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キリスト教概論16 預言者
また、聖書を横に置きながら、読んでみてください。
北南王国史…列王上12章〜下25章
列王上 12章「王国の分裂」
ソロモンの死後、イスラエルは南北に分裂します。
南王国ユダ(首都エルサレム)(B.C.922〜587)バビロンにより滅亡
正統なダビデ王家による国
北王国イスラエル(首都サマリア)(B.C.922〜722)アッシリアにより滅亡 クーデターで興った国
預言者…神様からの言葉を人々に伝えます。時には耳に痛いことも伝えます。
(現代の預言者・・・マザーテレサ・ヨハネ・パウロ2世などもそういう意味で、現代の預言者かもしれません)
エリヤ(B.C.869−845)(旧約における預言者の代表)
列王上18章 「エリアとバアルの預言者」
列王上21章 「ナボトのブドウ畑」
嗣業の地…救いの象徴
人には、お金や他のどんなものにも変えることのできない大切なものがあります。それを尊重していくことが大切です。
本当に大切なことは何か?情報が溢れている現代、偽預言者もたくさんいる。たとえ耳に痛いことであって、真実に耳を傾けていく。そして、真理に生きていくことです。
アモス(B.C.752−738)『義の預言者』北イスラエル
国が富んいく蔭で貧しい人、弱い人が虐げられる現実の中で神の正義を預言した。
『神の審判』『裁きの日』 現代の影の部分
アモス2章6節から16節
ホセア(B.C.746−735)『愛の預言者』北イスラエル
イエスのように愛を述べ伝えた預言者。民の中の一員として、同じ重みを引き受けることによって預言していきます。
ホセア11章
(民が背いても見捨てられない、愛さずにはいられない神様の愛です)
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。 わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。 しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた・・・
わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも 助け起こされることは決してない。
ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。 アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。 わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。 わたしは神であり、人間ではない。 お前たちのうちにあって聖なる者。 怒りをもって臨みはしない。
第1イザヤ (B.C. 742−701)南ユダ 1〜39章
マナセ王は、大きな国の属国になるとこによって、発展しました(アッシリア帝国)しかし、違う国の属国になるというのは、宗教も変わります。神に背くことになってしまいます。また、アッシリアは、自分たちと同じ民族の北イスラエルを滅ぼした敵でもあります。
特徴は「残りのもの思想」…悪人すべてが滅んだ後、ゼロになったところから、残された人々が新たに始めていくということです
1章
7章「インマヌエル預言」 シリア・エフライム戦争(B.C.733)が背景となっています。アラムの王と、北王国が同盟を組み、アッシリア王、ティグラト・ピレセルと対抗します。ユダの王アハズがこの同盟に加わらなかったのでアラムと北王国が、ユダを攻めてきました。
列王下17章 「サマリアの陥落」 北王国イスラエルが滅亡します
エレミヤ (B.C.626〜586) 苦悩の預言者
エレミヤは、民と神の間に立ち、両者の間で引き裂かれる。
20章7節〜「エレミヤの告白」
列王下25章 「エルサレムの陥落」バビロン捕囚
バビロン捕囚(B.C.587〜)
詩編137
第2イザヤ (イザヤ書40章〜55章)
希望となぐさめがメッセージ
4つの僕の歌 (42.1〜6 49.1〜6
50.4〜9 52.13〜53.12)
エズラ記 1章
エルサレムの帰還 詩編126
はじめメシアは、政治的なものとして、待たれていました。しかし、ハスモン王朝のように、一度独立したが、すぐに滅んでしまいました。つまり、人間では、本当の救いにはならないことに気づきます。そこで、もっと深い、本当の意味でのすべてに及ぶ救い、究極的救い主、超越的救い主を待ち望むようになります。
そして、誕生を待ち望まれたのが人類を救う救い主。イエスキリストです。
大雑把に、旧約聖書を見てみました。
今後はイエス様ご自身の救いについて、
また、人間の救いについて考えていきたいと思います。
ありがとうございました。
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キリスト教概論
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キリスト教概論15 (ともにいる神)
モーセの後継者として、ヨシュアが選ばれます。
ヨシュアはイエスのヘブライ語です。
カナン征服・定着史…ヨシュア記を読んでみてください。ともにいる神について深く書かれています。
1章5節「共にいる」 9節「共にいる」17節「共にいる」
ヨシュア記
