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人と話をする機会が増えてくる中で日常の中での会話と何気ないやりとりはストレスにもならないけど何かに発展するわけでもないように思いながらその場限りの話題と共通する、今で言うなら受講の中身について話すことくらい、意識して自分に負担をかけることもないけどその文授業の中身や制作に随分神経は使わさっていて毎日の帰宅のバスの中では眠りこけてしまうほどダメージは感じているかな。
それでも次第に覚えるものは覚えて形にできるようになってWebサイトは作れるようになってきている。
デザイン的には物足りない感じがしてしまうけど新たな目標もなんとなく出来てきているからこれからは本格的なデザインに授業も進むのでそれを自分がどれだけ習得して活かせれるかは少しプレッシャーに感じながらも楽しめている。
以前にも書いた集団の行事参加と同時にそれを売っけ入れる自分もできてきている。いろんなことを言葉の通りに受け止めるのではなくそこに何が一番自分と共通する意味になるのかを考えながらそこに関わっている。妻の親族がまた新たに参加するらしい。
それはそれで良いことだし、何かがきっかけになって生活に反映されるのであればそれを喜びに感じることも悪くはないんだろう。
身内の人間もそうなんだけどそこにあるランクみたいなものが存在していて、それを上げるために色んな課題が用意されていてそれをクリアして行くことで上部のランクに行くことに執着する周囲の人を見ながら萎えてしまいそうに感じながらそこで謳われている社会や他人のためになる生き方をすること、自我をなくすことそれとそこに関わっている人たちの言動と態度はどうも噛み合わない部分というか本当に求められていることに気が付いていないのではと思うことが多々ある。ただそこにこちらも自分が意識すると自分がそれに関わっていることの妥当性がなくなってしまうのでそこは意思を強く持っていないと自分の時間の無駄使いになってしまう。
家内に誘われ参加しているから当然のように彼女のいる場面で話すことも多い。そして彼女が求めることがなんとなく理解しているから手伝ってもいるのだけど抜けきらない殻みたいなものを彼女は意識できていないようでどうしても主観的な見方から抜け出せない中で上を目指そうとするのが最近、鼻につく様になって、ちょっと引いてしまう。人一倍勘がいいのだから他人には割と厳しく冷めた態度をするくせにきちんと相手と話して互いに改善するとか相手の気持ちを汲むことが本当に下手くそで喋らないことで身を守ろうとする悪い癖が自覚がない。僕は自分がどうであろうとさほどどう思われようとさほど気にならないから場の空気が和んだり、気難しいタイプの人とは言葉を増やしてできるだけ話すようにするとそれも気に入らないのか機嫌が悪くなる。
今日は面倒くさくなって家内とのメールも思いっきり素っ気のないものにして少し放っておくことにした。
彼女にとって神秘的なものはすごく魅力があるものなんだろうけど、そしてそれに近づくことで何かが変わって意識しないようにしているのだろうけど彼女は何かが良くなることを無意識で期待しているように思える。 少し呆れているというかなんとなく以前に関わっていてくじけたこととまた同じになりそうに思いながら僕は彼女を見てしまう。
僕達は今は相当仲が良くなっているけど、また彼女が暴走するのには僕は今回は冷静に見ながら割り切って自分は自分のスタンスを崩さないように気をつけることは大切だと思う。
いろんな部分で自分も気づかされたことは多いし、考え方も行動もまるっきり変わってきているし、これからもっと変わろうとしている。それはなにかの欲があるとかいうのではなくもう投げやりになるんでなくちゃんと生きて死ぬときにちゃんと死のうと思うようになったからで自分の人生の終末まで、まだやれることがあってちゃんと生きる。その為には出来るものはちゃんと形にして持ってそれを使って必死で生きたいと思うし、何らかの形で本当に当事者や他人のために生きている人のお手伝いができることは何か形にしてやっていきたいって真剣に思っている。
できればそういう対象や想いを妻と共有したいと考えているのだけど目標は共有できてもその道のプロセスはなかなか理解し合えない。
社会のことを考えるのを嫌う処が僕には理解ができないのだけど政治や世界情勢を知らないでまた、見ようとしないで他人や社会のためになることをしようとすることは結びつかないと僕には思えるけど彼女の思考の中ではそれらは省いても成立しているらしい。 不思議だ。。。
安倍政権は肯定的な支持者から見ると順調なんだろうと思う。確かに過去の首相達から見たら安定しているのはわかるが、強い者には優しく弱い者にはより厳しく格差はまた確実に広がるだろうし、消費税の増税や憲法解釈の危うさは国民に危険な未来を背負わせるように思えてならない。
