女の子は大学に入学したばかりの頃がいい。ちょうど桜が満開になる時期に、学食とか、門の辺りとか、あるいは授業の終わった教室の一か所にかたまって、大空をつんざくような声でけらけら笑って、はしゃいで、浮き浮きしている瞬間に、彼女たちほど青春の、生の躍動の短さを身をもって教えてくれる存在はない。彼女たちは花を咲かせる一方でひらひらと花弁を散らせて痩せ細ってゆく桜のごとく、あるいは暗い空に色鮮やかに閃く花火のように、きらきらとした束の間の輝きを、錯綜とした人格の美しい表面を、誰にでも笑顔で分け与えてくれるのである。それが大学院生にでもなろうものなら、彼女たちからは腐食した銀のごとく一切の輝きが消え、頭の中には死者たちの偉業やら、知識の亡霊が渦巻いている。 大学生の時から付き合っていた女の子が大学院生になって、初のデートをしたとする。この時期なら、たいていは花見というお定まりのコースとなるだろう。老若男女、誰もが同じことを考えていて、桜で定評のある庭園や公園はどこも人で賑わっている。上野公園でも、青山墓地でも、代々木公園でも、新宿御苑でもどこでもいい。 4年前だったら、彼女はこう言っただろう。 「わあ!! きれい!!」 でも、今の彼女はこう言うのだ。 「ちょっと人が多いわねえ。誰もいない時に一人で歩いてみたいのよね。木の名前とかもメモしておきたいし。ベンチに座って一日中読書していたいわ」 花見の後は、またもお決まりのカフェでの休憩というコースである。 桜のシフォンケーキとコーヒーを注文して、今度はいつ会う? とか、何しに行こうか? という話題になる。 4年前の彼女だったらこう言ったはずだ。 「わあ!! 美味しい!! また来ようね!! う〜ん、わたし、どこでもいいよ。桜庭クンの行きたいところにしようよ」 ところが今の彼女はこう言うのだ。 「あなたが就職してしまってから、会えるのって、土日だけでしょ? わたし、土曜日は大学行くし、日曜にはゼミで発表することの準備で忙しいのよね。遊んでいる暇なんてないのよ。だから、もう会うのやめにしない?」 |
断片小説
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前半を書いてからずいぶん時が経ってしまいましたが、どうにかこうにか書きあげた渾身の後半をお贈りしたいと思いますジュディットははっと眼を見開き、恐らく自分が、夢見るような遠い眼差しをしていたことに気がついて、かすかに羞恥に駆られたのだった。そうして、弟の視線から逃れようと、無理やり窓の向こうに眼を移した。息も乱れ、鼓動もかすかに早まった。 「ああ、これこそ、あらゆる観念も利害関係も超えた純粋な美への愛に違いない…!」 と咄嗟に彼女は思った。弟であろうが、構わなかった。彼女は彼を愛したのだ。美の概念としてではなく、普遍的な快感をもたらす美そのものである彼の姿を。一方、アルチュールは姉の眼が古く沈んだ色をした運河沿いの館などを眩くように映しつつ、あっという間に青空の深遠に吸い込まれてゆくのを眺めていた。そこに白い館に反射した太陽のかけらが忍び入り、今しも濃い碧とオリーブ色とがマーブル状に渦を巻いて透けはじめた。長く密な睫毛の影を宿しているせいか、よくよく眺めない限り、普段はそれほど光を透すとは想像もできないのだった。アルチュールは姉を讃美したかった。そうして、言葉を探りつつも、ふたたび姉の顔に影が覆いかぶさり、その眼が神秘に沈むのを、相変わらず、強い驚きをもって見詰めていた。崇高な深淵でも覗き込んでいるかのように。 この束の間の緊張をほぐすべく、大きな場面転換を促したのはジュディットのほうだ。彼女は窓に寄りかかるように身を寄せて、 「ヴィットリオ、小広場のほうに戻ってくださる?」 と、極地を漂う流氷のごとく海面とすれすれに浮かんでいる小舟を、船尾に佇み、黙々と音もなく波間に滑らせている船頭に声をかけた。 ワーグナーの一行が束の間の逗留を愉しみ、音楽と詩の朗読の夜会に明け暮れている薔薇色の館は大運河を挟んでサン・マルコ小広場の対岸にあった。 