奇想の庭(復活そして昇天)

19世紀末から20世紀前半のロシア文化を駆け巡り、拾い集め、組み立てて、発見する・・・・・・

ペテルブルグ留学記

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ある日、特に買い物をするわけでもなく、遠出をする予定もなく何となく近所の建物を眺めながらぶらぶら歩いていた。すると、18世紀や19世紀の建物とは明らかに違う、バルコニーや窓や屋根にどこか風変りな、洒落た特徴のある興味深い建物に出くわした。偶然、二人のロシア女性も散歩をしており、その建物に気がついた。「あら、モデルンよ」「本当ね、モデルンだわ」と二人は言いながらしばらく建物を眺めている。私は写真を撮ろうかとも思ったのだが、残念なことに、植物のつる草のような模様の素敵なバルコニーにどうでもいいエアコンの室外機が設置されていて、何とも興ざめな雰囲気だったので、カメラを向けることはなかった。ところで、一般にペテルブルクは防寒対策は完璧で、バッテリーと呼ばれる装置で、フラット中を熱湯が回り、冬は部屋もキッチンも廊下もトイレもバスルームも玄関も非常に暖かい。ところが、夏はさほど暑くないと思われているのか、エアコンはおろか、扇風機一台置いてない家が多い。室外機を置いている家は、夏に冷房をするということを意味しているのだ。一方、私が住んでいる家は、真夏に、かなり、暑くなったのにもかかわらず、暑さを防ぐ唯一の方法は窓を開けることぐらいであった。ところが、そうすると、遠慮なく蚊が入ってきて、一晩中、不快なソプラノで歌い続け、血のごちそうもちゃっかり持ち帰るので、部屋の住人にとっては悪夢の眠れぬ一夜を過ごすことになる。で、家の人に蚊のことを話すと、ロシア人はその程度の蚊は何とも思わないのか、レースのカーテンで一応窓を覆って、これで大丈夫と言う。しかし、当然、それで侵入を諦める相手ではないので、その後、自分たちは使わないマット式のものを買ってきてくれた。
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ペトログラード側のモデルン建築の家(現在は歯科である)
さて、時代は1903年に遡る。これまでペテルブルグの他の地域からペトロパーヴロフスク要塞のあるペトログラード側に直接行くことの出来る橋はがなかったのであるが、この年、エッフェル塔を建設したギュスターヴ・エッフェルの設計によるトロイツキー橋(三位一体橋)が5月29日に完成し、ニコライ二世臨席のもとに、華やかな開通式も行われた。これによって、マルスの野とトロイツキー広場がつながり、人々は一気に頻繁に大挙してペトログラード側を訪れるようになった。その頃ヨーロッパは、繊細で華麗で曲線的で、自然からのインスピレーションを豊富に取り入れたアールヌーヴォーの時代であり、その様式がロシアにも流入した。折しも、建築ラッシュが始まっていて、とりわけ、ペトログラード側の目抜き通りカーメンナオーストロフスキー大通りには、ロシアではモデルンと呼ばれるアールヌーヴォー様式の新しい建物が、壮麗ホテルや古(いにしえ)の王国の幻想的なパビリオンのように建ち並んだ。100年以上経つ現在はかなり老朽している建物もあるが、21世紀に至るまで、この様式を超える、イデオロギー抜きの建築の美を私は見たことがない。
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ホテル・メトロポールの壮麗なステンドグラスの天井
ペトログラード側だけではない。私はペテルブルグのあちこちで、この様式を見た。ボリシャヤ・モルスカヤ通りの、一際目を惹く華麗な建物の一つに忍び込んでみよう。階段の奇想を凝らしたアールヌーヴォーの欄干を眺めながら、登ってゆくと、そこにはステンドグラスの装飾も美しい裏窓がある。デザイナーの名はすでに迷宮入りしてしまったが、その窓はまさに1905年〜07年の間に制作されたものである。同じ時期に建設されたヴィッテプスク駅もこの美しい様式で装飾されている。ロシアでは珍しい、まるでプラハにでも来てしまったように感じられる駅であるが、そう、この駅はアールヌーヴォーの時代を生きたニコライ二世によって開通したのである。この皇帝が過ごした宮殿の書斎などは、いかにも典型的なアール・ヌーヴォー様式、つまりモデルン様式に統一されている。
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裏窓の壮麗なステンドグラス

