ないし相手を理解するだけの器量というか僕の懐がもう少し広く出来たなら考えながら受け止めて付き合う事もまだまだ必要なんだろうって頭の中じゃ思えるけど態度や行動が噛み合うまでは余裕がない自分を物足りなく感じている。
 
メンタルといってもその症状が性格に反映するものは複雑で本人の自覚が伴わないと頑固で偏った思考を際立たせてしまって人との交流においても支障をきたす場合が多く見受けられる。また至極単純に症状があらわれている場合もそれに本人が向き合う意志を持ち合わせないと発想がネガティブだったり、また自己主張の強い自己顕示欲が本人の集団での行動の妨げになったりと自覚が薄いからまだ支障をそれ程気付かずに過ごす場合もあるが場合によってはそれも生きづらさに繋がりうる事例も見受けられる。
 
メンタルないしは軽度の知的の障がいを抱えながら一緒に過ごす環境においてその深刻さの度合いお互いの認識がないと同じ境遇や環境の中でも差別や偏見が存在してしまってそれを注意する姿勢が事業所の職員にちゃんとないとこんな中でも格差が生じて深刻な障がいを抱える人にとってより居やすい場所でなくちゃならない場所にこれなくなるという状況を起こすと云う本末転倒に感じて何とか改善されなくてはならないと思うのだがどうも全体と個をきちんと把握して見れる人材がいないとバランスが悪くなってしまっているように見受けられる。
 
 
就労支援事業書において何かにつけて就労や作業、労働、生活訓練というのが先行しがちだが障がいと向き合いながらソーシャルケアにおいて認知行動療法やSST等の克服のためのスケジュールをもっと取り入れながらその事業所に通う人達が有意義にコミニュケーションを取りながら互いに理解し合えることが本来の目的に据えるべきだと僕は思う。その中で社会性の克服および習得が大事なんだと僕には思える。
 
支援というものが絵に書いた餅になりつつあるように感じるのは僕だけじゃないだろう。。。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

全11ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

maqui
maqui
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事