水面から次第に姿を現して館の正面の三連のアーチへと導かれる白大理石の石段に、そこに横付けにされたゴンドラより降り立った時、アルチュールは初めて姉の姿を目の当たりにした。高く結った淡い栗色の髪。そのよく締まった腰からは、緑の襞で縁取られ、インド風の小花の散らされた白い絹タフタのスカートが優美な釣鐘型の曲線を描いて膨らんでいた。いったいあの狭い船室でどうやって折りたたんでいたのだろうと彼が不思議に思ったほどだ。まるで孔雀か揚羽蝶ではないか。ジュディットはまた、想像していたよりは小柄で、一方、ゴンドラに揺られている間じゅう、ポプラのようにすらりとした長身を持てあましていたアルチュールは、姉よりほとんど頭ひとつ分くらい背が高いのであった。 館からは、大気に拡がり満ちる香のように、ピアノの音色や熱をもった艶やかなテノールの声が漏れ聞こえる。 「リヒャルトの声だわ」 ジュディットは黒曜石の閃くごとく滑らかに眸を輝かせた。突飛な計画が脳裏を過ぎったのかも知れない。 姉と弟は金の塗られた蔓草模様やひどく盛り上がったストゥッコのアカンサスで飾られた淡い薔薇色の廊下を通され、やがて丸彫りの天使たちが戯れる天井の真下にやって来た。天使の一つが微笑みながら八角形のランタンを掲げており、アルチュールのプラチナがかった捲いた金髪やら、ジュディットの蒼ざめたような白い額やうなじに、神々しい、柔らかな黄金の光を投げかけた。アルチュールには北方の血が混じっているのである。 刳形彫刻の施された分厚い扉が開けられると、奥行きのあるサロンには、まだ宵にもならぬうちから、ワーグナーと少しでも縁を結ぶことのできた幸運な人々や、彼の芸術や人となりを恋い慕う婦人たちが、すでに大勢詰めかけてきているのだった。大きな風景画の飾られた壁の前に明るい胡桃色をしたピアノが一台置かれていて、リヒャルト・ワーグナーはその前に座っていた。若い弟子たちや最も近しい友人たちが彼を取り巻くように長椅子や凝った背もたれのある肘掛椅子に座っている。立ったままピアノを覗きこんでいる頬髭の青年もいる。ワーグナーはちょうど《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲を弾こうとしていたところだ。 どこか不安定で、胸の掻きむしられるような、永遠の夜へ、涅槃へと誘う響きが、探るごとき、か細い和音によって奏でられた。ジュディットとアルチュールはたちまち胸を熱くして顔を見合わせた。だが、二人の姿に目ざとく気がつくや、ワーグナーは、不意に演奏を中断し、紺ビロードのゆったりとした上着に包まれた一方の手を二人に向かって鷹揚に差し上げる。それから、いかにも敏捷な様子で席を立つや、呆気にとられている友人たちをかけ分けて、足早に歩み寄ってくるのであった。 「おお、ジュディット、よく来てくれたねえ…!」 彼はジュディットを抱きしめ、両の頬に情熱的な接吻を贈った。 ワーグナーは小柄で、すでに初老であった。だが、決してそうは見えない。彼の上半身から絶えず発散されてくるある種の光輪のごとき熱気が彼を若々しく、ひとまわり大きく見せているからである。あるいは、ルネサンスの貴族にも匹敵する豪奢な衣装や、自信に溢れた堂々たる物腰のせいなのか。それはダンスなどで習得した優雅な身のこなしとはほど遠く、むしろ生来の機敏さと男らしさ、激情に翻弄される芸術家に特有なものであった。 それから、ワーグナーはふと霊感に打たれたような眼差しをアルチュールに投げかけると、その空色の生気溢れる眼をきらきらと悪戯っぽく輝かせ、朗々たる声でジュディットをからかうのだった。 「今宵はローエングリンをご同伴だね、エルザ!」 自ら書いた楽劇の英雄、白鳥に曳かれた小舟に乗って現れた凛々しき気高き聖杯騎士ローエングリンにアルチュールの颯爽とした姿を重ねてみたのである。すると、ローエングリンを愛した大公の娘エルザの名で呼ばれたジュディットは軽く身をのけ反らし、誇らかに笑った。 「弟のアルチュールですわ。わたしの母は君よ知るや南の国の生まれで、アルチュールの母は北国の、聖杯の城の彼方より来ましたの。