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それぞれの踊り場に面した窓にステンドグラスが入っているが、ここに紹介した二枚が最も美しい。

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ヴィッテプスク駅

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アレクサンドル宮殿、ニコライ二世の書斎
それから、この様式はモスクワをも魅了した。お洒落なアルバート通りにもモデルン建築はたくさん見られる。最高級のホテル・メトロポールもモデルン建築から成っている。しかし、もしもロシアでこの建築の代表的な家を一軒選ばなければならないとしたら、間違いなく、誰もが、あの『どん底』の作者であるゴーリキーの家を挙げることだろう。外観も内部も、これほど典型的で理解しやすいロシア・モデルンの家を他に見たことがない。
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典型的なモデルン様式のゴーリキーの家の階段部分

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ゴーリキーの家の優雅な天井

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ゴーリキーの家の外観も典型的なモデルン様式である。
多分土曜日か日曜日のことだった。アドミラルテイスキイ大通り(旧海軍省大通りとでも言っておこう)を歩いていると、とある大きな建物の入り口のあたりに博物館があることを示す、非常に目立たないプレートが貼ってあることに気がついた。日ごろから、メモリアルナヤ・ダスカ(記念プレート)を鵜の目鷹の目で探しているので、おのずと、人が気が付かないようなところに目が向くのである。そもそも、この博物館、どんなガイドブックにも載っていない。で、プレートに書かれた情報を読んでみる。ふむふむ、おお! 何とKGB博物館ではないか! しかし、よくよく見ると、一般のオフィスのように土日は休館であることがわかった。そこで、ゴーゴリの時代からも名高い、目抜き通りのネフスキー大通り(大通りと言っても、せいぜい6車線だから、モスクワのトヴェルスカヤ通りなどに比べると、まるで玩具のように小さな通りだ)へと道なりに曲がった。また平日に出直すことにしよう。
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もうKGBが存在しなくなって久しいので、すでに国家を揺るがすような秘密もない。大統領でも、元KGB職員だったことを公にする。そもそも博物館という名の墓に入れば、それはもう機能していないということを意味するのだ。教会も「生きている教会」と「博物館になった教会」を区別している。前者は早課、聖体礼儀、晩課などのお祈りが行われるが、後者ではイコンや聖具、フレスコ画などを見学して、たいていは写真も撮ることが出来るが、決して祈りは行われないのである。
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チェッカーのメンバー。創設者レーニンの写真も。

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KGB博物館は大きくはない。4部屋しかない。だが、元KGB職員の経歴と写真がファイルになっていて、(お暇なら、いや、関心があれば)いくらでも見ることが出来るし、壁やガラスケースの中の展示とは別にさまざまな資料も見ることが出来るので、全部を見ようとすれば、それなりに時間はかかる。パラパラと(といっても、一人一人のものが金属の枠つきのガラスで保護されているので、非常に重量があるのだが・・・)元KGB職員の資料を見ていると、多くの見知らぬ顔に混ざってソビエト時代の元書記長だったアンドロポフ氏の資料があった。それなら、プーチン氏のものもあるかも知れないと思って探してみたが、これはなかった。歴代の(すでに死んだ)書記長の資料は公開できても、現役の大統領のファイルを博物館に展示することは出来ないようである。
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秘密警察署長の執務室
ガラスケースの中にはKGB職員の身分証明書も展示されていれば、いわゆるスパイ道具、盗聴器具なども展示されている。ある一室の壁はKGBの最古の原型であるチェッカーのメンバー(チェキスト)の写真で埋め尽くされていた。この機関はロシア革命直後にレーニンが創設した秘密警察組織であるが、やがて貴族、地主、聖職者、軍人、コサック兵などを根拠もなく無制限に逮捕し、次第に残虐な尋問、拷問によって「人民の敵」「反革命分子」を作りだし、大量に処刑するようになった。彼らは今も残るリテイヌイ4番の『ボリショイ・ドーム(ビッグ・ハウス)』に勤務していたが、そこの正式名称は国家保安委員会レニングラード本部である。実はKGB博物館に展示してあるものは、このボリショイ・ドームからもたらされたのである。興味深いことには、19世紀末から20世紀初頭の秘密警察署長の執務室が再現してあった。
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根拠もなく逮捕され、まず刑務所に送られる。