巷の幸せをどれだけ確保していないと心を豊かに穏やかに過ごせるかはとても不安な環境に船出しているように思う。個人差はあってもどれだけ身の回りに幸せを感じながら周囲と共有する社会を構成しないと自分の足元をちゃんと確保できなくなる。 だから僕はこれからを頑張ってこの命と生きよう。
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独り語り
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コメント(4)
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幼児期から思春期における多動性障害(ADHD)及び学習障害(LD)についてはその診断基準は確定してICD−10によっても診断基準があるが成人期に達した対象者において同様な診断を最近見受けるがその基準に於いては曖昧であるにも関わらず他の精神病及びパーソナルの障害の可能性のある存在に判別をしにくい状況での診断はいかがなものであろうか。実際にある病院に入院していた二十の青年は顕著な統合失調症の症状を訴えていたにも関わらず最初の診断名は発達障害をされそれから間もなく統合失調症の診断が下りている。これは医師による詭弁としてしか受け取れない事例であるが最近はうつ病傾向の対象者や社会不安障害の経度の患者やパーソナリティ障害の可能性を疑われる患者にこの診断がつけられていることは疑問に感じられる。
投薬処方及び病院が病気とは見受けきれない場合に会えて疾病があることにして薬の処方や患者としての抱え込みといった側面が強いと見受けられる。また、うつ病においては抗うつ薬による問題を回避するため同様にパーソナルや統合失調症の予備軍においては向精神薬の処方が安易にできかねる状況下における苦肉の策にも見受けられそれはある意味治療拒否にも通じるのではないだろうか。
もう一つ奇妙なことは診断基準が決定していないのに幼児期と思春期の子供に混ざり成人した対象者にまで発達障害者支援法が制定されたことである。これは諸外国には見受けられずに日本独自のものとして新たに病気を精神科医が想定しそれを安易に厚生労働省が受け入れた悪しき事例として注視しなければならないと考える。
精神科医療の中で日本は格段に遅れた環境にありながらそれを保守的に守ろうとす一軍がいることはメディアや一部のブロガーにも取り上げられているがそこで不当な患者増やしが厚労省を巻き込んで進んでいることには警鐘を鳴らすべき事態であるといっていい。
曖昧な病名による診断で治療がなされずに薬漬けにアレ疾病を本来該当しない当事者に当てはめていくことは許されてはいけない。
日本のように精神科治療に投薬が先行し薬の多剤投与が現在も進められるようなことは諸外国とは逆行した治療でありカウンセリングや認知行動療法などの本来の自然治癒力を引き出すための精神療法がおざなりされている現状はさらに精神疾患の患者の治療を遅らせるものであり当時屋においてもsy会においても問題があるとしか考えられない。
当事者が精神科医師のマーケットの商品化される傾向には断固として糾弾し阻止するべきだと思う。
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情が覚めるっていう言葉があっているのかもしれない。
意見の相違、向き合うことのない関係性の継続そんなことを続けてきたのは互いに認め合うべきだろうに自分だけが悲劇のヒロインみたいな顔や言動は今更ドン引きしてしまうからやめてくれ。
「今まで何してきたんだろう?」その言葉は何がって?思わず問い返したくなる細違和感があった。
この何年かキミは君のためにだけ僕を存在づけてきていて僕が何を感じ考えているかなんてほとんど興味も持たなかったんじゃないかい。自分の関心やその中に僕を巻き込むことで己の願望を果たしてきただけ。
僕の意志に感心も寄せなかっただろうし僕が何を学んできたかなんて知りもしないまま自分の信じ込んでいるものを僕に強要してそれでそこでのランクを上げることでその本部のある場所に行く目的を果たしたに過ぎないだろう。更にそこでの願望を引き上げるために僕の存在をまだなんとかしようというのなら、それは虫が良すぎるとしか言えないよ。
僕は何度か君とちゃんと話をしたいと思ってきたけどこの数ヶ月はもう話しても仕方がないと内心あきらめと同時に君以上に別れることには異論がなくなっている。この部屋に引越しすることは一応君に話はしたけどそれにも大して君は関心もなかったし、ここに来る気もないんだろうって思っているから僕もあえて誘いもしない。
はっきり言えば僕を君がなんと思おうと僕はもう君にはげんなりしているんだ。すべてが君の思うように僕がいいなりになってくれるという妄想はやめてくれ。
もう時間とともに関係性も十分に風化してきているんだから老後を一緒に過ごすなんて気持ちも僕にもなくなっていることを君も理解して僕に要求すること自体もうやめてくれ。
利害も何もない存在ならまだ何がしかの接触があっても構わない。
けどそれは君の強いプライドが許さないだろうし、もう 潮時なんじゃない。。。