私たちの血は近いようで、ひどく遠いのですわ」 「二人は対極の美を具現しているね」 ワーグナーは半ば冗談を飛ばしているようで、ちらと真顔になって、 「でも、内面ではとても通じ合うものがあるようだね」 と言った。それから、改めてジュディットと芸術家同士の挨拶を交わすのであった。 「書いているかい、ジュディット?」 「ええ。中国の古い詩を翻訳しましたの。『翡翠の歌』と名づけましたわ。パリに戻ったらすぐにお贈りしたいのですが、スイスの住居に宛てたらよろしいのかしら?」 巨匠に対等の立場で話しかけられたにもかかわらず、ジュディットが少しも物怖じする気配がなかったので、アルチュールは素直に誇らしく思った。 ところが、驚いたことに、姉ときたら、大勢の貴婦人や若い音楽家たちの注目を一身に集めながらも、巨匠と連れだって堂々とピアノのほうへと歩いて行き、彼をピアノの前に座らせると、 「リヒャルト、お願いですわ。さきほどの《トリスタンとイゾルデ》を続けてくださらない?仏教的な輪廻思想が、とりわけ心の琴線に触れて、ずっと頭を離れませんの。恋人たちが死のみによって、真に永遠に結ばれるなんて…」 などと、まるで若いおかかえ楽士を相手にするようにワーグナーに演奏など所望するではないか。ワーグナーのほうも嫌な顔のひとつもせずに、むしろ夜会に彩を添えるごとく、ひどく興が乗った様子で、笑みさえ浮かべて、所望された曲を弾き終えると、続けて同じ楽劇のなかの《イゾルデの愛の死》を、自ら管弦楽部分の伴奏をピアノで器用にこなしつつ朗々たるテノールの声で歌って聴かせてくれるのであった。 「感動しましたわ!次は《タンホイザー》の中の〈巡礼の合唱〉を聴きたくなってしまいました。私、これ弾けますのよ。ねえ、リヒャルト、連弾していただけたら嬉しいわ」 そうして、どこからか運んでこられた優美な小椅子をリヒャルトの椅子の横にちょこんと並べるや、当然のごとくそこに納まり、勇壮な曲に相応しく両手を高く持ち上げ、いつでも合わせられると言わんばかりに、背筋を伸ばして顎を反らせて構えるのだった。実際、二人は息の合った連弾ぶりを披露し、多くの人から賛嘆の声を浴びせられた。それで、さらに気を良くしたのか、ジュディットはあの緻密なイタリアの眸に蠱惑的な笑みを宿し、ぐるりを見まわすと、その眼でワーグナーに目配せするような艶めかしい眼差しを送るのだった。 「今度はあの曲を…」 そう言い終わらぬうちにも、二人は絶妙な相性によって、到底初めて合わせたとは思えないほど見事な連弾をやってのけた。それは《ローエングリン》のなかの〈婚礼の歌〉に他ならなかった。ジュディットは身体の動きまでも、ぴったりと巨匠に合わせ、全身全霊で高雅な夢を奏でている。 「ああ、私の心のマイスター様、今度は《タンホイザー》のなかの〈夕星の歌〉が聴きたくなってしまったなんて囁いたら、あなたはお怒りになられますか?連弾?それとも、ああ、どなたか、いぶし銀のようなバリトンの声で歌ってくださらないかしら?あの胸に秘めた、狂おしい恋の歌を…」 その時だった。アルチュールは自らの背後からその背や胸を貫いて、なお弱まることもなく、ジュディットに向かってはっきりと意志を伝えようとする射すような眼差しを感じたのであった。そっと振り向くと、上品な夜会服の婦人たちに混ざって、赤褐色の巻き毛に彩られた面長の白い顔が、灰色がかった淡い紫の眸をじっとジュディットに注いでいるではないか。それはガス燈の焔のように、透明で仄暗く、ぱっと輝きもしない静かな憂愁に満ちた眼差しであった。にもかかわらず、魂の強い意志と強烈な内面とをどんな言葉を発するよりもはっきりと響かせていたのであった。 「そうか、あの人はコジマ・フォン・ビューロー男爵夫人に違いない…」 ワーグナーとその愛人の噂はミュンヘンあたりから絶えず聞こえてきていたので、アルチュールの耳にも届かぬはずがない。二人はスキャンダルを逃れるためにも一緒にイタリア旅行をしていると聞いたこともある。アルチュールのその時の印象によると、ビューロー夫人はひどく内向的で夢想的なドイツ女性であった。わが姉ジュディットとはまさしく正反対である。アルチュールは女たちの間の波瀾をちらと予感したけれど、ジュディットはフランス的な勝気さと並はずれた個人主義によって、無益な闘争を回避した。 「もう宵ね。運河の風が心地よさそう。夜をいざなう詩弦に吹かれてまいりますわ。さ、アルチュール、いらっしゃい」 ジュディットはさっとアルチュールの手を引いて、薄い紗の布を身体に巻いたサロメが舞うごとく軽やかに身を踊らせると館を後にして、待たせてあったゴンドラに飛び乗るや、黄昏の運河に黒い影絵みたいなシルエットになって吸い込まれてゆくのであった。 |