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ボリショイ・ドームをネヴァ川側から
さて、チェッカーはGPU、OGPU、NKVDなどと名前を変えてKGBまで続いてゆくのだが、NKVDのメンバーに息子を根拠なく逮捕された詩人の詩の中に、その様子が密かに描かれている。

「私が空色の帽子のてっぺんと
恐怖で蒼さめた管理人を見るはめになるように。」

つまり、彼らは空色の制帽を被り、深夜に人民を逮捕しにやってくる。その姿を三階の窓から見た詩人は胸が締め付けられ、アパートの管理人は、誰が逮捕されるのか分からぬまま、蒼白になっているのである。

モスクワのノヴォデヴィチ墓地を訪れた時には、チェッカーのメンバーの墓を見つけた。
1942年に亡くなったボリシェヴィクのチェキスト、シェスタコフとある。ずいぶん若くして亡くなったようなので、写真の顔とは裏腹に、内部告発で銃殺されたか、任務中に悲惨な死に方をしたのかも知れない。
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ボリチェヴィクの若死したチェキスト
【ロシアは軍事国家であり、警察の力も絶大である。現在も民主主義国家ではない】
道を歩いていると、地下鉄に乗ると、名高い広場を通り抜ける時、かなりの頻度で軍人のグループと出くわします。ある時は地下鉄の長い、長い、長いエスカレーターの上りが全部軍人で占められていました(なぜペテルブルクの地下鉄が深く掘られているかというと、ネヴァ川の下を走ることもあるので、気が遠くなるほど長い時間をエスカレーターで昇り降りすることになるのです)。男も女もカーキ色の軍服に身を固め、全エスカレーターをカーキ色で彩り、さっそうと、黙々と、誇り高く昇ってくるのです。きっと、だいたい3分おきに到着する電車数台の車両のいくつかには軍人ばかりが乗っていたのでしょう。ペテルブルクはホームも電車もモスクワほど長くないので、短い車両全部を軍人が占めていてもおかしくはありません。彼らは他の部隊と共に演習にゆくところでしょうか。写真を撮ろうとも思ったのですが、絵になるわけでもないし、後で没収されても怖いので、いつまでも続くカーキ色の制服の人たちを、こちらは下降するエスカレーターの中から無表情で眺めていました。ロシア人たちも、これは日常茶飯事の光景なので、無表情で眺めていたことでしょう。彼らは地上に出ると、長い、長い、延々と続く列をつくり、夏も冬もひたすら目的に向って闊歩してゆくのです。
ペテルブルクには立派な海軍学校や陸軍学校があちこちにあります。広大な敷地で、スポーツをするように鍛錬し、いつなんどき戦争が起こっても、すぐに戦力になるよう訓練されているのです。小学生ぐらいの時分から、そうした学校で教育を受けている子供たちもよく見かけます。彼らはしばしば学校から軍事関係の博物館を訪れ、ガイドの詳しい説明に熱心に耳を傾けています。彼らは必ずやロシアの将来を背負ってゆく将校クラス以上の軍人となることでしょう。そうして、来るべき戦争に出征して数々の見事な功績を立てながらも、惜しくも、不運にも戦死してしまった場合には彼らは英雄(ゲロイ)となり、銅像が建てられるか、あるいは彼らの住んでいたアパートの壁にメモリアルナヤ・ダスカ(記念プレート)が掲げられ、「この家に何年から何年まで○○戦争で功績のあった英雄アカーキイ・アカーキエヴィッチ(仮名)が住んでいた」と讃えられることでしょう。
そう、街じゅう至るところで見かける記念プレートの半分は、芸術家、作家、詩人、音楽家のものだ。残りの半分はすべて英雄である。そうして、ロシアは二度の世界大戦で勝利しているので、戦勝記念日(パヴェーダ)を始め、海軍の日、900日のレニングラード包囲から解放された記念日など戦争がらみの祭日がたくさんあります。パヴェーダの日には本物の戦車が広場を走り、胸に無数の勲章をつけたかくしゃくとした老将軍が行進します。市民もほとんど右翼ですから、老将軍と並んで写真を撮ってもらって悦に入っていたりします。海軍の日には、ネヴァ川の紺碧の水面には鮮やかに飾られた旗のはためく巨大な軍艦や黒々とした潜水艦が浮かんでいます。水兵たちも晴れやかに甲板に整列しています。20世紀に入って以来、日露戦争以外、戦勝を知らない、戦争を放棄した国の一住民として、私は数々の戦勝に舞い上がっている、今なお軍事国家であり、巧みなプロパガンダによって「反戦」を知るすべもない市民たちを、一歩離れたところから眺めている。
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何かの祭りがあると、軍と警察は協力して警備をする。

