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キリスト教概論12 「出エジプト記」
出エジプト記にはいります。
これは、「十戒」という映画でも有名な箇所ですので、物語としても面白いので、
読んでみてください。時間のある方は、3時間もありますが、「十戒」の映画をご覧になるのをお勧めします^^
1章16〜「男児殺害の命令」
2章 「モーセの生い立ち」
モーセの召命のところを抜粋してみたいと思います 3章1節から
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。 女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、 主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。 「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。 「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
『召命』calling…全ての人は、何かに呼ばれています。Mission…使命があります
モーセも神様に呼ばれ、使命が与えられました。
小さな人間、取るに足りない存在が、神から与えられた使命に生きるようになるのです。誰にでも必ず神から与えられた使命がある。
全ての人は、何かの使命に呼ばれています。これを「固有の使命」と言います
幼きイエスの聖テレーズは「ma vocation est l’amour(私の使命、それは愛です)」と言いました。そして、徹底的な愛に生きました。
私たちの使命 召命とはなんでしょうか?
11節「わたしは何者でしょう?」→ 私が誰であるかを決定する力はどこから来るのか?神による呼び出し 『固有の召命』
表現の仕方は変わる、しかし召命は変わらない
モーセに現れた神
6節「私はあなたの父の神である。アブラハムの神。イサクの神、ヤコブの神である。」
イスラエルの民族が代々信仰してきた神。
14節「わたしはある」 エヒエ・アシェル・エヒエ
この言葉の意味を考えてみましょう
① I am who am 「わたしはあるというものだ」
→ 存在そのもの 全ての存在の基盤 存在者 =創造主
② I am who I am 「わたしはわたしであるものだ」
→ わたしはわたしであって、他の何者でもない
③ I will be there ( with you ) 「私はあなた共にずっといるのである」
→ 12節の「私は必ずあなたと共にいる」の言い換えともとれる。つまり「共にある神」である。いつでもあなたの側にいる。
いつもいつも共にいて下さる神(インマヌエル「神我らと共に」
イザヤ7章14節 )
神さまは、いつもともにいてくださる神さまであり、すべてのものの創造主です。
いつもともにいてくださる神さまについて、よく表されている詩があるので紹介したいと思います。
あしあと
ある夜、彼は夢を見た。それは主とともに海岸を歩いている夢だった。
その時彼の人生が走馬灯のように空を横切った。
その場面場面で彼は砂浜に二組の足跡があることに気がついた。ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものであった。
そして最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返って見た。すると彼が歩んできた今までの道にはたったひとつしか足跡がなかったことに気がついた。また、彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれていた時も同様であった。
彼はこのことでひどく悩み、主に尋ねた。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私には理解できません。」
主は答えられた。「私の尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは私があなたを背負って歩いていたからです。」
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キリスト教概論
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Maria さん、コメントありがとうございます^^
「あしあと」の詩は、自分自身の追体験になりますね
神さまから頂いた使命を大切にして、神様と共に歩んでいきたいです
2011/5/5(木) 午後 10:21 [ アベマリア ]
こんばんわ
目を通して、最後の私の尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは私があなたを背負って歩いていたからです。ってところが感動ですね
そう考えると試練も耐えられるのでしょうね
あっ質問が
テロにはどう向き合えばいいのでしょうか?
やはり試練のひとつと考えたがいいのでしょうか?テロ首謀者はどう裁いたらいいのでしょうか?
難しい質問してごめんなさい。
命って人間が裁いていいものでしょうか?
テロやイジメも試練と思って耐えていくべきですよね?
人生って波乱万丈ですね がんばります ぽちっ!
2011/5/6(金) 午前 1:21 [ ニコ ]
3位から 1位復活してね
応援してま〜す ファイト(*^。^*)
2011/5/6(金) 午前 1:22 [ ニコ ]
ニコさん、いつも応援ありがとうございます。
テロの問題は、難しいですね。テロを許してはいけないと思います。でも、報復というのも根本的な解決にならないのですよね。憎しみは憎しみを生むだけなので・・・
旧約聖書の中に、「復讐は神にゆだねよ」という言葉があります。つまり、自分勝手に復讐するのではなく、必ず正しくさばかれる神、神は正義であることに信頼を置いて、その神が行われる正義の裁きにゆだねるのが一番なんだと思います。私たちの思いとは、違う形で、示されるかもしれないけれど、永遠のまなざしから見ると、神様の業に信頼する心って大切かなって思いました。
辛いとき、苦しみが苦しみで終わるのではなく、十字架の奉献によって、復活へと続くものであることを信じたいですね^^
2011/5/6(金) 午後 4:44 [ アベマリア ]
コットンウールさん、いつもありがとうございます^^
無限の愛を受けているから、その無限の愛にこたえていきたいですね。テレーズのように、神様を「パパ」とお慕いして、愛してくださる神さまに全幅の信頼を持ちたいです。そして、その愛を分かち合っていける人になりたいですね^^
2011/5/6(金) 午後 4:46 [ アベマリア ]