巨大地震と、未曾有の津波と、放射線問題と、将来の直下型地震などのことをぐるぐると頭の中で考えてばかりいた結果、3.11以来、とても小説を書くような気になれなくなった。とりあえず、前半だけは書いておくことが出来たのでここでアップしてみようと思う。後半はしばらく間が開いてしまうかもしれないけれど、これは是非完成させたい美しい作品だと思うので、必ず近い将来アップしようと思っています。 ヴェネツィアにリヒャルト・ワーグナーが逗留している、という風の便りは、銀色に輝く外洋のほうからではなく、灰緑に煙る大運河の奥のほうよりもたらされた。 湿った、腥いような潮風に頬を撫でられ、アルチュールは、はや小一時間ほどサン・マルコ小広場のもっとも縁の、ひたひたと海面の迫り来る石畳に佇んでいたのであった。足許には、海に落ち、呑みこまれてゆく石段と、漆黒の首を、雲を吸いこむ水平線に踊りかからんばかりに連ねている客待ちのゴンドラがあった。 それらに、屋根が一様に黒布で覆われた小さな客室がしつらえられているさまは、アルチュールの脳裏に、ほんの一瞬、黒死病に見舞われたいにしえの都の不吉な幻影を呼び覚ました。まるで、岸辺に流れ着いて、揺籃のごとく波にあやされている柩のようではないか。 彼の碧い眼差しは宙に向けられ凝固し、それから、必然的に、いかにも投げやりな諦観に満ちた思考へと導かれた。 「もう姉は来るまい。ぼくは担がれてしまったのだ!異母姉だって?それもジュディット・ゴーティエという作家の卵だそうだ」 一度も顔も見たことがないばかりか、その存在さえ、17歳になる今日まで親族の誰からも語られたことがなかった。晴天の霹靂のごとく舞い込んだ一通の手紙のことを、彼は家族の誰にも語らず、半年もの間、胸にしまいこんでいたのであった。 「わたしは指環を亡くしたシャクンタラーのような気持ちでおります。指環の呪いであなたはわたしのことをお忘れになっていらっしゃいます。いえ、最初からご存知ないのです…」 東洋の奇想に霊感を見出し、中国や日本の古典や伝承からも想を得て、壮大な宇宙の神秘を詩に託して築き上げようとしているのだという抱負をもジュディットは彼に情熱的に伝えてきた。ワーグナーへの並々ならぬ傾倒も。それが同じ芸術家を崇拝している彼の共感を呼び、真実を見極めるべく、夏休みの終わるころ、ヴェネツィア行きの長距離列車の客となった。 だが、馬車の一台すら通行することを禁じられている都には、それらの行き交う軽快かつ威嚇するような響きがあたりの沈黙を破ることもなく、広場をそぞろ歩くご婦人がたの話し声や足音はといえば、運河の水面に吸い込まれていってしまうのだ。 都は死の静寂に瀕している。 その時、柔らかな音色が、ホルンやトロンボーンの溶け合った金色の和声と旋律が、大運河を渡ってこちらのほうへ、風にたなびく紗の帯のように漂ってくることがなかったら、彼はもうサンタ・ルチア駅のほうへと踵を返してしまっていたことだろう。 「ああ、あの響きは、タンホイザー序曲ではないか。大運河沿いのどこかの館にワーグナーが逗留しているのだ!オーストリア軍の軍楽隊が彼のためにセレナードを奏でて歓迎しているに違いない」 サファイア色に抜ける大空のもと、大きくうねった運河の曲がり角より、大型のゴンドラが、その上に三列に並んで立っている軍楽隊の白い制服と金色の楽器をぴかぴかと輝かせながら姿を現した。ヴェネツィアの人たちはと言えば、音楽には大いに関心をそそられつつも、占領軍の吹奏に向ける眼差しは冷やかそのものである。 