|
B年 四旬節第1主日
マルコによる福音 (マルコ1.12-15)
(そのとき)“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
灰の水曜日から、四旬節がはじまりました。復活祭に洗礼を受ける人たちをはじめ、大切なときです。私たちもこの時に、祈りを深め、イエス様の御受難と御復活の神秘を黙想したいと思います。
今日の福音は、「霊」がイエス様を荒れ野に送り出したとあります。この霊は、ギリシャ語のプネウマ、ヘブライ語にするとルアッハになります。聖霊とも、息吹とも、風とも訳される言葉です。イエス様が、宣教を始めるその最初の時に、荒れ野に行かれたのは、聖霊の働きだということがわかります。サタンから誘惑を受けられたのも、神様のご計画の一つだったのでしょう。そして、この誘惑にイエス様は勝利されます。
また、荒れ野で、野獣と一緒におられたというところを読むと、イザヤの預言の、神の国の完成の日には、野獣は幼子とともにいるというところを思い起こさせます。このマルコの福音のはじめから、まさに、神の国の完成という、喜びの知らせが暗示されています。その上で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、第一声でもって、喜びの知らせ、福音を述べ伝えてくださるのです。この福音が伝えられる場所は、栄光のエルサレムではなく、小さな田舎町、ガリラヤから始まります。
わたしたちも、今置かれている、自分たちのガリラヤから、福音を生きていきたいと思います。
この四旬節の間に、私たちは、回心し、御国の完成を喜び迎えるにふさわしい時を過ごしたいと思います。また、洗礼志願者の方々を、迎える喜びを共に味わい、自分自身の信仰の喜びを新たにし、福音を生きる生活をしていきたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
典礼
[ リスト | 詳細 ]
|
B年 年間第7主日
マルコによる福音 (マルコ2.1-12)
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
4人の友人が、病にある友のために、屋根をはがしてまで、イエスのもとに連れて行きます。周りの人は、さぞびっくりしたことでしょう。イエス様もびっくりしたかもしれません。しかし、イエス様は、優しく、病の人を癒します。
ここで、気になるのは、中風の人に信仰があったかどうかは、わからないことです。おそらく、あったでしょう。しかし、そのことには、触れられていません。イエス様は、病人をつり下ろした4人、その人たちの信仰を見て、癒しの業を行われました。
これは、私たちにとって、うれしい知らせです。周りの人には、信仰のない方もたくさんおられます。しかし、イエス様は、その人の周りの人の信仰を見て、救いを示されるのです。また、私達が人々を、イエス様のもとに連れて行くだけで、救いは、行われます。
振り返ってみると、私たちの人生の中で、どれだけ多くの人が、私のために、祈り続けてくれてきたことでしょうか? 私たちの知ってるだけでなく、知らない人々も、祈って下さっているのを、感じます。その祈りのおかげで、今の自分自身があるのだと思います。神さまとの出会い、イエス様との愛の交わり、すべての恵みに与るのに、祈って下さった方々がいらっしゃるのです。
カトリック教会の教えに、「聖徒の交わり」という教えがあります。教会の人々、生きている人だけでなく、天国にいる人々、聖人たち、名も知らぬ聖人たち、生きている者も、死んでいる者も、神さまの愛の交わりのうちに、今もいつも世々にいたるまで、交わりのうちに生きてる。そして、祈りのうちに支え合っているのです。その恵みに感謝しながら、祈りを大切にしていきたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
|
B年 年間第6主日
マルコによる福音 (マルコ1.40-45)
(そのとき)重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
当時、思い皮膚病になるということは、社会的に死を意味するものでした。人として扱われることなく、社会から切り離され、差別されていました。だから、この人が人々のもとに出てくるということは、とても大きな勇気が必要だったと思います。もしかしたら、人々から石を投げられていたかもしれません。
