奇想の庭(復活そして昇天)

19世紀末から20世紀前半のロシア文化を駆け巡り、拾い集め、組み立てて、発見する・・・・・・

プルトニウムの空の下で

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 運が悪かったら、その時わたしは死んでしまっていただろう。いかなる人工呼吸も功を奏さず、わたしの肺は機能することをやめ、そのまま二度と意識が戻らなかったに違いない。だが、恐らくわたしの魂が浮遊して眺めているらしいもう一つの現実世界はどうなるのだろう。わたしの意識の消滅と共に、放射能に包まれた森と草原は消えてしまうのだろうか。

 その時わたしは、わたしをここまで導いたくれた白い天使のことを思い出した。あの天使も、わたしの肉体から遊離した魂の生み出した幻想だったのだろうか。どこまでも開けているようでありながら、どこか鉛色に淀んだ雲ひとつない空をわたしは魂の眼で360度見回したが、すでに天使の姿はどこにもなかった。まあいい。また、ひょいとどこかで出くわすこともあるだろう。

 いつしか、森の向こうに大きな橙色の夕陽が沈もうとしていた。厳粛な美しい瞬間だ。その金赤の光が突然、最後の力で、その勢力の及ぶあらゆるものを橙色にきらめかせた。平屋建ての木造の田舎家の窓という窓を、草原を追われて家畜小屋に帰ろうとしている牛たちの首にかけられた銀の鈴を、細くうねる小川の水を。

 そうして、わたしは玉ねぎ型のドームをたくさん戴いた古めかしい聖堂を見た。それは森の中から姿を現し、9つのドームのすべてが眩いほどに輝いていているのだった。

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 ゾーンだって! つまり、プルトニウムに汚染された地域は「ゾーン」と呼ばれ、ほとんど永久的に立ち入り禁止になっているのだ。そうして、ゾーンの周辺の地域も決して安全ではなく、生態系は放射能によるさまざまな影響を受けているらしい。

 その時、わたしはひどく息苦しいような感覚を覚えた。そうして、空の彼方から、竜巻のような空気の流れが降りてきて、苦しいほどに強い風が肺の中に流れ込んできたように感じた。今にして思えば、敗血症によるショックの一つで、肺の機能が麻痺したために人工呼吸が行われていたのである。

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 森の入り口に近いところに、木造の、崩れかけたような茶色の民家が建っていた。家の扉は開け放してあった。木枠の窓はガラスに罅が入っていたり、割れたままになっている。だが、季節は初夏だ。冬までに何とかすれば、住めない家ではない。そこから、ひどく腰の曲がった老婆が出てきて、ちょうど、森から出てきた子供たちと出くわした。いや、子供たちの声を聞きつけて、急いで顔を出したのだろう。なぜなら、老婆は子供たちに何事かを伝えようとしていたからだ。

「この森のキノコを採ってはいけないよ」

 と老婆は言った。

「どうして? だって、ここはゾーンには入っていないわ」

 髪に白いリボンを結んだ少女が言った。老婆は首を横に振る。

「ゾーンの外も今ではどんどん汚染されているからねえ」

「父さんと母さんはゾーンの中で暮らしているわ」

 ともう一人の女の子が言った。

「父さんや母さんと会ったのかい?」

 と老婆が訪ねる。訊かれた少女は首を横に振った。その時、老婆は内心思ったのだった。この少女の両親はもう生きてはいまい。彼らはきっと原子炉の近くで働いていたのだろう。今頃は半田付けされた亜鉛の棺に入れられ、コンクリートに包まれて埋葬されていることだろう。少女にはそのことは知らされていないのだ。その地域は原子炉の事故が起こって以来ゾーンと呼ばれて、誰も立ち入ることが出来ないようになっている。

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 その時、わたしは間もなく自分は死ぬのだろう、あるいは、すでに死んでいるのだろうと思った。失神した時から、今に至るまで、何の痛みも感じていないからだ。

 そうして、今、自分の魂が漂っているところは、いわゆる天国でもなく地獄でもなく、過度に拡張した自分の意識の海のなかであるに違いないと思った。

 その意識によって、細かい粉雪のように空を舞っている、あるいは深海を無数に漂っているプランクトンのようなプルトニウムを眺めているのであった。

 また、この肉体を離れた意識は瞬間にどこへでも移動することが出来るようであり、その実、例えば訪れたい旅行地へと移動するといったように、自ら行き先を操作することは出来ないのであった。自分の望んだ場所へ飛んでゆきたいのなら、何も好んでプルトニウムの海を漂いはしないだろう。

 次の瞬間わたしは、だだっぴろい草原とその向こうにどこまでも広がる永遠の森を臨む見知らぬ土地に佇んでいた。というよりは、意識がその空間を包んでいた。

 背の高いアカザやゴボウなどの雑草の茂る草原の中には細い道が出来ており、それは森の中まで続いていた。森は暗く、陽も届かないほど樹木が密生しているようだった。

 数人の子供たちが森のほうから細道を通って歩いてきた。めいめいが編んだ籠を手に、それを楽し気に振りながらやってくる。籠の中にはさまざまな大きさや形をしたキノコが入っていた。

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 わたしはいつしか大空を飛んでいた。無窮の大空のどのあたりを飛んでいたのかは定かではない。だが、恐らく地上に建っているどの高層ビルやタワーよりも高いところを飛んでいたに違いない。それは遥か眼下の風景によっても想像することが出来た。かつてハイデルベルクの旧市街を見下ろす一番高い山の頂から街を見たことがある。それは町全体が掌の中に納まる感覚で、建物の一つ一つの姿をはっきりと認識することは出来ない。今回もそのぐらいの感覚で、恐らく東京である都市が、灰色に凝縮されて見えた。もちろん緑の地域もあれば、銀色に光る海も見える。

 けれでも、すべての風景は、汚れたガラスか霧のフィルターを透したようにどこかぼやけて見えるのだった。いや違う。大空は見晴るかす限り銀色の粒子に覆われているのであった。それらの粒子は太陽の光をさまざまな角度から反射して、ぎらぎらとさざめく銀色に輝いていた。だから、それらを透して眺める眼下の光景は澄んだプランクトンの海から見える海底のようなものであった。

「なんだか幻想的ですね」

 とわたしは天使に言った。

「これが幻想的だって?」

 と天使は呆れたように言った。

「その銀色の粒子はプルトニウムだというのに!」

「プルトニウムですって?」

 その時、わたしの脳裡には、そんなものを肉眼で見ることが出来たかしらという疑問だった。

「そうだよ、これが70年の核実験の成果なのさ」

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