金管楽器ばかりによって奏でられた管弦楽というのも、どこか厚みに欠けて物足りない印象があった。にもかかわらず、アルチュールのなかでは、狂おしいばかりに憧憬の感情が掻き立てられ、次第に気分が高揚してゆくのであった。 沖に向かって、ぎらぎらと無数に鬩ぎ合う銀の波頭を背に、一艘のゴンドラのなかから突然、漆黒の痩せた影絵のようなシルエットが立ち上がって呼びかけてきた時、ようやく彼は我に返った。 「お若い方、さあ、お乗りなさい」 そう声をかけてきたのは、長い、一本だけの櫂を巧みに操るゴンドラの船頭にほかならなかった。それから、黒布で覆われた客室の窓より、レースのたっぷりついた袖口に包まれた白い手が、まるで柩の蓋を持ちあげるようにすっと現れ、彼に向って振られたのであった。 「アルチュールでしょ?」 凛と冴えた、いかにも勝気な声が、抑制された熱狂に打ち震えて彼の名を口にし、暗い影によって織りなされた帳の奥から、ほっそりと顎の尖った卵型の顔の輪郭やら、鶴のように優美な首がぼんやりと浮かび上がって見えた。 「ジュディット…姉さん?」 吸い寄せられるように客室に滑り込むと、天井の迫る、海に捨てられた小箱のごとき一室で、アルチュールは初対面の姉とたちまちぴったり寄り添って座る羽目になった。他の姿勢など選択する余地もなかったので。 「よく来てくれたわ。突然のことで、驚いたでしょう?」 約束の時間よりずいぶん遅れて来たことなど、彼女の念頭にはかすかにもなかったようだ。文通を重ね、すでに多くを語り合ってきたせいか、彼女の口調は馴れ馴れしいほどに親密であった。弟のほうはと言えば、緊張のあまり、ほとんど息も止めんばかり。それから、言葉を発するために吸い込んだ空気が、くらくらするほどなまめかしい麝香の香りで彼の鼻腔を、肺腑を満たしたので、彼はすっかり心地よくのぼせてしまった。 「い、いえ…ぼくのほうこそ、姉さんに一目でも会いたくて、ヴェネツィアでひと夏を過ごしていると知るやいなや、矢のように飛んできてしまいました…」 姉がくすっと笑った。弟のほうは眩しくて、まだ姉の姿を直視することが出来ないのだった。ようやく、伏せた目をそっと上げ、ちらと盗み見るように姉の横顔を見た。小さな窓から放射状に溢れてきた青い光のなかに、古代ギリシャ彫刻のごとく精緻に彫られた瑪瑙のカメオの顔が、輪郭を純白に輝かせた逆光のシルエットとなって浮かび上がった。彼女はイタリアの歌姫の母とフランスの詩人の父の血を引いているのである。 姉の優美な姿の向こうに風景が断片的に流れ去ってゆく。 石のレースのバルコニーに取り巻かれた薔薇色の館だとか、尖塔アーチと半円アーチが交互に並び正面を飾っているムーア風の宮殿、水の紋を常にちらちらと閃かせた白亜の大理石の館だとか、窓の上に石の透かし彫りの装飾を戴いたゴシックの壮麗な館。姉弟を乗せたゴンドラはサン・マルコ広場からみるみる遠ざかり、大運河をリアルト橋の方向へと滑ってゆく。 「ワーグナーが来ているね」 次第に彼方に霞んでゆく金色の音に懐かしむような視線を遣りながら、弟は唐突に言った。すると、姉 の艶やかな真紅の唇の周りにたちまち大きな微笑が拡がってゆき、その碧緑の眼は、 「会えるわよ」 と、悪戯っぽく彼の顔を覗き込む。 「本当に?」 弟が思わず声を上擦らせたので、姉はこれまで一度も手紙にも書いてくれなかった秘密を、ワーグナーとのそもそもの出会いの発端となった勇壮果敢な行為について、実に活き活きと眼を輝かせながら語ってくれるのであった。 「61年にパリで《タンホイザー》が上演された時、16歳だった私は父と一緒にオペラ座に招待されたわ。でも、オペラは失敗だったの。バレエも挟まれていなかったし、パリの習慣には馴染まなかったのね。口笛が鳴らされ、ひっきりなしに野次が飛んだわ。ワーグナーを敬愛するわたしは、ひどく興奮して、怒りに燃えた目をして周りを見回していた。だって、わたしには、作品の本当の価値がはっきりと分かったんですもの。すると、シニカルな冷笑を湛え、居丈高に腕組みしているベルリオーズの姿が目に入った。わたしは席を立ち、つかつかと彼の目の前に歩み寄って、言ってやったわ。