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待降節の第一主日である12月1日に、私の所属する教会では、黙想会がありました。
そのとき、午後からは、「赦しの秘蹟」(告解)があるスケジュールでした。
しかし、この数ヶ月、とてもいい加減な気持ちでいる私は、
午前中で神父さまのお話が終われば帰りたいと思っていました。
しばらく告解していないと、
「告解なんかしなくてもどうってことない」とか、
「必要ない」ように思えてくるのです。
別に、わざわざ混み合うこの日に告解しなくったって、
他の日に神父さまにお時間をとってもらえばすむことだし、
やめようかとも思いました。
だけど、このチャンスを逃したら、また日にちはどんどんたつかもしれないと思い直し、二日くらい前から赦しの秘跡に与る心の準備をはじめました。。
あくまでも、「一応ね、気持ちがのらなかったら帰ればいいんだから」という気持ちでもありました。
しかし、神さま、わたしを引き止めてくださってありがとうございます。
それでも当日、順番を待ちながら、まだ帰ろうかという思いと戦いました。
思いとどまることができて感謝です!
告解の順番は一番最後くらいでいいつもりで、ゆっくりと時間をとって当日も告解のための準備をしました。
そういう気持ちに神さまがしてくださったことにも感謝!!
赦しの秘蹟に預かって、心の大洗濯ができたと思います。
でも、今回、わかったことは、
私は、告解を長いことしなかったら、いつの間にか
罪をいっぱい背負っていても、平気になってしまうことです。
平気になると、悪循環の始まりです。
このことは、よく覚えていて気を付けないといけないと思いました。
毎年、ミオ・バラダ氏による信仰のセミナーに参加しています。
私がそのセミナーでいただく大きな恵みの一つは、赦しの秘蹟です。
ミオ氏の信仰セミナーで、ミオ氏の講話を聞くと、今まで自覚できてなかった罪に気づかされます。自分自身で罪だと思っていなかったことが実は、信仰を脅かすどころか、生活の歯車まで狂ってくる罪だったことに過去4回のセミナーで毎回気づかされました。それがたとえ小さな罪であったとしてもです。
たぶん、神さまの目には、私たちの考える「小さい」「大きい」の区別は違うのかもしれません。
ミオ氏のセミナーでは、必ず司祭が協力してくださっているので、
セミナー中に赦しの秘蹟に与ることができるのです。
告解するをたびに、古い衣を脱ぐことができたような喜びをいただくのですが、
そんな喜びを知っているはずなのに、
少し、間があくと、簡単に「そんなことしなくても大丈夫」というような思いに支配されるのです。これは、神さまから離れさせようとする誘惑だろうと思います。
(新しいお知らせがあります)
赦しの秘蹟についての詳しい説明は、
女子パウロ会のサイト
にあります。
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証
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コメント(4)
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洗礼を受ける前か後か、それは思い出せないのですが、20年近く前のことです。
ある日わたしは自転車で買い物に出かけました。
細い路地を自転車で通っていました。
ほとんど車の来ないところで、安心して自転車に乗っていました。
小さな交差点にさしかかったとき、
わたしの気持ちはそのままそこを通りすぎるつもりだったのに、
自転車の意思でブレーキがかかったようになり、交差点のギリギリ手前で止まりました。
その瞬間、すごい勢いの車がその小さな交差点を通り過ぎていきました。
あのまま進んでいたら、確実に事故になっていました。
そのとき、わたしは誰かが守ってくれたと思いました。
守護の天使だったのでしょうか?
