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法政大学図書館出版局・横山源之助全集 第7巻 殖民(一)『海外活動の日本人』第二 英領加奈陀 二四 相川 之賀氏の閲歴 (少年時代の相川氏/桑港を去って沙都に赴く/アラスカの猟虎狩猟計画/スキナ河 口の遡航/日本人との邂逅/土人を説いて事業を共にす) 五 相川之賀氏の前途
〜 相川之英氏の祖父の相川之賀氏が明治時代の青年期に渡カナダの記述が載っている。
和風上等 のブログへ (〔旧姓鎌田〕寺島造酒之助の事について)
補足
◇鎌田四郎兵衛
伊達郡鎌田村に居住し、成実に仕える。子孫は伊達吉村の代本藩に鍼医として召出される。
仙台藩虎の間 鎌田家先祖四郎兵衛、伊達郡鎌田を知行。晴宗代永禄年中旗頭を務め、杉目城代。嫡子源蔵を継ぎ四郎兵衛と改称、輝宗代備前と改称。
http://shigezane.fc2web.com/majime/kasin/kasin.html 成美三昧のブログより抜粋する。
◇鎌田城の歴史
鎌田城は、弘長2年(1262)に大和国から入部した宇野中務小輔源信治によって築かれた。
信治は鎌田荘を拝領して後に鎌田氏を称し、その所領は300貫とも5,000貫ともいわれる。 後の伊達晴宗の時代には、鎌田四郎兵衛某が鎌田郷に拠って杉目城代を兼ねたとされ、慶長年間(1596〜1615)には鎌田和泉守源親行・鎌田兵部尉源親名の名前が見え、鎌田氏は累代鎌田城を居城にしていたと思われる。 現在は文永年間(1264〜75)に宇野信治が創建した曹洞宗鎌秀院が主郭跡に存在する。 東北城館魂 のブログより抜粋する。
鎌田の鎌秀院が鎌田城の跡である。
鎌田城は、阿武隈川の支流である耳取川の東岸に築かれている。この川の流れを天然の堀として取り込み、また、すぐ東の国道4号線(奥州街道)を押さえる位置にある。 鎌秀院の西側と南側には、郭内からでも3mほどの高さのある重厚な土塁が残されている。おそらくこの土塁が四周していたのだと思われるが、東側は駐車場の造成や宅地化によって、北側は道路の造成によって、いずれも失われてしまったものであろう。 西側の土塁も、その一部は墓地の造成によって崩されてしまっている。 現状の遺構から推察して、館の規模は100m四方ほどであったと想像される。小規模ながら、堅固な土塁と堀によって 防御された平城であった。
鎌田城主の鎌田氏の祖は宇野信治だという。信治は大和の豪族であったが、鎌倉時代の弘長2年(1262)、この地に所領を得て、移り住んで来たのだという。以後は蒲田氏を称して、この地の領主となった。 鎌田氏は後に伊達氏に仕えるようになる。『伊達世臣家譜』によると、鎌田四郎兵衛が、伊達晴宗の時代に、鎌田郷におり、杉目城(福島城)の城代に任じられていたという。 余湖くんのお城のぺ−ジより抜粋する。
弘長二年(1262)大和国より移封された宇野信次(信治)が築城し、以後鎌田を称して代々居城した。 鎌田氏は戦国時代には伊達氏の家臣となり、伊達氏14代稙宗と嫡男晴宗が争った天文の乱では、嫡流と考えられている鎌田四郎兵衛某と出羽国長井庄にあった庶流の鎌田与総衛門が晴宗に与して加恩され、名取郡にあった鎌田助六は稙宗に
与して失脚したという。
またこの頃四郎兵衛は杉目城代を兼ねたともされている。鎌田氏は慶長年間(1596-1615)に和泉守源親行、兵部尉源名の名が伝わっているが、天正十八年(1590)四郎兵衛の子息備前某が伊達政宗の岩出山城移住に従って鎌田郷を去っており、鎌田城は以後廃城になったと考えられている。
現在城跡の中央に建てられている鎌秀院は、文永年間(1264-75)に宇野信治が創建したとされており、建治元年(1275)に城中で亡くなった信次の法名(鎌秀院殿源性信大居士)が寺名となっている。後世、本丸跡と伝えられているこの地に再建された。 現在も西、南、北側に土塁が残っており、耳取川が自然の外堀となっています。規模は東西63間、南北77間あったとされています。 さくらとおしろより抜粋する。
福島市の城館より抜粋する。
◇北日本評論 / 北日本評論社
(キタニホン ヒョウロン)
北海道大学・北方関係資料目録より抜粋する。
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2011年03月14日
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