『あなたにはこの曲の真価が分からないのよ。ええ、下手に歌われれば、確かに酔っ払いの独り言ね。まして、聖と俗の、官能と清らかな愛の対立のテーマなんて、大衆には理解されもしないでしょう。でも、そこにこそ、微かでもバランスが崩れると形にならないある種の脆さを秘めた天才の閃きがあるのではないかしら?』って。ベルリオーズは、ひどく動揺したようだった。でも、何も言わなかった」 その時、船頭が喉を絞るような鋭いしゃがれ声の合図を発したと思ったら、ゴンドラはくるりと向きを変え、大運河から網の目のように入り組んだ運河の一つに入っていった。頭の上には、小さな橋がいくつも遠近法的に重なってゆくのが眺められたが、それらの橋はどれ一つとして同じ様式をしていない。錬鉄が蔓草のように絡まった優雅な欄干で飾られた橋の下を潜った時、ジュディットは、枝から枝へと飛び移る鶯のごとく軽やかに身をよじらせ、素早くアルチュールの頬に接吻するのであった。そうして、 「会えて嬉しいわ。写真で見るより、はるかに美男子ね」 と、誇らかに言い添える。もっとも次の瞬間には天真爛漫な気まぐれぶりを発揮して、 「…ねえ、ずっと、舟にいることにしない?このまま夜まで、ううん、明け方まで、こうしてゴンドラに揺られながらお話しないこと?」 などと言いだす始末である。 「でも、ワーグナーさんは?招待されているのでしょう?」 弟のほうは、いささか不服そうな上目づかいで姉を見た。
後半に続く |
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銀色に光るドナウ運河の向こうに、城壁のめぐらされたウィーンの都が蜃気楼のように浮かび上がった。街の中心には古代の森の記憶を黒々と留めた鱗木のような尖塔やら、小尖塔に取り巻かれた正面の一対の塔を引き連れたシュテファン大聖堂が立ち上がる。その急勾配のモザイク屋根は、ペルシャのキリムのような幾何学模様と鷲の紋章を陽光につややかにきらめかせているのだった。 額に玉の汗を光らせながら、森を抜け、谷間や丘を昇り降りし、川を渡って、さながら巡礼のごとき行程の果てに、このゴシックの亡霊が次第にくっきりと、白く輝く真夏の空を背に、威厳をたたえて目の当たりに迫ってくる頃、アーダム・リストはいつも決まって10歳になる息子のフランツに言葉をかけた。 「アルプスの彼方、故郷のレニャーゴから遥か離れて、サリエリ先生はまこと景勝の地に終えの住処を見出された。今や放浪の身も同然のわれらとて、いつかは、ウィーンなりパリなりに居を構えることもあるだろう。おお、それにしても、われらの故郷ライディングの寒村ぶりと来たら…」 「お父さん、ぼくたちで故郷に栄光を飾りましょう。アレクサンドロス大王だって何もないところにたくさん都を建てたではありませんか」 まっすぐな金髪をちょうど耳を半ば覆うところまで垂らし、この年齢にしては珍しい賢者のような深みを湛えた碧玉色の眼を無邪気に輝かせ、少年は澄みきった声で答えた。父はこの息子の、早熟の証たる才気煥発と早くも兆した志の高さに目を細める。 サリエリ先生はまことウィーンの中心に住んでおられた。ザイラーガッセ通り1088番地の、一対の女人柱に支えられた優美なアーチをくぐってゆくと、がっしりしたトネリコの扉に突き当たった。呼び鈴を鳴らすと、青いタフタのお仕着せに身を包んだ召使が出てきて、名を告げると、親子はただちに金色のアカンサスやら貝殻模様で装飾された、眼の醒めるような白壁のサロンに通された。蔓草模様の透かし彫りの譜面台のついた胡桃色のピアノが高い窓際に寄せてあった。 オーストリア皇帝の宮廷楽長アントニオ・サリエリは褐色の肌をした小柄な老人であった。齢72を数え、フランツ・リスト少年がその最後の弟子たることはまず間違いないだろう。 サリエリ老は部屋の央ほどに置かれた、蓋の内側にも箱の周囲にも牧歌的な風景画の施された柔らかな朱色のチェンバロの前に座っており、リスト父子の姿を見るや、たちまち黒い眼をきらきらと嬉しそうに輝かせ、快活に語りかけてくるのであった。彼は才能のある弟子を心より愛していた。