このヨシュア記では、神さまは、戦う神として書かれています。伝えたいことは『イスラエル民族と共にいる神』最も苦しいときに、側にいる神として理解していることです。戦争が良いものとして書かれているのではなく、苦しいときもいつも共にいる神ということにポイントがあります。
心の葛藤、苦しみ、真理を選び取る時の戦い。正しい道を歩む時の、戦い。
ヨシュア3章 「ヨルダン川を渡る」7節「共にいる」
6章 「エリコの占領」
士師時代史…士師記
士師記 部族連合の指導者を士師といいます。神の霊が下って、外敵と戦うとき指導者となります。
有名なのは、「デボラ」「サムソン」などです。
このあたり物語として読んでも面白いので読んでみてください。
続いて、王政樹立史…サムエル記上1から15章
サムエル記上1章「サムエルの誕生」
3章「サムエルへの主の呼びかけ」
「主よお話下さい。僕は聞いております」
心を開き、心の耳を開いたとき、神は真実語りかけてくださいます。
まず聞くことが大切ということです。
最初の王 サウル サムエル上8章 「民、王を求める」
9〜10章「サウル、油を注がれる」
王を求めることは、エジプトから民を救いだし、今まで、守り導いてこられた神を拒否することでした。
『油を注がれた者』とは。メシア・キリスト 王。祭司。救い主を示します。
王を置くことによって、人々の間に、上下の差ができるようになった。このことは神の目には悪いことでした。やがて、サウルは神に背き、退けられます。
次は、ダビデ台頭史…サムエル記上 16章〜下8章
最も偉大で、最も神に忠実であった王がダビデです
サムエル上16章「ダビデ、油を注がれる」
人は目に映ることを見るが、主は心によってみる
サム上17章 ダビデとゴリアト
サムエル上26章 「ダビデ、サウルを寛大に扱う」
神への忠実さゆえに、油を注がれた者であるサウルを手に掛けることをしませんでした。
ダビデ王位継承史…サムエル記下 2章〜列王記上2章
サムエル下 7章 「ナタンの預言」
この時、ダビデ契約が伝えられます
しかし、最も忠実であったダビデでさえ罪を犯してしまいました。人間の罪、弱さです。
サムエル下11章 「ウリヤの妻、バト・シェバ」
12章 「ナタンの叱責」
詩編51 悔い改めの詩編 バト・シェバと姦通の罪を犯したとき、回心の詩
ソロモン王史…列王上1章〜11章
ソロモン王 列上3章 「ソロモンの知恵」大岡裁き
6章 「神殿の建築」
10章 「シェバの女王の来訪」
11章「ソロモンの背信とその結果」
さらっと流しましたが、聖書と向かい合いながら、ゆっくり読んでいってくださるといいと思ます。ただ、旧約聖書は、激しい表現も多いので、誤解がないように、その奥にある神様の愛に目を向けながら読んでいくといいと思います。
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キリスト教概論14 十戒(後半)
今日は、十戒の後半部分の説明をしたいと思います
前半は、神様と人間との愛の関係でした。
後半は、隣人愛についてです。
第六戒
殺してはならない
古代は、仲間であっても殺してしまうことがありました。だからこそ、せめて
仲間を殺してはならないといわれています。ひいては、全人類への愛、命を大切することへとつながっていきます。また、契約共同体のメンバーを守るということも言われています。
現代であるならば、堕胎はこれにかかわってきます。堕胎は、最も弱い命を、最も守るべき母による死への明け渡しです。
さらに、無視ということ、これは精神的な殺人です。相手の存在を認めない、自分自身の中からその存在を消し去るという行為は、相手をこの上なく傷つけます。
第七戒
姦淫してはならない
ここで問題となっているのは、不倫の子供のことになります。旧約聖書の時代、父のはっきりしない子供は、辛い人生を歩むことになっていました。彼らは受け継ぐものをもてませんでした。こういう存在は契約共同体のメンバーでかわいそうな存在となってしまう。そういう存在が産まれないためにこのおきてが定めらえました。また、家族間、夫婦間の信頼関係も揺らいでしまいます。
第八戒
盗んではならない
当時、物を盗んだときはそれを弁償すれば許されていました。しかし、人を盗んだときは死刑にされました。人を売り飛ばすことは、その人の人権を全く無視するということになります。人権を守るということになります。
第九戒
偽証してはならない。
ある人がうそを付いたために人が裁かれることがないためにこの掟はありました。 仲間の中での信頼がなくなってしまいます。そうすると共同体が弱体化してしまいます。 人と人との信頼関係を保つために、偽証はあってはならないのです。
第十戒
隣人の家をむさぼるな。害するな
相手の家が成り立っていくために、横取りしていくとその家は成り立たなくなります。現代においてもそのとおり、ある一部の国が豊かなのは別の国が貧しいためです。
また、環境問題についても、同じようなことが言えるでしょう。
つまし、共同体の中の正義について述べられています。
第六から第十戒はイスラエル共同体の中の倫理
これをイエスのことばにするなら「隣人を愛しなさい」となります
だから、十戒は「神を愛し、隣人を愛しなさい」ということです。
神を愛するためにはどうすればいいか。
隣人を愛するにはどうすればよいかということが十戒に示されています。
十戒の文法について
全て未完了形で書かれています。この表現は、事実の確認「たしかにそうですよね」というようなニュアンスです。
Ex 私以外を神としたりしないよね
偶像をつくったりしないでしょ?
