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イエズスの聖テレジアおとめ教会博士
聖テレジアの死について記した修道女は、聖女が幾度も「主よ、わたしは教会の娘でございます」とくりかえしていたことや、臨終の聖体拝領のとき「わたしの主よ、お愛し申し上げる主よ、いよいよ出会いのときが参りました。」といったことを伝えています。
また、聖テレジアは「常に祈り・・・喜びにあふれ・・・顔に微笑を浮かべて・・・その魂を主に返した」とも記されています。
テレジアの死は、その生涯をあらわしています。微笑み、快活さ、生涯彼女を虐げた病苦に対する忍耐、カルメル会改革、諸修道院創立という難しいしメイン赤での明るい平和、これらが、ますます気高い愛に燃え、霊魂の城の奥深い住まいで「孤独なお方と共に孤独に」生きていたテレジアの顔にいつもきざまれていた特徴です。
崇高な脱魂も、修道家族の長上として日常生活に心を配るつつましい実際面をそこなうようなことはありませんでした。テレジアにとって、観想は行為となって実を結ぶもの。観想も活動も、生きる神への渇望に養われるものなのでした。
「ああ、霊的生活において大きな望みを抱くことは、どれほど大切でしょう!」
霊性を生きる人々の母、イエスのテレジアの独特な魅力はここにあります。
テレジアは1515年に、スペインのアビラに生まれ、1535年にその町のカルメル会修道院に入会S、1555年にそこで「回心の恵み」を受けました。改革カルメル会の最初の修道院を開き、さらに多くの修道院設立のために「さすらいびと」の生活を始めたのは1562年のことでした。1582年に天に帰るときまで、教会の娘でした。
「全能の父よ、あなたはイエズスの聖テレジアを聖霊によって導き、
神との一致に達する道を教会に示してくださいました。
聖女お教えを心の糧とし、聖性への憧れに目覚めることができますように。」
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イエズスの聖テレジア
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なにごとも心を乱すことなく
なにごとも恐れてはならない 全ては過ぎ去る 神のみ変わることがない 忍耐を持つものは全てを勝ちとる 神を所有するものには 何も欠けることがない 神のみでみたされる あまりにも有名な、母テレジアの言葉です。
いつもこの言葉を心に刻みながら、テゼの聖歌の「おそれるな、わずらうな、主は共におられる。 満たされる あなたは 神によって」 を口ずさんでいます。
大テレジアの生き方には、すごく憧れます。あれほど、イエス様を愛し、愛の炎で焼き尽くされる生き方は、本当に素晴らしいです。この言葉を心に留めながらも、自分自身を振り返ると、あまりにも小さなことに、心を奪われ、不安になり、神様への信頼が揺らぐ、貧しい信仰の自分自身との違いに、がっかりすることもあります。
それでも、あこがれ続けていけば、きっと彼女のように、「神のみで足りる」と言い切れる日が来ることを願っています。 テレジアのことは、大好きなので、また、色々書きたいと思います。好きな聖人がたくさんいるというのも、しあわせなことですネ。今度は、どんな聖人と語り合おうかな?
今日のロザリオ
人は、どうしても、他者からの言葉や態度に影響されてしまいがちです。それによって、つい自分を見失ってしまったり、自分の心が動揺したりします。ラピスラズリはこんな風な、影響された精神から、解放されて、真実の自分を見出させてくれることのできる石だそうです。
まるで、テレジアの言葉を思い出させてくれるような気がしませんか?
旧約聖書の創世記にも出てくる宝石です。昔から重宝され、真理へと導いてくれる石と聞いています。
パワーストーンの意味に、振り回される必要はありませんが、聖書にたくさん宝石が出てきたり、誕生石なども、聖書からと聞くと、何だがやはり興味を持ってしまいます
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