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ミハイロフスカヤ戦争・砲兵アカデミー

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ミハイロフスカヤ戦争・砲兵アカデミー
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ネステロフ「聖なるロシア」〜ロシア美術館
20世紀のロシアは、あらゆる芸術にとって受難の時代であった。詩や小説を書くことから、作曲すること、映画製作に至るまで芸術家は数々の厳しい制約の中で作品を完成させなければならなかったり、あるいはまったく創作の道を閉ざされたり、流刑になって、生命の保証さえないこともあった。しかし、多くの芸術家が、作品の中に隠し扉のような秘密の場所を作り、そこに検閲では見つからないようにメッセージを隠すことが出来た。エイゼンシュタインは『イワン雷帝』という歴史に題材をとった映画を制作した。イワン雷帝は残酷な独裁者として描かれた。それは雷帝であり、スターリンであった。では、画家たちはどういう手段で身を守りつつ、傑作を生みだしたのだろう。
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タトリン「第三インターナショナル記念塔」〜トレチャコフ美術館新館

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アレクサンドル・デイネカ「テキスタイル工場」〜ロシア美術館

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マレーヴィチ「女の肖像」〜ロシア美術館
ロシア絵画を知るために、とりわけ20世紀の美術を堪能するために、私はモスクワのトレチャコフ美術館新館とペテルブルクのロシア美術館を訪れた。これら二つの美術館を散策しているうちにも、面白いことに気がついた。絵画や彫刻の主題はおおむね4種類である。圧倒的に多いのは肖像画(家族の肖像も含む)である。それから抽象的な絵画や彫刻、つまり未来派や構成主義の作品である。構成主義は時代と足並みを揃えているので、批判の対象にはならない。次は実際にあった兵士たちの反乱を主題にしたもの、共産主義的な生活や有様をそのまま描いたものもある。こうした作品は決してヨーロッパには存在しない。当然のことながら、「宗教的」な作品は見られないが、ロシア革命以前の、たとえば1905年などには宗教的な絵を多く描いたネステロフの作品を見ることが出来る。
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タトリン「コーナー・レリーフ」〜ロシア美術館

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ピョートル・コンチャロフスキー「家族の肖像」〜ロシア美術館

