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福者ヨハネ・パウロ2世教皇
ヴォイティワは若くして、家族の喪失を体験しました。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失いました。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいましたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになります。1939年、19歳のときドイツのポーランド侵攻によってポーランドが占領されたことで、ヴォイティワが学んでいた大学が閉鎖されたため、鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優、脚本家としても活動していました。
第二次世界大戦中の1943年に、聖職者として生きることを決意しましたが、神学校の運営が禁止されていたため非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日に司祭に叙階されました。優秀だったヴォイティワは司教の推薦でローマの教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学びましだ。1948年には十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究で神学博士号を取得しています。また、この年ポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭としての職務を果たしました。
1953年には、『カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学に提出。その後、クラクフのヤギェウォ大学、ルブリン大学神学部で倫理神学を教え、1958年7月4日にピウス12世によってクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日に叙階されました。38歳でした。
1962年に始まった第2バチカン公会議にはクラクフ司教および神学者として参加しました。特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立に貢献しました。
1964年1月13日、パウロ6世によってクラクフ教区の大司教に任命され、1967年7月26日には同教皇によって枢機卿に親任されました。1978年、パウロ6世の死去に伴って新教皇に選出されたのは当時65歳の(教皇としては若い部類に入る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世)でした。このコンクラーヴェ(教皇選挙)に参加したヴォイティワは、これでもう次のコンクラーヴェに参加する事はないだろうと思っていました。ところがヨハネ・パウロ1世が在位わずか33日で死去したため、1978年10月に再びコンクラーヴェが行われることになりました。こうして生涯2度目のコンクラーヴェに臨んだ58歳のヴォイティワが新教皇に選出されました(10月16日に選出され、10月22日に就任しました)。
ポーランド人初のローマ教皇の誕生は故郷ポーランドにおいて、ナショナリズムの高揚とソビエト連邦への抵抗心を一層大きくすることになりました。このことは1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、ひいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになります。
教皇として
ヴォイティワは前教皇の遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名を名乗りました。さらに前任者にならって教皇職にまつわる多くの虚礼や前時代的な慣例を廃止しました。
ヨハネ・パウロ2世は「旅する教皇」といわれたパウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世界を訪問し、「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどでした。最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまでに実に世界100ヶ国以上を訪問している。勉強熱心で、訪問先の言語で簡単な演説をすることでも有名でした。
他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会との和解への努力を行い、大きな成果を上げました。また天台宗の大阿闍梨である酒井雄哉とも会っています。1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を訪れるなどユダヤ人への親近感を示し続けたことなどでも知られています。さらに1980年代後半以降の共産圏諸国の民主化運動において、精神的支柱の役割を果たしたともいわれています。
特に、冷戦下で共産主義政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えています。ポーランドは国民の98%がカトリック信者であり、教皇が着任8ヶ月後に初めての故国訪問をしましたが、熱狂的歓迎をもって迎えられました。教皇はワルシャワのユゼフ・ピウスツキ元帥広場に集まった人々に「(共産主義政権を)恐れるな」と訴えました。その4ヶ月後の「独立自主管理労働組合「連帯」」が率いたストライキなどを経て政権は妥協路線を走り始め、1980年代後半には民意に押されて政権が民主路線へ転換しています。なおこのような民主化運動への後援の姿勢がソビエト連邦を始めとする東側諸国の政府に脅威を感じさせ、後の暗殺事件につながったという指摘もあります。
他方、教義的には保守的なことで知られ、1979年の最初の回勅「レデンプトーリス・オミニス」(『人間のあがない主』)から2003年の「エクレシア・デ・エウカリスティア」(『教会にいのちを与える聖体』)まで多くの回勅や使徒的書簡を精力的に発表しています。特に議論を呼んだ1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)では、妊娠中絶や安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えました。また貧困問題・難民や移住者の問題などの社会問題にも真摯な取り組みを見せました。
大聖年でもあった2000年、キリスト教の節目の年にあたっては、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応、十字軍のイスラム教への行為への反省や、ガリレオ・ガリレイの裁判における名誉回復などを公式に発表しています。教皇にとって、対内的には常にカトリック教会において存在する保守派と急進派の対立構造の間のバランスをどのように取っていくか、また対外的には、複雑化する現代社会の諸問題の要請にカトリック教会としてどう答えてゆくかということが常に課題でした。
伝説的な初代教皇ペトロを除けば、31年7ヶ月教皇位にあったピウス9世についで歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長い治世を誇ったが、晩年はテロの後遺症やパーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみを受けた。
死去と葬儀
2005年2月からはインフルエンザと喉頭炎による入退院を繰り返していましたが、2005年3月31日以降、感染症によって容体が悪化しました。しかし、教皇は入院を拒否し住み慣れた宮殿の居室で療養することを選びました。教皇の容態悪化のニュースを聞いた信徒たちがサン・ピエトロ広場に集まって祈りを捧げていると、そのことを聞いた教皇は「私はあなたたちと一緒にいる。ありがとう」と語ったといわれています。
2005年4月2日午後9時37分(日本時間:3日午前4時37分)、敗血性ショックにより84歳で天に召されました。最期の言葉は「アーメン」だったとされていましたが、2005年9月17日には最期の言葉が「父なる神の家に行かせてほしい」というポーランド語だったとも報道されました。
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