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C年 待降節第1主日
ルカによる福音書
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
待降節がはじまりました。教会の典礼では、この待降節から新しい年になります。というわけで、あけましておめでとうございます?!
C年ですので、ルカ福音が読まれます
待降節(アドベント)は「到来」という意味です。救い主が到来する喜びです。この救い主の到来に向けて、私たちの心も、ふさわしいものに準備したいと思います。「愛と喜びに包まれた待望の時」として、(典礼歴年と典礼歴に関する一般原則)に書かれています。愛と喜びに包まれたこの時を大切にしていきたいものです。
神様の到来。アドベントはまさに到来です。心の準備ができ、正義を求める者には、待ち焦がれたときでしょう。逆に、神なんていない、神なんて来ないと、高をくくって、不正ばかりをしている人にとっては、恐ろしい時かもしれません。すべてが明らかにされるからです。
すべてが明らかにされる。このことは、結構、ドキドキすることです。誰でも、心の奥に、一つ二つ、明らかにされては困ることがあると思います。私自身、死ぬときは、あれを片付けて、これは処分して、告解して・・・と慌てることでしょう。何時その時が来ても、いいと思ったとしても、「じゃあ、今日でどうでしょう?」と言われたら。やっぱり困るのです。
さて、今回の福音を聞きながら、もうすぐ私たちの心に、生まれてくださるイエス様に、ふさわしい、心の宿となるように、目覚めて用意していたいと思います。
風邪をこじらせるだけこじらせて、UPできなかったので、まとめてUPしました。
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B年 王であるキリスト
ヨハネによる福音 (ヨハネ18.33b-37)
(その時、ピラトはイエスに、)「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
いよいよ、典礼的には、今週が最後のときとなりました。このしばらくの間、終末にむけての典礼が読まれてきました。イエスさまと、ピラトの受け答えは、平行線です。ピラトは、ユダヤ人の王であることを認めさせよとしています。そうすることで、皇帝に対抗することを認めさせようとしているのでしょうか?
当時のユダヤ人にとっての、死刑の方法は、十字架ではなく、石打ちの刑でした。しかし、このときには、ローマへの反逆罪としての、十字架を民衆は求めます。宗教上の問題を、政治的にすり替えることで、イエスさまを十字架につけようとしているのでしょう。
「真理について、証しをするため、そのためにこの世に来た。真理に属する人はみな、私の声を聞く」というイエスさまの言葉を味わっていくと、真理に生きる人がいかに少なく、難しかったかを知ることができます。十字架は、「愛と正義と真理」を生きた結果です。だから、愛における勝利のしるしでもあるのです。今、神の子が殺されるという恐ろしい出来事が起ころうとしています。しかし、神様は、この徹底的な悪を通して、人類の救いという究極の善を引き出されました。神様の業は、神秘です。いつも私たちに全てが分かるわけではありません。しかし、不義に立ち向かわけなければならない時、真正面から、イエスさまの愛の真理について、証しする心でいたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
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B年 年間第33主日
マルコによる福音 (マルコ13.24-32)
(その時、イエスは弟子たちに言われた。)「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」
最後の日というのは、本当にいつかわかりません。今の時代のように、不安定な時代なら、なおさらです。当時の人々にとっても、もっと身近に感じられたことでしょう。しかし、その日、その時は、御父だけが御存じだという言葉を胸に、いたずらに心を騒がせてはいけないと思います。いつその時が来てもいいように、常に準備していたいものです。
この終末のときは、世界の終末であると同時に、自分自身の「死」という出来事も表していると思います。「私はいつ死んでもいい」と言える人も少ないと思いますが、もし言えたとしても、「じゃあ、今」と言われると困るかもしれません。私などは、「いつ呼んでくださってもいいですが、準備の期間をください。」といいそうです。片づけなければならないものもあるし、お別れもしたいし、ゆるしの秘跡も授かって・・・と、結局、「御父の時」ではなく、「自分の時」を望んでしまっています。
いつでもと言いながら、本当は、いつでもでは困ってしまう生き方です。
聖ドミニコ・サビオは、「一日で死ぬとしたら何をしますか?」という問いかけに、「今していることをそのままします」と答えたそうです。今している生き方が、御父とまっすぐに結びつくような生き方をしたいものです。
昔の修道院のように「メメントモリ(汝の死を覚えよ)」という生き方ができるように、一日一日を大切に過ごしたいと思います。(といいつつ、今日も何となく過ごしてしまう自分がいます^^)回心は、難しいです;;
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B年 年間第32主日
マルコによる福音 (マルコ12.38-44)
(その時、)「イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
貧しいやもめの入れたものは、本当に取るに足りないものです。ですが、彼女の持っているすべてでした。この全てということは、本当に難しいことです。
わたしたちは、イエス様に「全てを委ねます。」「全てをお捧げします」ということがあります。しかし、心のどこかで、「でも、この部分は、わたしのものです」と残しておく場合があります。私などは、お捧げしますといいながら、自分の不都合にならない範囲でとついつい考えてしまいます。
また、一旦、お捧げしておきながら、「イエス様、さっきお渡ししたもの、ちょっと返してください」とやってしまうこともしばしばです。
私の好きな本の中に、あるシスターが、母のような叔母さんの臨終が間近に迫ったとき、仕事を辞めて、帰ろうとされた時の話があります。彼女に、イエス様は、「あなたがこの仕事をしてくれることを私は望んでいます。どうぞ留まってください」と願います。彼女は、散々悩んだ末、残ることにしました。一か月後大急ぎで、叔母の元に戻ると「待ちくたびれたよ、あなたが戻ってくるまで、イエスは呼んでくれなかったからね」と答えました。そして、彼女の心に「あなたは、寛大さにおいて、本当に私より寛大であれると思ったのですか?」と、ちゃめっけたっぷりな、イエス様の言葉が響いたそうです。
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B年 年間第31主日
マルコによる福音 (マルコ12.28b-34)
(その時、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
「わかってるなら、聞かなきゃいいのに・・・」と素朴にこの律法学者に突っ込みたくなるところですが、それでも、試したかったんでしょうね。そして、思っている以上にしっかり、はっきりと正確にお答になったので、「先生おっしゃる通りです」となっちゃったのでしょう^^ まあ、そう思えば、律法学者さんも、愛嬌がありますね^^
「神を愛し、隣人を愛する」これがキリスト教の教えの根幹です。十戒も、前半は、神様と人との愛にあり方について述べられていますし、後半は隣人との愛の関係についてお述べられています。この短いたった2つの教えを生きることがどれほど難しいことか、自分自身を振り返るとつくづくわかります。
十戒にしても、たった十個の掟なのに、守れないのです。愛である神様を中心とした生き方でなくて、お金が神様になったり、地位や名誉、いろんなものが神様になって比べっこしています。比べっこして、出来ていない人を批判するのです。そして、隣人愛に背いてしまいます。
「神様を愛し、隣人を愛すること」このことさえ、頭と心に刻んでいれば、道を誤ることはないんでしょう。日々の生活の中で、神様とのかかわり、人とのかかわりの中で、「私は愛を生きているか?」と問いかけて、愛に生きる人でありたいです。
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