ありがとうございました。
主イエズス、あなたに信頼し、希望します。
あなたを愛します。
わたしは昔も今もこれからもあなたに属する者です。
感謝します。
賛美します。
聖母マリア、わたしのためにお祈りください。
自分の書いたメモを見つけ、自分で励まされたので、
上の内容とは、話が変わるのですけど、ここに記録しておきます。
何年か前、聖パウロ会の赤波江神父さまの司式されるミサに与ったとき、
お説教でこういうお話がありました。
「イエスの十字架像というのは、今、拷問をされて、苦しまれている最中ではない。
すべてを神に委ね、すべて成し遂げられたという喜びの十字架、救いのシンボルです。 私についてきたいものは、自分の十字架を背負いなさいと言われますが、それは、死刑の道具としての十字架を背負いなさいという意味ではない。すべてを成し遂げられた救いのシンボルとしての、十字架である」 今、神父さまの言葉を再び思いだし、心に留めたいと思います。
すべてを成し遂げられた救いのシンボルの十字架、
愛、希望、信仰である喜びの十字架を胸に抱きます。
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父が亡くなる直前、1週間ほどそばにいることができました。
そんなに早く死んでしまうと思っていなかったのですが、
たまたま主人が長期に休みだったので、わたしは家をあけることができたのです。
(我が家は、家庭の事情で、主人か私かが必ず家にいるようにしています)
その1週間、私は、ただひたすら、父のことを主イエズスにたのみ、
マリアさまに父のそばにいていただけるようにお願いしていました。
わたしの母であるマリアさまに父を託していました。
何度も何度も父のためにロザリオを捧げていました。
そして、父は倒れてからひと月半後、介護について話合いをすすめているなか、
あっけなく逝ってしまいました。
葬儀の日、
母方の従妹が父のためにバイオリンを弾きたいと言ってくれました。
父にとってはかわいい義理の姪で、時々、彼女が出る演奏会を見に行っていました。
そういえば、彼女は、弟の結婚式でも、母の葬儀でも、いつも弾いてくれていました。
忙しい彼女は、葬儀が始まってからようやくかけつけてくれたので、
打ち合わせをする時間がなく、わたしは彼女が何を弾いてくれるのか知りませんでした。
葬儀の終わりごろ、彼女が弾いてくれた1曲目は、シューベルトのアヴェマリアでした。
彼女は、クリスチャンではありませんし、わたしがマリアさまが大好きなことも知りません。
もしかしたら、葬儀でよく弾かれる曲なのでしょうか?わかりません。
とにかく、父の葬儀のために一番ふさわしい曲として彼女が選んでくれた曲がアヴェマリアでした。
しかし、このとき、わたしにとっては、マリアさまからの大きな返事でした。
このアヴェマリアは、神さまからの祈りの応えでした。
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もう顔を見なくなって20年もたつね。
私はあなたと同世代になったのに、 いまだに、あなたの手のかかる子どものままの気持ちで、
私はあなたのことを考える。
今年はあなたが旅立った日と聖霊降臨が同じ日。
あなたが旅立って、11日目の聖霊降臨は、
私がはじめてイエズスを信じて教会へ行った日。
其の日の説教はどんなだったか覚えていなかったけど、
私は聖堂のすみで、ずっと泣いていた。
あなたがいなくて泣いていたのじゃなくて、
イエズスがいたのは、本当だったと確信したから。
私が会った人はまぼろしではなかったと知ったから。
あなたは、聖霊降臨なんて知らないけれど、
あなたが私のそばにいたままだったら、
私は聖霊を必要とはしなかっただろうと思う。
イエズスを私の大切な方だとは思わなかっただろうと思う。
あなたは、本当に私のことをどれほど心配して逝ったのでしょう。
あなたが自分自身のかわりにバトンタッチした相手は、
とんでもなく素晴らしい方だったよ。
ありがとう。
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我が家のお庭に咲いたスズラン
今日のごミサの司式をしてくださったのは、昨年12月に司祭に叙階されたばかりの神父さまでした。
お説教で、神父さまは、「神は愛そのものの御方です。皆さんは、愛そのものの方とつながっている愛の実りです。皆さんは、存在そのものが神の貴重な愛です。」と、お話してくださいました。この言葉を聞いたとたん、胸がいっぱいになって、涙がポロポロあふれてきました。このところ、私は、ごミサでは、とても涙もろいんです。
それから、「みなさんのまわりに、神様の愛がみえますか?見えたら、恥ずかしがらず、まごまごせずに、表現してください。皆様を見て、まわりの人がイエスキリストの愛を知るはずです。」と、はなされました。
そう聞いて、私は昨晩の自分の愛のない行動を思い出しました!
(^^;; ああ、告解したくなった・・・・。
ミサが終わっても胸がいっぱいで、しばらく人と話したくない気分でした・・・し、喋られなくて、話しかけられても、言葉が出なくて、ニコニコしながら、うなずくのが精一杯な感じでした。
最後に神父さまが言われたことも印象深かったです。
「たいていのものは、分けると減りますが、愛は分けると増えるのです。」
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、
早すぎます

