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B年 主の昇天
マルコによる福音 (マルコ16.15-20)
(そのとき、イエスは12人の弟子たちに現れて)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
主の昇天の祭日おめでとうございます。
主の昇天は、私たちのもとに来てくださり、受肉してくださったイエスさまが、死に勝利し、永遠の愛へと復活されたその喜びへと、私たちを導いて下さるのでしょう。
受肉されたことで、イエスさまは、被造物となられました。そして、被造物の姿を保ったまま、天に昇られました。これは、私たち被造物も、イエスさまを通して、天に導かれるということです。
本当に、どれほどの恵みでしょう。この頂いた恵み、喜びを私たちは、自分自身だけのものとしていてはいけないと思うのです。うれしいことがあれば、私たちはすぐに、他の人に話します。話さずにはいられないのです。同じように、この喜びを分かち合いたちと思います。イエスさまは、私たちのこの喜びを、いつも共にいて、しるしを持って示してくださいます。一瞬見た目には、苦しいこと、悲しいことがこの世にはあります。それでも、苦しみ、悲しみで終わるものではない、愛こそ永遠の勝利であるということをいつも心に持っていたいと思います。
ある御受難会のアメリカ人の神父様が、道を歩く人みんなに、福音を話していました。それを見ていた私たちは、「神父様は、宣教ですか?」とニコニコしながら聞くと、神父様はこう答えられました。「全ての人に、神様の言葉を聞く権利があります」と。これは私の心に大きな衝撃でした。神様の言葉を聞く権利がある。その権利をわたしはもしかしたら、恥ずかしさや、わずらわしさのために、奪ってきたかもしれない。そう思うと、自分自身が恥ずかしくなりました。それ以来、福音を話す勇気はまだないですが、出会った人に、マザーテレサのまねをして、不思議のメダイをプレゼントすることにしました。マリア様は、日本人にも、愛されていますので、喜ばれることが多いです。
私にできることは小さなことですが、「全世界に行ってすべての者に福音を述べ伝えなさい。」という言葉を大切にしたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
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「お母ちゃん、また残したの。食べてあげよ
僕の好きなもの みんな嫌いやな ちっと食べたらええのに」
河野進
聖母マリア様と世界中のお母さんのために・・・
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B年 復活節第6主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ15.9-17)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
「私の愛にとどまりなさい」私の大好きなみ言葉です。イエスさまの愛から、ついつい離れてしまいそうになるたびに、私の愛にとどまりなさいと、私たちを愛へと引きもどしてくださいます。そして、私たちは愛のうちに生きることができます。しかもイエスさまさの愛は、御父が御子を愛されるほどの愛です。どれほどの愛か想像もつきません。三位一体の愛のあふれる愛のうちに、満たされる愛です。その愛に満たされて愛の交わりに招かれる私たちは、何と幸せなことでしょう。
「互いに愛し合うこと」これがイエスさまの掟です。そして、強調するかのように、これが私の命令とまでおっしゃいます。「互いに愛し合うこと」の難しさを私たちは日々の生活の中で、感じています。しかし、愛は環状ではありません。愛は意思です。感情では好き嫌いがあったとしても、愛は意思を持って生きるものです。
幼いイエズスの聖テレジアは、自叙伝の中に子のように書いていました。ある姉妹は、行いも態度も、何もかも私にとって好きになれないことをするのが上手な姉妹がいました。しかし、その姉妹も神様の大切な被造物であり、私の気づかないところに素晴らしいものがあると信じていました。だから、私は自分の感情に負けたくありませんでした。それで私は、自分の感情のままに行動するのではなく、行いにおいては、最も愛する姉妹にするように、関わりました。すると、その姉妹はある日言いました「スールテレーズ。私の何があなたをそんなに喜ばせるのでしょう。あなたは私に会うととてもうれしそうにしてくださいます。」と言ったそうです。それを聞いたテレーズは「あなたのことが大切なのです」と答えたそうです。(霊において、といのは省略したのはもちろんでございます)というお茶目な点もみられますが、彼女の生き方を通して、愛するとは何かを、身近なことから、教えていただいた気がします。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
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苦しみの中にある人のために
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B年 復活節第5主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ15.1-8)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ぶどうの木というのものは、木そのものは、薪にするくらいにしか、役に立たないそうです。まさに、実を結ばなければ、森を荒らすための木だそうです。イエスさまは、私たちに、御自身につながっていなさいと言われます。枝が木につながっていなければ、もちろん実を結ぶどころか、枯れてしまうだけです。命へとつながっているようにと、イエスさまは言ってくださいます。
イエスさまにつながっているぶどうの枝は、豊かに実を結びます。そして、イスラエルの食卓には欠かせない、ブドウ酒を生み出すのです。ブドウ酒となることによって、わたしたちは、ますます、豊かなものとなり、他者を生かす存在となります。
全ては、イエスさまとつながっていることです。イエスさまの愛に満たされて、その愛はあふれだし、他の人々へをも満たしていくのです。そして、イエスさまは、御自身で私たち枝を、つなげてくださることでしょう。
東日本大震災で
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苦しみの中にある人のために
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「教育ママが困った存在であるのは、御自分が育っている薔薇の木が、梅の木をつけるようにと願ったり、お金を賭けさえすれば、またはやかましくいって勉強させさえすれば、それが可能であるかのように錯覚するところにあります」
シスター渡辺和子
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