あなたは殺したりしないでしょ?あなたが殺人なんてしないよね
これは、母が子供に向けて語りかけているようなものです。神のイスラエルの民族に対する信頼関係の表れであり。愛の表れです。神が言葉によってイスラエルを抱きしめているようなものです。
愛に生きる道、幸せの道がトーラー(律法) トーラー=矢 矢印
罪の本来の意味は「まとはずれ」という語源から来ています。 愛に背く時、罪となります。だから罪と犯罪は違う。愛に背いたことがない人はいません、だから、全ての人は罪人であり、赦し、救いが必要となります。
モーセとともに、荒れ野の旅が終わる。後継者はヨシュア
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キリスト教概論13 「出エジプト記」十戒
エジプトで奴隷として働かされていた、イスラエルの民が、神さまの導きのもとに、エジプトを脱出するまでが描かれています
映画「十戒」
映画「プリンス・オブ・エジプト」
この2本の映画は、わかりやすくてお勧めです。「十戒」の方は、以前にも紹介しましたが、「プリンス・オブ・エジプト」はアニメです。これも面白いので、見てみてください。出エジプト記が、簡単にわかります。
出エ4章「使命に伴うしるし」
5章「ファラオとの交渉」
7章8節「アロンの杖」
「血の災い」「カエルの災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「疫病の災い」「はれものの災い」「雹の災い」「いなごの災い」「暗闇の災い」「最後の災い」
12章1〜30節 主の過ぎ越し・・・エジプトに対する最後の禍です
ユダヤ教三大祭り「五殉祭」(麦の刈り入れの祭)
「仮庵祭」(秋の収穫祭)
「過ぎ越し祭」(春)…神の民の死から生への過ぎ越し
新約の時代、キリスト自身をこの小羊とみなす
14章1〜31節 葦の海の奇跡
「これも有名な箇所です。葦の海が割れるシーンは、映画でも迫力があります」
16章 マナ 食べ物がないと不満を漏らす民に、
天からマナという食べ物が降ってきます
17章 岩からほとばしる水 のどが渇くという民に、
神様の言葉通りにモーセが岩に杖を打つと、水がほとばしります
19章 シナイ山 律法授与 「十戒」が与えられます
『十戒』について、説明をしたいと思います。
出エジプト記 20章 1〜17節
申命記 5章 6〜21節
に載っています。
十戒(出エジプト20章1〜17節、申命記5章6節〜21節)
1948年の国連第3回総会で『世界人権宣言』が発表。アメリカのルーズヴェルト大統領と共に、フランスのルネ・カッサンが草案を書いた。このとき、彼の頭にあったのが、この十戒とホロコーストと言われています。
今回は、十戒の前半部分の説明をしてみたいと思います
第一戒
私以外のどんなものも神としてはならない
唯一神教の由来
神でないものを神として拝む。自らの欲望を神として扱う
現代なら、お金、権力などそういったことを禁止しています。
第二戒
偶像をつくってはならない
人間が頭の中で考えたものを形にしようとする。しかし、神は形にはめられるものではない。もし形にするならその枠に神を無理やり押し込もうとする行為が偶像を刻むということ。それゆえ、神に形を与えようとすること事態が間違っているということである。だから教会にたくさんの像があるのは、偶像ではなく、象徴であって、十戒が言うと事の偶像とは意味が違います。
偶像とは、像そのものではなく、自らの欲望の投影したものです。どうすれば、自分自身の欲望が十分に叶えられるか?欲望を満たすためにはどんな形の神とするのか?ということであり、古代の人も別に像そのものを神と思っていたわけではありません。だから、現代でも十分に偶像崇拝はありえる。お金、地位、名誉、権力などなど色々なものが、偶像となっています。
第三戒
神の名をみだりに唱えてはならない
自分の都合に合わせて神を呼んではならないということです。(Ex.もうかりますように、お金が入りますようになどなど)自分勝手な都合のために神を利用するべきではない。神は人間の勝手な都合に利用される存在ではない。また、そのような神でもないと言っています。
第四戒
安息日を聖とし守りなさい
新約聖書でも、安息日そのものをキリストは否定しているのではありません。本来の安息日のありかたを取り戻そうとしています。
安息日は、ユダヤ人としてのアイデンティティを守るために、安息日を大切にしていました。捕囚の時代の影響。自分達を支配しているバビロンの王が自分達を支配しているのではなく、神が自分達を支配している。だから、バビロンの王のリズムに従うのではなく、神のリズムに従って生きるのであるとの主張なのでした。
自分自身のリズムではなく、神のリズムに従うということです。