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ボリス・グリゴリエフ「フセヴォロド・メイエルホリドの肖像」〜ロシア美術館
ロシアの絵画がヨーロッパからの影響も受けながら、しばしば非常に個性的で独特であるのは、20世紀以前にはその特異な風景や風俗によるところが多く、20世紀以降は政治的背景によるところが多いのではないかと思っている。
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ヴァレンティン・セロフ「後のユスポフ公の肖像」このユスポフ公が後にモイカ川河畔の自宅の宮殿で、皇帝ニコライ二世の命令を受け、怪僧ラスプーチンを暗殺した。〜ロシア美術館
構成主義という言葉は、従来のようなヨーロッパからの借り物ではなく、初めてロシアに誕生した独自の芸術運動を指し、また、とりわけ建築におけるその発展はロシア革命、社会主義革命と深くかかわっている。ペテルブルクにおける構成主義の実験は、ペテルブルク南西の荒れ果てた衛生状態の悪い地区の一画に、構成上関連の深い、また機能的な建物をいくつか建設し、さまざまな角度から見て相互に美しい調和の感じられる、時代の最先端をゆく新しい街を建設することであった。
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ナルヴァ凱旋門
このキーロフ区には、ナポレオン軍に対する勝利を記念した最古のナルヴァ凱旋門が建っていた。この凱旋門から真っ直ぐにスターチェク大通りが走り、キーロフスカヤ広場にぶつかり、その向こうにキーロフ区議会宮殿(現キーロフ区区役所)が建設された。つまり、凱旋門とキーロフ区議会宮殿は同軸上にある。そうして、この議会宮殿の塔には革命のシンボルである「鎌とハンマー」が掲げられている。この塔と、非常に長い本棟と、本棟を挟んで塔と対照的な場所に位置する丸みを帯びた部分とは、それぞれがまったく形の異なる要素でありながら、見事に調和してひとつの典型的な構成主義的作品となった好例であるように思われる。キーロフスカヤ広場にはセルゲイ・キーロフの銅像が建っており、あたかも革命の勝利を謳い上げているような演説のポーズをとっている。それが、議会宮殿の塔に掲げられたシンボルと素晴らしく調和している。
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キーロフ区議会宮殿(現キーロフ区区役所)

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セルゲイ・キーロフ銅像
では、スターチェク大通りを歩きながら、同時期に建てられ、互いに関連している建物を見て行きたい。
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力強い絵の描かれた建物
キーロフ像の建つキーロフスカヤ広場からは、十月革命10周年記念学校(現在は中学校)がよく見える。この建物は、構成主義の建築に特徴的なカーブが効果的に用いられ、それはまた採光性と通風性の良さとも関連があって、非常に機能的である。窓はまるで音符が並んで弾んでいるかのようなリズムを持っている。全体的には、当時の衝撃的なまでの斬新さは言うまでもないけれど、今でも十分に新しく個性的な建物である。
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十月革命10周年記念学校

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十月革命10周年記念学校
十月革命10周年記念学校から1区画離れた同じ側にはナルヴァ・デパートが建っている。この建物に沿って歩く限り、何の変哲もないようであるが、道路の反対側に立って、全体を眺めてみると、建物の水平ラインと垂直ライン、そうして、カーブを描いている部分の見事なコンポジションには驚かされる。ここはかつて、労働者たちのための大食堂であり、惣菜も売られていた。
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ゴーリキー文化宮殿
このナルヴァ・デパートのスターチェク大通りを挟んだ向かいには十月革命の記念碑として計画されたゴーリキー文化宮殿が建っている。丸みを帯びたファサードは列柱と大きなガラス窓から構成されており、長方形の階段室が両脇に左右対称に配されている。実にシンプルな構造であるが、建物内部には2000人を収容できるメイン・ホールがあり、その他にも、映画館、講堂、図書館が備わっている。そうして、1937年のパリの万博で、この宮殿はグランプリを受賞した。今の目では、宮殿というよりは職業安定所のように見えてしまうのであるが、皇帝たちの宮殿ではなく、これが社会主義革命の時代の宮殿の概念なのだろう。簡素であること、力強いこと、機能的であること、これはこの時代の芸術やポスターなどにも共通しており、新しい国家建設のイデオロギーと見事に足並みを揃えている。
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この建物も構成主義のスタイル
構成主義探索の散歩はなかなか刺激的で楽しかった。アンティークショップがあったので入ってみると、やはり革命時代のバッジやコイン、絵葉書、クリスマス・オーナメント、あらゆる小物を扱っているのであった。少々時間をかけて、マヤコフスキーの詩の一部が入った革命的な絵葉書をたくさん買った。例えばこんな詩が載っている。「あらゆるところに、すべての人の中に。レーニンの名前はわれわれと共にある。われわれは負うだろう、負ったのだ、そうして負ってゆこう。彼を、イリイチの旗印を」かつては3コペイカの絵葉書が一枚30ルーブルで売られている。とはいえ、古いものが一枚100円もしないのだから、安いものだ。

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