シャルルヴィル・メジエールは閑散たる町だった。とてつもなく大きなデュカル広場にちょっとした移動遊園地が来ていたり、三年に一度マリオネット・フェスティバルが開かれたりする人形町ではあるが、いくつかの通りを歩いても、いかなる活気もなく、停滞しており、センスの乏しい、なんら詩的なものの落ちていることもない寂しい町であった。 ランボー記念館も、さっそく行って見ると、館員が退屈して外に出てぷかぷか煙草をふかしている。私が記念館を写真に収めようとしているのに気がつくと、ようやく中に入っていった。記念館にはランボーの歴史がさまざまな資料のコピーで綴られ、ガラス・ケースの中にランボーの遺品(スーツケースとアデンで使っていた、コップや匙を含むが、これだけしかないのか…!)が静かに収まっている。フェルナン・レジェがイリュミナシオンの「大洪水の後で」にイラストを添えた珍しい本が陳列してあった。ランボーにあやかったそこそこの芸術家の写真も展示してあって「ニューヨークのランボー」なんて作品は平凡で、つまらない発想。もっとランボー自身を研究した展示を増やせばいいのに。。 町のはずれには、これまたまったく無人の寂しい墓地があり、ランボーのお墓もあった。入り口のほうに、一応ランボーへの手紙を入れるポストが立っていた。さて、17歳で亡くなった妹のヴィタリーと37歳で亡くなったランボーのお墓が並んでいる。 町を去る時、ランボーの生家にも気がついた。目立たないプレートがかかっていたからだ。階下は現在商店になっている。 やっぱり詩人は作品でしか評価できないなあ。生誕地とか、お墓は二の次かな、キリストとマホメットを除いて。。 シャルルヴィル・メジエール駅 ランボー記念館の外観 館内の様子 フェルナン・レジェの挿絵入りの「大洪水の後で」 墓地の門 入り口のランボー宛ての手紙入れ ランボーと妹のお墓 ランボーの生家 ランボーの遺品 |
ランボー・ドキュメンタリー
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フランス2のニュースでアルチュール・ランボーの30歳の頃の、これまで知られていなかった写真が新発見されたということを知りました。以下は報道の内容です。 詩人アルチュール・ランボーの新たな写真が発見されました。これまでは夢想する青年ランボーの姿を捉えたイメージだけが焼き付けられてきましたが、大人になったランボーを捉えた新たな写真がこのほど真性と鑑定されました。 別人を思わせる男性が写し出されています。 この2年間、専門家たちが関心を傾けていた写真です。セピア色を帯び、1880年に撮られています。イエメンのホテルのテラスで7人が写真に収まっています。右側に少々尋常ならざる風貌のランボーとおぼしき男性がいます。十分ありうることです。1880年、放浪の旅に出たランボーはアデンに滞在していたからです。 2008年、二人の書籍商がフランスのとある古物商からこの絵葉書ほどの小さな写真を買い求めました。その後、外観比較が行われ、顔立ちといい、髪の生え具合といい、まさしくランボーだったということです。 これまでランボーの写真は8枚しか存在せず、特に呪われた18歳の詩人の写真が知られています。1880年、ランボーは文学から遠ざかり、アフリカへと旅立ち、コーヒーの商人、象牙、武器の商人を転々としました。 |
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イザベル・ランボーのこのデッサン《1891年夏にロッシュにて》はロッシュの農家の二階の一部屋での彼 女の兄の苦しみの床の様子を表した鉛筆によるスケッチである。個人コレクションとして保管されたま ま、今日まで一度も出版されたことはなかった。1938年に、ベリションの二番目の妻(そうして寡婦)が スーツケースの中に入っていたランボーの遺品を全部まとめて書籍商のアンリ・マタラッソに売却した。 彼はその一部をボナパルト通りの同業者ジャン・ロワズに転売した。その人がまた、数人の収集家に数々 のセットを売却した。このデッサンは他の二枚の同じ出所の資料の中に加えられていた。その一つは死に 瀕したランボーがカトリック信仰に戻ったことをイザベルが母に報告する1891年10月28日の有名な手紙 の、彼女自身の手になるコピーである。 2006, Éditions Phébus, Paris, Jean-Jacques Lefrères 《FACE A RIMBAUD》より
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イザベル・ランボーは兄のロッシュでの人生最後の年の肖像を《記憶によって》描いた。東洋風の衣裳に 身を包んだすでに脚を切断した36歳の詩人はアビシニア(エチオピアの別名)のハープを抱えている。と はいえ、このハーピストは二本の脚を自由に使っているので、これは、ランボーのアビシニアにおける想 像上の絵であることを意味しているのではないかと考えさせられる。ところが、実はこのハープを弾くラ ンボーの姿はE・ロンジャの描いたアビシニアのハープ奏者の絵の模写に過ぎないのであり、このロンジ ャの絵自体がシュフヌー氏とオードン氏による写真に基づいて描かれたのである。イザベル・ランボーは オリジナルの絵のアビシニア人の顔をランボーのそれと置き換えたのである。 2006, Éditions Phébus, Paris, Jean-Jacques Lefrères 《FACE A RIMBAUD》より
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トマス・ブランシェのこの版画は1884年4月に刊行されたヴェルレーヌの『呪われた詩人たち』を名高く した。この画家は1871年にカルジャによって撮られた写真から着想を得た。1886年に出版された『イリュ ミナシオン』を紹介しながら、フェリックス・フェネオンは『サンボリスト』の第一号の中でこの肖像を 思い起こしていた。 ついに出版された作品が大勢の人々を熱狂させ、他の者たちをひどく驚かせている一方で、人間としての彼は漠然とした存在になってゆく。すでに彼の実在は疑問視されており、ランボーは象徴派の上の神話の闇をさまよっている。しかしながら、1870年頃には人々は彼と会っていたのである。数々の肖像が彼を不滅にしている。写真はそれを不動にし、ブランシェ氏はその写真に基づき『呪われた詩人たち』に差し込む肖像を彫ったのである。 2006, Éditions Phébus, Paris, Jean-Jacques Lefrères 《FACE A RIMBAUD》より
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