そして、週のうち、せめて1日だけは、神さまのために使うこと言うことも大切なことです。
第五戒
父母を敬え
父母は祖先全てを含む。先祖が代々信じてきた信仰を守りなさい。大事にしなさいということです。つまり、イスラエルが代々信仰してきた、主なる神への信仰をたいせつにしなさいということです。
第一戒から第五戒までは、神とイスラエルとの関係について述べられています。イエス様の言葉にすると「神を愛しなさい」となる
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キリスト教概論12 「出エジプト記」
出エジプト記にはいります。
これは、「十戒」という映画でも有名な箇所ですので、物語としても面白いので、
読んでみてください。時間のある方は、3時間もありますが、「十戒」の映画をご覧になるのをお勧めします^^
1章16〜「男児殺害の命令」
2章 「モーセの生い立ち」
モーセの召命のところを抜粋してみたいと思います 3章1節から
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。 女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、 主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。 「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。 「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
『召命』calling…全ての人は、何かに呼ばれています。Mission…使命があります
モーセも神様に呼ばれ、使命が与えられました。
小さな人間、取るに足りない存在が、神から与えられた使命に生きるようになるのです。誰にでも必ず神から与えられた使命がある。
全ての人は、何かの使命に呼ばれています。これを「固有の使命」と言います
幼きイエスの聖テレーズは「ma vocation est l’amour(私の使命、それは愛です)」と言いました。そして、徹底的な愛に生きました。
私たちの使命 召命とはなんでしょうか?
11節「わたしは何者でしょう?」→ 私が誰であるかを決定する力はどこから来るのか?神による呼び出し 『固有の召命』
表現の仕方は変わる、しかし召命は変わらない
モーセに現れた神
6節「私はあなたの父の神である。アブラハムの神。イサクの神、ヤコブの神である。」
イスラエルの民族が代々信仰してきた神。
14節「わたしはある」 エヒエ・アシェル・エヒエ
この言葉の意味を考えてみましょう
① I am who am 「わたしはあるというものだ」
→ 存在そのもの 全ての存在の基盤 存在者 =創造主
② I am who I am 「わたしはわたしであるものだ」
→ わたしはわたしであって、他の何者でもない
③ I will be there ( with you ) 「私はあなた共にずっといるのである」
→ 12節の「私は必ずあなたと共にいる」の言い換えともとれる。つまり「共にある神」である。いつでもあなたの側にいる。
いつもいつも共にいて下さる神(インマヌエル「神我らと共に」
イザヤ7章14節 )
神さまは、いつもともにいてくださる神さまであり、すべてのものの創造主です。
いつもともにいてくださる神さまについて、よく表されている詩があるので紹介したいと思います。
あしあと
ある夜、彼は夢を見た。それは主とともに海岸を歩いている夢だった。
その時彼の人生が走馬灯のように空を横切った。
その場面場面で彼は砂浜に二組の足跡があることに気がついた。ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものであった。
そして最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返って見た。すると彼が歩んできた今までの道にはたったひとつしか足跡がなかったことに気がついた。また、彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれていた時も同様であった。
彼はこのことでひどく悩み、主に尋ねた。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私には理解できません。」
主は答えられた。「私の尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは私があなたを背負って歩いていたからです。」
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