|
「私は、自分の仕事(ワーク)が絶えず何かによって、中断(インタラプト)されることにいら立ち、不満を覚えて生きてきた。中断(インプラント)こそが私の仕事だったと気づくまではね・・・・・」
アメリカ人老教授
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
B年 年間第18主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ6.24-35)
(5千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった)群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
5千人のパンの話の後に続く、聖書の箇所です。しばらく、御聖体の前兆であるこの5千人のパンの話から、御聖体の神髄へと話は向かってきます。
群衆は、5千人もの人が、パンを食べて満腹したことでイエスを探し求めます。まだ、この時点では、その不思議さを見て、パンを求めるために、イエスを求めています。その群衆に対して、イエス様は、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。とおっしゃいます。
永遠の命にいたる食べ物と言われても、彼らにはまだ何のことかわかりません。それで、ますます、しるしを求めるようになります。御父がモーセを通して、荒れ野でマナを与えたようなしるしを求めます。昨日、しるしを見たにもかかわらず、もっと、もっとと求めてしまうのです。しるしを見たからと言って、全ての人が理解できるわけではありません。奇跡を見て、感動しますが、永遠の命へ至る食べ物には、まだ心が向かわないのです。
そして、群衆は、世に命を与えるというパンを求めます。この時に、イエス様は、ご自身が、「命のパン」であることをはっきりと明言されています。まさに、御聖体の秘跡を示しておられるのです。命のパンであるキリスト。このことを理解するのは、難しいでしょう。あの小さなパンが、キリストご自身であることを少しずつ、教えてくださっています。
この御聖体の恵みに、気付く恵み。そして、イエス様を信じることで、開かれる目。それらを願い求めながら、イエス様がおっしゃるように、永遠の命にいたる食べ物のために、働きたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
|
「抱かれてあるとは知らず、愚かにも、われ反抗す、大いなる手に」
九条武子
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
|
B年 年間第17主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ6.1-15)
(そのとき、)イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
有名な5千人のパンの話です。これは、4つの福音書すべてに書かれています。それだけ重要な意味を持っているのだと思います。まさに、御聖体の前兆でもあります。
少年の行為に目をとめてみたいと思います。当時は、成人男性しか数を数えませんから、少年は、数にも入っていません。その少年が、自分のお弁当だったのでしょうか5つのパンと2匹の魚をイエス様に持っていきます。成人男性だけで5千人です。普通なら、これくらいじゃ何の役にも立たないと考えて、イエス様の差し出すのも躊躇したかもしれません。
しかし、少年は、信頼を持って、自分自身の持っているすべてを差し出します。そこには、なんの打算もありませんし、周りの人がどう感じるかということも関係ありません。ただ、自分とイエス様だけです。今自分に出来るすべてを渡しただけです。
そして、その少年の心にイエス様は応えられます。人々は満たされ、残ったパンくずは12籠となるのです。
自分自身の、常識的で小さな考えにとらわれなかったこの少年の行いは、イエス様の手に委ねられたとき、5千人を満たしあり余る恵みとなります。
私たちが、小さな存在であっても、イエス様の手の上で、どんなことでもできるのです。
私自身の小ささに臆することなく、自分の全てをイエス様にお捧げしたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
|
B年 年間第16主日
マルコによる福音 (マルコ6.30-34)
(そのとき、)使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
イエス様に、福音を告げ知らせるようにと派遣された弟子たちは、その行い教え、人々の反応を、報告しています。まるで、その日あったとこを、話したくて仕方がない、聞いてほしくて仕方がない子供のようです。それほど実り豊かだったのかもしれません。
そんな弟子たちの興奮に、イエス様は耳を傾けながら「しばらく休みなさい」とおっしゃいます。心と体は一つです。体の休養も大切なのです。そして、休養の時は、神様との交わりを深める機会でもあります。
今の日本は、がむしゃらに働いて、忙しくて過労大国と言われています。忙しさは、心を亡ぼすと書きます。活動と観想のバランスが大切なのです。その大切さもイエス様は教えてくださっています。
イエス様は、しばしば、御父と語り合い祈りの時を過ごされます。それでも、人々が神様を求めてやまないとき、喜んで神の国の事を話してくださいます。
私たちが、神様を求め続けるなら、必ず答えてくださいます。まさに、「飼い主の居ない羊」のような私たちは、どう進んでいいのか分からなくなる事があります。そんな時、イエス様は必ず憐みの心でもって、私たちに道を示してくださいます。はっきりと示してくださるときもあれば、静かにさりげなく示してくださることもあります。沈黙しておられるときもあります。そのときは、自分で考えてごらんとおっしゃっているのかもしれません。しかし、どんなときでも、神様はそばにいてくださり、私たちを見つめていてくださるのです。その心に信頼していたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|






