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C年 待降節第2主日
ルカによる福音書 3章1〜6節
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
紫のろうそくも、2本目になりました。今回の福音は、カタカナが多く、読みにくいですが、きっと、ヨハネについてしっかりとした説明をしたかったのでしょう。この時こそ、預言された出来事であることと伝えたかったのだと思います。
典礼聖歌にこの歌がよく歌われます。ああ、待降節(アドベント)だなあと思う瞬間です。クリスマスは、日本でもメジャーなイベントとなっています。「教会でもクリスマスはお祝いしますか?」という笑えない質問もよくされます^^
だからこそ、私たちは、ヨハネのように、「荒れ野で叫ぶ声」とならないといけないのかもしれません。もう亡くなられましたが、ある神父様が、商店街で、お店の人にイエス様の話をしていました。「神父様、宣教ですか?」と聞くと、神父様は「すべての人に、神様の言葉を聞く権利があります。」と答えられました。この言葉は私の心に、ズドンと響きました。
決して押しつけではない、しかし、その人の権利を取り上げてはならない。私たちキリスト者は、聞く心の準備のある人に、神様の喜びを伝えるのを遠慮しているのだと思います。宗教アレルギーの日本ですから、福音宣教を堂々とするのは、はずかしいかったり、遠慮があったりします。
しかし、このクリスマスのときは、だれか一人でも、教会に誘っていきたいものです。神様の喜びを一緒に祝う、本当のクリスマスへの招待をできればいいなと思いました^^
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