そして、彼は、イエス様への大きな信仰と、信頼をもって、み心ならば清くすることがおできになりますと言います。この「み心ならば」という言葉が、素晴らしいと思います。私たちは、しばしば、願い事をする時、また、何かをする時、主語が「神様」ではなく、「私」となってしまいます。「私はこうしてほしい」「私はこうしたい」しかし、本当に必要なのは、いつでも神様にゆだねる心です。主語はいつも神様なのです。
この、ゆだねきる心で、イエス様にお任せした、皮膚病の人は、神さまのみ旨によって、清くされます。社会的に死んでいた人が、生きるものとなるのです。そして、この喜びを人々に告げ知らせます。
イエス様は、マルコ福音においては、しばしば、奇跡を秘密にするように言います。これは、さまざまな解釈がありますが、御国の神秘がゆがんだ形で示されることがないためであるというのも一つの解釈です。それでも、イエス様が秘密にされても、神さまの業は広まっていきます。救いの喜びを告げ知られる存在へと変わっていくのです。
わたしたちもまた、救いの喜びを告げ知らせるものとして、神さまへの信頼を持ち、常に主語を「神」として生きる生き方を大切にしたいと思います。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- ブログバトン
|
B年 年間第5主日
マルコによる福音 (マルコ1.29-39)
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
イエス様は、やさしい。助けを求める人の手を拒まれない。朝早く暗いうちに、人里離れたところで、御父に祈っていると、その朝まだ暗いうちなのに、イエス様を人々は呼びに来られます。イエス様は、忙しい中にあっても、祈りを大切にされます。そして、その束の間の時間にも、人々は、イエス様を求めるのです。求めて差し伸べられた手を握ってくださいます。
奥村一郎神父様の、十字架の道行きの中に、こんな言葉があります(ちょっとうるおぼえですが)「苦しい状態にあるとき、私たちは冷淡になる誘惑を感じるようなことがある。そのような時、私は、気難しくなってはならない。自分が苦しい状態にあることを口実にして、他の人の喜びをそいではならない。他の人がしてくれる細かい心遣いをよく見知る心を教えてください。」
忙しすぎる現代、冷淡になってしまいがちな私達です。それに対して、イエス様は、私たちにどうのように在るべきかを教えてくださいます。
イエス様は、どんな場所にもいかれます。神の国の喜びを伝えるために行かれます。
わたしたちも、自分たちが置かれた場所で、神さまの喜びを伝える存在でありたいものです。私たちの生き方を見て、人々が神様の愛を知ることができますように。
「私と出会った人が、私と出会う前よりも、しあわせなきもちになりますように」という言葉がありますが、そんな生き方が出来れば素敵ですね
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|
|
B年 年間第4主日
マルコによる福音 (マルコ1.21-28)
イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
汚れた霊に取りつかれていた人は、どんな気持ちだったのでしょうか?悪霊は、この人の口を使って、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言わせます。でも、この人自身は、助けてほしい。イエス様だけがこの苦しみを取り除いてくださる。そう思っていたに違いありません。悪霊によって、口ではイエスを拒否しながら、心では助けを呼び求めている気がします。
そして、イエス様は、その人の心の声を聴かれました。悪霊を一言で追い出されます。この人は、苦しみから解放されたのです。私たちの身近にも、心にもないことを口に出してしまう人がいます。でも、その人も、本当は心の深くで、助けを求めているのかもしれません。私たちは、イエス様から愛を生きるものとして、派遣されています。近くにいる助けの声に耳を傾ける心を持ちたいと思います。
一方で、周りの人たちは、論じ合っています。事実を前にして、論じ合います。そして、自分たちが納得できる答えを探そうとします。しかし、神さまの愛の業は、論じ合ってどうこうするものではないと思います。愛の業を見たなら、その不思議を解明することに一生懸命になるより、単純に、素直な心で、神さまを賛美し、自分自身も神様の愛の業に参与できるように行動できるようになりたいものです。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 カトリック
ぽちっとよろしくお願いします^^
|




