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B年 復活節第5主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ15.1-8)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ぶどうの木というのものは、木そのものは、薪にするくらいにしか、役に立たないそうです。まさに、実を結ばなければ、森を荒らすための木だそうです。イエスさまは、私たちに、御自身につながっていなさいと言われます。枝が木につながっていなければ、もちろん実を結ぶどころか、枯れてしまうだけです。命へとつながっているようにと、イエスさまは言ってくださいます。
イエスさまにつながっているぶどうの枝は、豊かに実を結びます。そして、イスラエルの食卓には欠かせない、ブドウ酒を生み出すのです。ブドウ酒となることによって、わたしたちは、ますます、豊かなものとなり、他者を生かす存在となります。
全ては、イエスさまとつながっていることです。イエスさまの愛に満たされて、その愛はあふれだし、他の人々へをも満たしていくのです。そして、イエスさまは、御自身で私たち枝を、つなげてくださることでしょう。
東日本大震災で
亡くなった方のために。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ、かれらの安らかに憩わんことを」
苦しみの中にある人のために
「主よ、私たちを憐れんで下さい。」
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典礼
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B年 復活節第4主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ10.11-18)
(そのとき、イエスは言われた)わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
ヒツジというのは、あんまり頭がよくないそうです。スペイン人の神父様から聞きました。オオカミが見えたら、怖いので、よそを見ます。自分から見えなくなったら、もう安全と思ってしまうそうですし、前のヒツジと同じ行動をとりますから、前のヒツジが、穴に落ちたら、次のヒツジも穴に落ちていくそうです。
つまり、羊飼いがいなければ、ヒツジは生きられないし、何にも出来ない弱い生き物だそうです。
「主は、羊飼い、私は乏しいことがない。・・・・あなたのムチと杖は私を守る」という詩篇がありますが、羊飼いが持っているムチや杖は、ヒツジをたたくためのものではありません。羊を襲う、多くの獣たちがいます。その獣たちから、命がけで羊を守るための道具なのです。つまり、本物の羊飼いというものは、恐ろしい獣から逃げて、ヒツジを見捨てるのではなく、命がけで自分のヒツジたちを守る愛深い存在です。だからこそ、羊たちは、自分の羊飼いを信用し、自分の羊飼いのいうことを聞き、そのあとについて行くのです。
本当の羊飼いであるイエスさまによって、命がけですくっていただいた愛を知った、私たちヒツジは、イエス様のもとに一つとなります。命を捨てることで、命を得る、この神秘をイエスさまは、私たちに示して下さいました。イエスさまは命を奪われたのではなく、愛するヒツジのために、つまり私たちのために、命を差し出してくださったのです。そして、差し出してくださっただけでなく、私たちのために復活してくださいました。命がけで愛され、復活の喜びを教えて下さいました。そんな私たちですから、イエス様もとに、一つになりましょう。一つになれない私たちをイエスさまが一つにしてくださったのです。ミサの中で、御聖体を受けながら、〃イエス様の命に与るものとして、愛を生きる存在になりたいものです。
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B年 復活節第3主日
ルカによる福音 (24.35-48)
(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
復活されたイエス様の、ユーモアあふれる姿を感じます。確かに、死んだと思っていた弟子たちですから、頭からは、復活のことは、飛んでいたでしょう。亡霊と思って怯えても仕方がない気がします。とても人間らしい、弟子たちの反応です。
私たちもきっと、同じような反応を示したかもしれません。
それに対し、イエスさまは、手と足をお見せになります。十字架の痕です。弟子たちの罪を責めているのではありません。十字架によって死に勝利し、愛のしるしとなった後です。そして、まだ、うれしくて信じられない弟子たちに、魚を食べるという、なんともユーモアのある様子を示されます。イエスさまの優しさがあふれてくるようです。
そして、弟子たちの心が、和み、癒され、裏切ってしまった痛みも薄らいだころに、御自身の復活の意味を聖書を通して、お話になります。彼らの心には、深く深くしみこんでいったことでしょう。聞いていてもなかなか理解できなかった、今までの弟子たちとは違います。聞いて、見て、信じた彼らになったのです。
これからは、弟子たちは、目覚ましい変化を遂げます。復活という愛の勝利をしったかれです。そして、愛の永遠の豊かさとあふれる愛に心が燃え立たせられた彼らです。
もうなにものも恐れることはありません。今まで、部屋に閉じこもって、怯えていて彼らの姿から、外へと飛び出し、力強く、宣教していきます。「イエスは復活された!」中には、馬鹿にする人もいたはずです。でも、そんなことは彼らにはもう関係ありません。自分自身の体験として、この喜びを知り、喜びは伝えずにはいられないからです。
イエス様がおっしゃった通り「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」そうです。まさに、証人として、殉教の栄光にまで、達します。そして、園めぐみは今現代を生きる私たちにも、しっかりと伝わっているのです。神様に感謝です。
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B年 復活節第2主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ20.19-21
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである
トマスの疑いは、私たちにとっても、安心できる出来事です。あれだけイエス様と一緒に居たのに、信じられなかったトマスです。ましてや私たちが不安になるのは当然でしょう。トマスは税理士です。現実的な人です。そして、その彼もイエスの復活に出会って、帰られていった一人です。伝説では、インドまで宣教に言ったと言われています。
弱い信仰の私たちであっても、見ないで信じる者は幸いと言われているイエス様の言葉の通り、見なくても、私たちの心に光り輝くイエス様の復活を味わっていたいと思います。
主の慈しみの主日です。聖ファウスティーナの取り次ぎを願いながら、イエス様の愛深い心にしっかりと浸っていたいと思います。また、白衣の主日とも言われていました。洗礼をうけた人が白い衣を受け、それを脱いで、宣教に行くのです。私たちも、新たな気持ちで宣教への旅立ちを歩みたいと思います^^
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B年 復活の主日
ヨハネによる福音 (ヨハネ20.-1-9)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである
ヨハネは、中に入りませんでした。中に入らなくても、イエス様の復活を心に感じていたのでしょう。見なくても信じる人です。そして、私たちの初代教皇ペトロが中に入ります。理解はしていなくても、二人とも何かを感じたに違いないのです。
イエス様が亡くなられて、おびえていた弟子たちは、殉教の道を歩みます。復活という神秘、これは科学的に証明されるものではありません。しかし、彼らが変わったのは事実です。おそれに取りつかれていた彼らが、大胆に主の復活を告げ知らせます。彼らが変わったのには、何か理由があるのです。復活の神秘、信じるか信じないかは、その人によるでしょう。でも、信じることが出来るのは恵みだと思いました^^
ご復活おめでとうございます!!!
東日本大震災で
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