君が君の想う幸せになれることは願っているけどもうその応援は僕にはできない。
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僕らの日常の中に全てがリアルで具現的な物で構成されているとは思えない出来事は宗教の中に限らず起こりえているし、奇跡と呼びたくなる事も多々あるがそれに人は無理に律しながら「そう云う事もあるんだ。」と納得させているだろう。そう簡単な日常の中に超常現象などが起きている訳はないと全ての判別がつかなくなることに危機感までもが感じ得るからだろう。人は古代の暮らしの中で様々な知恵を身につけてきた。
そこに神を仰ぎそれは自然に対する啓蒙と感謝だったのは揺るぎない。しかし人は短時間に多くの知恵を蓄えていたとしたならそれには指導し、教える存在があったのではないだろうかとも思う。それが神であり今も人々のよりどころとなりながら存在するとした時にどう捉えていくかは様々な事が考察される。それと同様に人々は神のなす技をそれぞれに違う神が存在し、役割と云うかその神の仕業ごとに名前を付ける事で多くの神様を崇め尊んできたように思える。そこに神話ができ、物語の中でそれぞれの神のなす御力はその種類によって違う神様の存在と別々に崇めるようになっていったのであろうと思う。
神は時間を超越なさると云う。一瞬に何十万キロいやそれ以上を移動されながら人々の側に来て神業をなしそして全ての物を自在に扱うとされている。神は人の望む事に答えるとは限らない。その道しるべを示されることは人に悟られずにお示しになる。
神様は全ての人間が持つ感情や欲望や思考をお見通しでありまたその全てを持っておられたとしたなら全ての人間の作用や思考感動や感情を司り俗世に表わす事で良い事も悪い事も喜びも悲しみも苦しみも全てが神の思う処のまま人がその通りに生かされているとした時にそこにどのような場面であっても神は作用しているのではないだろうかと僕には思える。人は悔い改める時にも神は敢えてまた試練を授けられる。神に縋る事はその物の欲望や悲願を聞き入れるのではなくその物の全てを見通したうえで何かを授けるのであろうと思う。それが幸せな物なのか苦行を教え身を正す事を授けられるのかはその時と人と神が思う意思によるものである以上人にはそれを受け入れること以外ない様に僕には思える。
僕は以前、神に仕える宮司になる事を志し、その勉強をしに講義を受けそこでの試験も受けたりしていた。当時無神論者と云うより宗教に嫌悪を持つ僕がそこに至ったのは大きな冒険にも似た事だった。僕の中に根差していたイデオロギーは神道とはかけ離れた思想だった訳で氏子になるだけでも大きな摩擦があり葛藤があった。当時はそれこそ薄らとした神様の存在を許容しているだけで積極的な思考の中に神の存在はなかった。
次第に神を信じるようになると同時にその存在やそこに起きる奇跡に少しづつ気づくようになっていった。その神技を全て肯定的に捉えながらも何時しか信じている自分にとって神様の為すことは自分の都合のいい場面に置き換える様な志向が自分の中に出来上がって行ったときに神様は僕に試練とともに全く知らない人間界における環境の中に放り込まれる様な経験をさせていただくことになる。俗世間における破滅と同時に観ているようで見ていないまた見ない様に無視してきたのかもしれないメンタルの崩壊した瞬間を僕に観させられた。そしてその環境や病気との闘う事を僕は自身も症状を持ちながら知ると同時に今までの自我とは別の自我を無意識の中から浮上させてみる機会と周囲の社会から取りこぼされた環境に自らがいながらその複雑であり不合理で偏見と差別の中に於いて対策もまだ出きえていない環境の中で何を為すべきでありまた回復プロセスを自らが歩むことによっての困難さも含め考えそこに生きる事を知らしめてくれた。
当時自分が病気を他人から指摘され病院に入院することになった時僕の前から去ろうとした妻と話した時に僕は「何でこんな事になったんだろう。」と妻に聞いたときに妻は「神様があなたにはそういう場面を観る必要があったからそうされたんだよ。」と僕に告げた。普段そんな事を云う人でない妻の言葉を介して神様が僕に告げられたと思い僕はその中で生きることそして自らの残りの人生の中にどんな形にしろ当事者として生き得る価値のある環境の中で少しでも何かができればそれでいいと思う様になった。
神様の存在が恐れ多い物であることはそれ以来変わりなく僕には思えているがまた身近にも感じながら暮らす様になった。神様は前にも書いたがとてつもなく色んな事を抱え持ちながら全てを超越した存在であると同時に時間をも制覇していると思う処がある。神様の時間は人の時間とはかけ離れて早いとしたなら四次元に存在されながら地理と時間など何の苦にもならず世界のいたるところで神様は神様に通じる命(魂)に手をおかけになってその道標や個々の道をその人に説き続けているのじゃないだろうかとそして、縋る者の本質を目ざとく一瞬に悟られると同時に救いの手を差し伸べ、また苦難の道を授けられるのだと私には思える。