無償で教え、その行く末にも進んで気を配る。 「おお、フランツ、元気かね?さっきまでシューベルトが来ていたよ。昨日は、ベートーヴェンと食事をした。さあ、カノンを始めようか!」 それは、10歳の少年に話しかけるというよりは、気のおけない宮廷楽士の一人にでも語りかけているかのような調子であった。だが、親子の顔から疲労の色が滲み出し、その真っすぐな額や形のよい鼻の周りには乾いた汗が粉を吹いたように浮かんでいるのを素早く見てとるや、ひどく仰天して眼を曇らせた。 「この暑いのに、馬車にも乗らずに徒歩で来たのかね?あんなに遠くから!」 フランツ少年がほんの一瞬、かすかに困惑した眼差しを父親に投げかけたことから、サリエリはすべてを悟った。ニーコラウス・エステルハージ公に仕える一役人であるこの父親はウィーンの街なかに逗留するほどの金も持ち合わせていないのだろう。馬車代も節約して郊外から何時間も歩いてきたに違いない。 「おお、そうだ!」 サリエリは父子に部屋の隅にしつらえられた美しく湾曲した細い脚のついた長椅子を勧めた。その前を、さらに大きな曲線を描く脚で支えられた白い四角いテーブルが占めていて、そこには色とりどりの小花や貴婦人の姿の絵付けのされた優雅な磁器の箱がいくつか無造作に置かれていた。容器の中からは糖衣でくるまれたアーモンドやピスタチオのドラジェが今にも香ばしく匂ってくるようであった。ほどなく、先ほどの召使が、貝殻の形をした銀器に盛り付けられた、さまざまな果実の香りのするシャーベットを運んできた。 さて、父子の長旅を労いつつ、サリエリがあれこれ問いただすと、アーダム・リストは、息子の類まれな楽才を世に知らしめるために必要とされる多額の出費について既にエステルハージ公に詳細を述べ、奨学金を出してくれるよう嘆願の手紙をしたためたものの却下されたということを涙ながらに語るのであった。 「一流の音楽家になるためには、ピアノや作曲を学ぶだけではなく、音楽には欠かせないフランス語とイタリア語を習得し、数々のコンサートやオペラ、音楽の夜会に行き、旅をしなければなりません。それらは服や楽譜や本を買う費用を、いや、家賃や薪代を計算に入れなくてもフランにして年間1300から1500フランの出費となるのです…」 とうとうサリエリは言った。 「よろしい。わたしからもエステルハージ公に手紙を書きましょう」 自らも14歳にして孤児となった寄る辺なき身を、ヴェネツィアのオペラの庇護者たるモティゴーネ一家に引き取られ、かの都で浴びるほど劇場に通い、音楽家に必要なあらゆる教養を身につけたのであった。だから、彼はただちに思い立った。この少年にも人生のめくるめく転機が訪れる機会を提供してあげようではないか。 「サリエリ殿…」 アーダムは深く頭を垂れた。それから、美辞麗句を連ねて感謝の言葉を述べる代わりに、紺色の眼差しには実直なほどの真摯な感応を漲らせ、力強く相手を見詰めて言うのだった。 「わたくしは、あなた様を信じております」 この言葉を耳にするや、幾筋もの皺の刻まれた老音楽家の顔はほんの一瞬こわばったように見えた。その黒い眼はただちに深い悲しみの光で曇った。彼はがくりと肩を落とし、 「そうでしたか。あなたの耳にも入っていたのですね」 と独りごちるように呟くのであった。 「いえ、あの、わたくしは、はい、断じて、噂を信じないほうですから。あんな根も葉もない…!」 自ら口走った言葉の衝撃の大きさにアーダムは愕然とし、にわかに口の渇きを覚えた。すっかりしどろもどろになって、色白の顔をすっかり赤面させ、眼を泳がせる。その視線の端では、息子のフランツ少年の金色の髪がさらさらと揺れている。彼は一心不乱に五線紙に音符を書きつけているのであった。先生に与えられたカノンの課題と取り組んでいるのである。拍子をとるように頭をかすかに揺さぶりながら。 その様子を微笑ましく思ったのか、父親の慌てぶりを可笑しく思ったのか、サリエリは突然声を立てて笑った。それから、妙に打ち解けたらしい雄弁な調子になった。 「あるとき、あのロッシーニがわたしを訪ねてきましてね。