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聖ジャン=マリー・ヴィアンネ
農家に生まれ、農作業を手伝っていたジャン・マリ・ヴィアンネが司祭になろうと考えたのは18歳の時でした。父の反対で神学校へ入ったのは二十歳のときです。学友は皆12〜3歳で神学校に入ります。彼は遅い入学でした。彼はラテン語で大変な苦労をしました。授業はラテン語で行われ、彼は進級できません。理解者にめぐまれフランス語で試験を受け、合格。異例の取り計らいだったため、最後は責任者の長上に判断をゆだねられることになりました。長上の「青年ヴィアンネは敬虔であるか、よくロザリオを唱えるか、彼はマリアに信心を行うか」という問いに対し、「彼は信仰の模範です」との理解者の回答によって彼はついに進級を許されます。
二番目の赴任先のアルスという寒村で生涯を熱心な司牧に捧げ、一日の殆どを信者の告解に割きました。彼には赦しの秘跡に対して特別な賜物がありました。彼の評判を聞いて遠く外国からも大勢の信者が告解に訪れるようになります。しかし、魂を神に導くというあまりにも高貴な責任の重さの前に、自分がふさわしくないと思った彼は子供のように三度脱走を試みます。そして一度目は自分から、後の二回は大勢の信者につかまり、懇願されて戻ったそうです。
彼は真夜中に起き、一時に祈るために教会へ降りて行きました。六時まで告解をし、ミサを献げました。七時に「ラ・プロヴィダンス」(孤児のために彼が行った事業)で、ミルクをカップに半分飲みました。その後すぐ、十一時まで人々の告解を聞きました。昼から夕の八時までの六時間近く、司祭館で食事をとったり、病人を訪れたり、聖務日課を唱えたり、告白を聞いたりした。八時に、共同の祈りや説教、カテキズムを行いました。十時に帰宅し、敬意を表して、訪問者を受け入れました。一時間から三時間眠り、二十時間働き、そのうち十五時間は告白を聞いたのでした。これを三十年間続けました。
アルスの司祭に告白した人は十万人以上にもなったそうです。
聖ヴィアンネの言葉
「神の聖なる現存について考えることはほんとうに甘美で、慰めるものです。神は決して悩ましません。時は矢の如くすぎていきます。喜びは天国を待ち望むことです。―私たちは神を見るでしょう。私の兄弟たちよ、今まで考えたことがありますか。私たちは神を見るでしょう。本当に神を見るでしょう。
私たちは神を(中略)面と向かって見るでしょう。私たちは神を見るでしょう。」
「善い神は、私が自分のために祈る以外はほとんど全てを認めてくれる。」
「神は、母親が赤子の頭をキスや愛撫をするために手でささえるように、信仰のある人間をささえる。私たちは、私たちが評価する価に応じてものを愛する。このため、私たちが主がその血に値する私たちの魂のためにもった愛を評価しなさい。主は魂との交わりと関係を切望している。」
「祈る時、波にのって泳ぐ魚のように、神にその心を開かなければならない。」
「お祈り、これこそ、地上における人間のすべての幸福です。ああ、うるわしい生涯。霊魂のわが主とのうるわしい一致。ながい永遠も、この幸福を理解するには十分ではないでしょう・・・内的生活は霊魂が浸る愛の湯浴みです・・・霊魂は愛の中に溺れた者のように浸るのです・・・母親が子供の額に接吻をあびせ、たまらない愛撫を繰り返すように、神様も内生の人をこのように取扱い給うのです・・・。」
「神は私たちを父よりも、優しい母よりも愛しています。私たちは子供の心をもって、神の意志に自分をゆだね、自分を捨てなければなりません。神の愛は、私たちがあえて願わなかったことを実行に移しました。善き神は私たちを必要としません。もし私たちに祈りを命じるのであるなら、それは神が私たちの幸福を望んでおり、私たちの幸福はそこでしか見つからないからです。―神が私たちのところへ来ようとする時は、父親が話しかける子供の声を聞くために身をかがめるように、小さな被造物に心を向けてくれます。」
「母が子を火から救うよりも、善なる神が悔やむ罪人をゆるすことのほうが早いのです。」
「私共のこの世での唯一の幸福は、神様を愛することと、神様が私共を愛しておられることを知ることです」
「聖体拝領は、よく果されるならば、一回でも、霊魂を神様への愛に燃え立たせ、この世をうとんじさせるに十分です。(中略)
ああ、聖なる聖体拝領。ただの一回でも人間のこの世を厭わせ、この世ながらに天国の歓喜を味わせるに十分です。」
「私がアルスにきた最初のころのことでした・・・よくお聴きなさい、皆さん。ある人が教会の前を通るとき、決まってその中に入っていきました。朝は仕事に行くときに、晩は仕事から帰るときに、扉のところにスコップとつるはしとをおいて、ながい間、聖体の秘跡の御前にとどまって礼拝していました。ある日、私はあのながい訪問の間に何とわが主に申し上げているのですかと尋ねました。何と答えたかわかりますか。「神父様、私は何も申しません。私は主を見つめ、主は私を見つめておられます・・・」(ここで聖なる要理教師の声は涙で中断した)。
彼はくり返していた「何と美しいことでしょう。皆さん、何と美しいことでしょう」。」
「十字架。十字架が平和を失わせるというのですか。十字架が世に平和を与えたのです。私共の心に平和をもたらすべきものは十字架です。私共のすべての悲劇は十字架を愛さないところから来るのです。十字架を恐れることが、十字架をふやすのです。しかし、苦痛を誇張する自己愛を顧みることなく、素直に十字架を担えば、もはや十字架でなくなります。平和の中に耐え忍ぶ苦しみは、もはや苦しみではありません。私共は、まさに、苦しみのないことを当然嘆かねばなりません。それは、十字架を担うこと以上に、わが主に似かよう者としてくれることはないからです。おお、十字架への愛と徳とによってなされる霊魂とわが主との麗しい一致・・・私は信者がそうして十字架を嫌い避けるか分かりません。それは、つまり、私共のために十字架にかかり、十字架上で死ぬことを熱望された御方を避けることではありませんか。」
「一切を神様の御前で、一切を神様と共に、一切を神様をお喜ばせするために・・・ああ、何と美しいことでしょう・・・さあ、わが魂よ、神様と語り合い、神様と共に働き、共に歩き、共に戦い苦しもう。苦労するであろうが、主はそなたの労苦を祝し給うであろう。歩けば、そなたの歩みを祝し、苦しめば、そなたの涙を祝し給うであろう。一切を神様と共に、神様の御前で行うこと、また神様が一切を見ておられ、一切を聖心にとどめてくださると考えることは、何と偉大で高貴なことだろう。何と慰め多いことだろう・・・では毎朝『神様、一切を御身の聖心に適うために、一切の行いを御身と共に・・・』と言おう。神様の現存を考えることは何と甘美で慰め多いことだろう・・・決して倦むことはない。数時間も数分であったかのように過ぎ去ってしまう・・・ああ、これはこの世ながらの天国の味わいである。」
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聖ヴィアンネ司祭
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