神様はあなたの生きざまの側に寄り添いながら肉体の消滅までの手を添えておられる。
そしてその瞬間まで人はその命と向き合い魂が肉体から離れ間際まで人としての意味を求められているんだろう。
人はこの世の命を終わる瞬間こそその真価を問われそこに行きつく最大の試練の中にこそ真理が見出される。
信仰は成功を授かることではなくその人における精神、肉体その他の全ての浄化を授かる事なのだと今の未熟な僕には思える。
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すっかり秋めいてきた空気の中で何となく紅葉はゆっくりで時間の過ぎるのとうまく付き合い切れていない止まっているような錯覚を感じながら少しづついらないものを整理している毎日なのかもしれない。
適当に周りの動きに流れを合わせてみてもの存在をそこに感じることはなく違うものを追い求めている自分がいることにはうっすらと見えて来てしまって、しらけている感覚に自分が浸って居るのはそこに自分自身の居場所じゃない物を繰り返し通過し、今は何の感慨もない事に気が付いてしまったからなんだろうと思う。必要としていない環境や人物との出会いは明日の自分にはうっとおしくても想いも何もなくてゴミ箱に捨てる紙クズの様にしか僕には映って居ないんだなって過ぎる時間の中で消滅していく。
これから先の事にも何があるって期待よりは通過する時間の中で表れては消えて行く物を客観的に眺めながら特別な感情移入もする事がなく只季節の巡りに反応しながらどんな風に過ごすかしか考えていない。自分の中の昂ぶる感情は特定の相手にしか起きていない事も以前よりリアルに見えてくるようになってそれを最優先にすることが、今は当たり前に思えているし、くすぶっていた疑問も覚えなくなっている。
最近、がっかりした事はフジテレビのニュースJapanのキャスターが変わってしまった事くらい、秋本ゆうりって云う名前だったかと思うけど彼女のニュースの進行はさりげなくポイントがちゃんとしていて好きだったけどもう見れないのは残念。つまらないニュースが何かと増えている中で内容よりキャスターがどうニュースを扱うかの方が関心を持ってしまっているからニュース✘と見比べながら情報を得ている時間は割と充実していたけどフジテレビはドラマ以外は詰らなくなってしまったかな。
尖閣諸島についてこの前のニュースで面白い事を話していた評論家がいたけど、日本人は日米安保条約に大きな依存を感じているようだが中国と日本が摩擦を起こした際にはアメリカは米中関係の方を重視するという意見だった。日本の外交が指導者がコロコロ変わっている中で中途半端で信用を欠いたものになっていく中で急成長を遂げている中国の市場の方がアメリカに置いてももっとも重要視されて来ている。尖閣の問題にアメリカは口をはさむ気はないだろうと云っているのは冷静で正しい判断に思えた。
尖閣諸島における自然や絶滅危惧種の保存以外にはあまり関心はない。資源があったとしてもそれを開発することは環境的には壊していくことになるだろう。中国や台湾が主権を追求した先にあるものは天然鉱物と大量の石油に手をつけることになるのであるなら譲りたくない気持ちもあるけど、いっそのこと自然保護地域に指定して領有権のない海域に指定して国連に預けてしまった方がトラブルの回避になる様に自分には思える。沖縄の漁師にとって死活的な領域として存在しているようにも思えないなら無駄に固着して国際関係の悪化を招く必要があるのだろうかと思うし、中国内でのあまり意味を持たない領土固執も所詮は反日にエネルギーを向ける事で国内の事情に対する不満や不信感を目先を変えて爆発させている様にも思える。明治維新以降に日本の中の殆んど大きな戦争がなく国が変わった事で国内に充満したエネルギーを征韓論によって払拭しようとした西郷隆盛の周囲の状況と変わらないエネルギーが働いているように思える。
領土問題に関して外交的な親和が伴わないのであればそこに危険な争いが起きる様なものであれば固執する意味がないと僕には思える。平和や自然を保護する内容でないのなら領海に於ける漁業の安全が確保できる条件だけ確保して必要な土地には思えない。
自分が生きている間には日本が戦争に加担していく様な国になる事は見たくないし、自分の子や孫がその後の世代にも戦争と云う愚かな行為に関わるような社会にはなってほしくないと最近は強く想うようになってきた。この国は太平洋戦争での間違いを反省できていないんじゃないだろうかと思う様な論調が更に増えて来ている様な気がする。自民党の新総裁にまた阿部が返り咲いた事で急速に憲法を改定しようとする動きが起きるのに危惧を感じる。民主党での経済における失政は次の選挙で政権を剥奪されてしまうのは仕方がないだろうけどより保守的な思想に傾いた自民党が政権を担うのは今後のこの国に住む人々にとって厳しい現実だけが増える様な気がしてならない。
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