彼はここでは今や飛ぶ鳥を落とす勢いなのですが、いきなり面と向かって、こう訊くのですよ。──あなたは本当にモーツァルトを毒殺されたのですか?とね。いや、正直、面食らいましたよ。彼はなかなか感じのよい青年だったのですけどね。もちろん、わたしは、ただちに言ってやりましたよ。わたしがそんなことをする人間に見えますか?とね。彼は、大げさに首を振り、いいえ、と答えたものだよ」 その時、教会の鐘楼の鐘の音が町じゅうに響き渡った。アンジェラスの鐘である。そうして、少年がふと手を留めて、天を仰ぐように顔を上げ、恍惚とした表情を見せたのをサリエリは見逃しはしなかった。口にこそ出さなかったが、彼は心の奥で予知したのだ。──この子は恐らくオペラなど書くまい。それにはあまりにも宗教的すぎるから。 教会の尖塔が薔薇色の舗石に長い闇色の影を落とし、ウィーンの街じゅうが物憂い黄昏の澱に包まれる頃、アントーニオ・サリエリ宮廷楽長は召使を外にやって、リスト父子のために馬車を呼んでくれたのであった。
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ロシアの民話の蒐集家であり、ロシア中世の物語を折り目正しくも美文調なる日本語に翻訳されたり、ロシアのみならず東欧の文化にまたがる研究書をすでに何冊も出版されているN教授は、授業の合間に、しばしばロシアの芸術歌曲〈ロマンス〉をそれはそれは印象的な心に沁みるテノールの声で歌ってくださったものだった。チャイコフスキーの《ただ憧れを知る者だけが》を歌ってくださったこともあれば、プーシキンの韻文小説にもとづく歌劇《エフゲニー・オネーギン》のレンスキーの歌を歌ってくださることもあった。ピアノの腕もすこぶる巧みな上に独特の崇高な感情を込めることに長けていらして、自らの歌唱の伴奏をもいつも見事にやってのけられる。 教授の授業に接する者は誰しもたちまちエキゾティックな民話の世界に精通したような魔術にかかり、同時にいにしえの大歌手シャリアーピンのコンサートにでも臨んだような豊饒な歓喜を味わったものだった。 ある時、教授が口許に皮肉の笑みを浮かべて、ふと漏らすのだった。 「まあ、わたしの研究室に来た人は知ってるだろうけど、本の山で足場がありません。わたしの自宅も同様でしてね」 その話は聴講者たちの間にちょっとした笑いを誘った。 「研究者の定めでしょうね。次から次へと本を買ってしまう。すると収納の場が必要になりますね。パイン材などの立派な本棚をしつらえる。マホガニーや胡桃材のアンティーク書棚などに手を出してみる。だが、それらもすぐ満杯になってしまう。また、新たな本棚を用意しなくてはなりません。とうとう家を増築しなければならなくなります。広大な敷地に増築に増築を重ねて迷宮のような屋敷にするのもいいでしょう。しかし、それは誰にでも許されたことではありません。ま、そんなわけで、近年、電子書籍なんてものが登場しましてね、これならスペースはとらず、皮表紙の古書を目の玉の飛び出るような値段で買う必要もありませんね。まあ、世の中、次第に余計な装飾を削ってゆく方向にあるわけです。そういえば、昔は弦楽四重奏曲なんて聴きたいと思ったら、演奏者を4人も雇って、トロイカやら馬車代やら食事やら宿泊に心を砕かなければならなかったけれど、今はCDで、いや、さらに軽量なもので事足りるわけでしょう。蝋燭を何千本も使った壮麗なシャンデリアは一個の電球になりました。一見、平等化が進んでいるようで、わたしにはどうも味気ない寂寥たる未来を透視しているような気がしてなりません…」 講義が終わると、わたしは暖房の効きすぎた階段教室から木枯らしの舞う一月初旬の舗道に放り出された。高田馬場界隈の古書店街を散策する。ひなびたビルディングの底に沈む、ガソリンの匂いで息が詰まりそうになる交差点で新鮮な空気を呼吸するように大空を見上げると、南西の空高く、細く刺すような三日月が白くこうこうと輝いていた。 硝子張りの、少々モダンな外装のほどこされた一軒の古書店に足を踏み入れる。そこで40年も前に出版された、すこぶる凝った装丁の本を見つけた。 |




