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聖イレネオ(エイレナイオス)司教殉教者
エイレナイオスは、使徒聖ヨハネの弟子であったポリカルポに若いころ学んだ人物です。おそらく、最も聖書の教えに深く根ざした聖書的教父といわれています。当時、広がっていたグノーシスの考えに対して「異端駁論」という5巻からなる書物を残しており、反グノーシス教父として活躍しました。
エイレナイオスの救済論は、
『再統合』(άνακεψαλάιωσις、recapitulatio)と言う理解です。
エフェソ1章10節
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
アダムは、神への不従順によって、最初に死ぬものとなりました。キリストは、十字架を通して復活し、生きるものとなりました。キリストのもとに集められると言うことは「死から生へ」と変えられていく、永遠に生きるものとされるということです。つまり、「神の不死性への参与」ということが、エイレナイオスの救済論の根幹にあります。だから、新たに生を獲得する。生きるものとなると理解しています。
不死性を獲得すると言うことは、楽園の状態に戻すということではありません。なぜなら、楽園は、神の恩恵の元に生きると言う存在であり、いのちの木によって生きると言うことです。しかし、エイレナイオスによる不死性の獲得は、このような状態ではなく、本当の人間性の完成となるものです。それは、キリストの様になることです。アダムもキリストのようになるべきであったのに、罪を犯してそう慣れませんでした。
だから、キリストはすべての創造の完成の姿です。救いとは、楽園の状態に戻ることではなく、アダムの状態を超えて、第2のアダムであるキリストになっていくことです。つまり、『人間の在り方を超えて、キリストのもとに完成される。キリストのように永遠に生きるものとなる。超越的ヒューマニズムです。』
Universal Salvation(宇宙的救済)という理解であり、救われないものはないと言う理解です。この救済論がエイレナイオスの特徴的な救済理解であり、最大級に広い救いの理解です。
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2010年06月25日
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年間第13主日
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
イエス様について行くためには、これほどの覚悟が必要なのか?
その覚悟がもてない場合は、神の国にふさわしくないのだろうか?
そうなら、自分は、救われないのかもしれない。
というように、だんだん、不安になってきます。
教会の歴史を見ると、すばらしい聖人方がたくさんいらっしゃって、まさに、この言葉のとおりに生き抜いた人たちがいます。輝かしい栄光に輝く姿が目に見えるようです。
そんな聖人たちの話を聞くたびに、心は燃え立ち、自分も・・・と思う気持ちになります。殉教者や証聖者、本当に、信仰の道をまっすぐに突き進んでいった聖人たちに、感動します。
しかし、一方で、そのように生きることのできない弱い自分自身の姿も見えます。恵みがなければ、そのようには生きることができないということを実感します。
では、そのとおり生きられず、落ちこぼれてしまった人には、救いはないのでしょうか?
わたしは、やっぱり、そんな人たちも救いへの道へと招かれていると思います。
「罪びとを招くために」こられたイエス様であり、「わたしのもとに来るものを決して拒まない」といってくださるイエス様です。
憐れみ深い存在と出会い、その憐れみに触れたとき、小さいながらも、大胆に生きることができます。ただひたすら、いつくしみ深い神様への「信頼」という心を持って、生きるとき、イエス様がおっしゃるような道を歩くことができるのかもしれません。
一人では、不可能です。しかし、小さいものと共に生きる憐れみ深い神様の愛の大きさを示す存在となれるような気がします。
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