|
4ヶ月前に季節外れの台風で中止になった南海先生の「会津の小鉄・連続読み」ですが、今回も台風が接近していた9/29に開催されました。
この会は、雨でしたが特に問題なく開催されましたが、翌日、昼に琴柳先生との二人会をやった南海先生、大坂に帰れたのだろうか?
そんな新々嵐を呼ぶと呼びたくなる南海先生の「会津の小鉄」、その第五話と第六話、こんな内容でした。
・蟹の吾左衛門 … いちか
・会津の小鉄「仙吉、京で会津の小鉄になる」 … 南海
お仲入り
・会津の小鉄「会津の小鉄と新撰組、近藤勇」 … 南海
1.蟹の吾左衛門/いちか
似たような忠臣者の噺を沢山聴いています。この吾左衛門は、信長の長男・信忠の家来でした。そして、本能寺の変で信忠が亡くなる時、
その首を介錯し、庭に埋めて隠して井戸に飛び込んだのですが… 井戸が枯れていて死ねず。卑怯者とそしりを受けたのですが…
太閤秀吉の朝鮮征伐で、敵陣に孤立した加藤清正の軍に、福島正則の命令を受けて、兵糧を届けて討ち死にして汚名を返上します。
なぜ、“蟹の”と呼ばれるのかは、謎のようですが、今でも鳥取に「吾左衛門鮓」という寿司屋があり、蟹の鮓があるようです。
2.仙吉、京で会津の小鉄になる/南海
いよいよ、仙吉が「会津の小鉄」を名乗る回です。物語の後半に差しかかってやっと主人公が会津の小鉄になるって、なかなか無い展開です。
水戸で男を上げて、父親の足跡を追って江戸へと入り、そこで江戸でも三本の指に数えられた侠客!!あの「新門辰五郎」に出逢い、
また、新撰組に組する前の近藤勇とも、浅草の喧嘩で出逢う仙吉が、いよいよ辰五郎の紹介状を持って、京都の大親分、口入稼業の元締・大垣屋を訪ねます。
大垣屋の説明から、南海先生らしい脱線が始まります。この大垣屋が現在の大沢商会(雑誌の裏で時計やバックの通販していた会社)の前身である事から始まり、
この大垣屋には、仙吉が訪ねて来た、まさに同じ頃、会津藩の重臣:秋月悌次郎と、「八重の桜」の山本八重の兄、山本覚馬が訪れていた。
この二人は、会津藩主・松平容保公が京都守護職に任じられた事を受けて、守護官邸と、会津藩士の住む寮の建設を依頼しに来ていた。
この話題から、南海先生の脱線が始まる。まず、この時期に薩摩・長州、土佐を中心に勤王の志士について話題が移り、時節柄、西郷隆盛の話題へ。
西南戦争後、朝仇と扱われ逆賊の汚名を着せられていた「西郷どん」。それが許されて旧薩摩藩の有志からの寄付で、銅像が建てられる事になる。
銅像を作るに際し、依頼されたのは、当時のNo.1の彫刻家だった高村光雲。そして、本来は馬上で、突撃!の指図を指差しする構図の銅像にする予定だったので、
馬を彫らせたら、当代一と言われた、後藤貞行に、高村が直々に依頼した。ほぼ、デザインも完成し、設置場所も皇居前になる予定だったが…
この時、くしくも、大津事件が起きてしまう。来日中のロシア・ロマノフ王朝の皇太子:ニコライを警察官の津田三蔵がサーベルで襲って重傷を負わせる。
その動機が、「西南戦争で戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るというデマがささやかれており、
西南戦争で勲章を授与されていた津田は、もし西郷が帰還すれば自分の勲章も剥奪されるのではないかと危惧していた」と供述したという説がある。
そんな事件の為に、西郷隆盛の銅像は、大幅にデザイン変更を余儀なくされる。そして、設置場所も皇居から、上野公演へと変更されたのである。
そして、一番貧乏くじだったのが、後藤貞行。軍馬を彫るはずが、犬を彫らされている。
この脱線で20分伸びて、更に保科正之公が明君だった話題へ。三代将軍家光の弟でありながら、信州高遠藩二万五千石の養子に出された正之公。
この正之公が、振袖火事の後始末で、将軍家光に意見して、決まり掛けていた江戸城の本丸再建を中止させた逸話を紹介しました。
この断線は、会津藩松平公が正之公に喩えられると、秋月悌次郎が大垣屋に力説した場面で起こりました。結局、25分脱線噺!!
最後は、この普請の人足集めを仙吉が、大垣屋に見込まれて引き受けて、会津藩の為に一肌脱いだことから、
その名を、「会津の小鉄」と改める事になりました。「会津の小鉄」が25分、脱線が25分、南海先生らしさ爆発でした。
3.会津の小鉄と新撰組、近藤勇/南海
この回は、新撰組好きにはたまらない。文久2年(1862年)、幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、
将軍警護の名目で浪士を募集したところから物語が始まり、翌文久3年(1863年)2月、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」となる。
ところが、京都に着くと、提案者である清河が、勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。
結局、清河派は浪士組を抜けて、残ったのは京都守護職の松平容保に忠節を誓った三十数名だけとなる。
つまり、残った者は、近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派である。
ここから、松平容保の家来の末席に加えられた浪士組は、壬生に屯所を構えて、新撰組の前身「壬生浪士組」が結成される。
この壬生浪士組では、芹沢鴨が主導的な立場で、京の豪商を脅しては、ミカジメをせびっては、遊郭で色に狂う酒池肉林の非道を重ねた。
結果、京の商人からは、そっぽを向かれて、金策と称して、大坂にまでミカジメを求めて遠征するようになる始末だった。
一方、江戸で顔見知りで、松平公の繋がりもあり、近藤と仙吉は再会を喜んだ。同じ長曽祢虎徹を持つ者同士、仙吉こと小鉄は、
水戸で聞き及んだ、芹沢鴨の悪い噂を、近藤たちに知らせるのだが、そう簡単に、これを排除するのは難しく、結局、大坂で大きな事件が起きる。
それが、六月に起きた、大坂相撲との堂島橋でのいざこざで、相撲取三人を芹沢たち水戸派は殺害。奉行所まで乗り出す大事件になるが、
この事件を丸く収めたのが、会津の小鉄だという事で、講釈らしく、当時大坂を牛耳っていた親分衆五人組が登場し、
これを相手に、侠客・会津の小鉄が奮闘する。そして、水戸派が京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火した事件をきっかけに、
近藤と土方は、水戸派を粛清し、隊の名前を、新撰組と改めて、京都の治安の為に、勤王派の志士と対峙する事に成るのである。
次回は、11月24日土曜日、会津の小鉄、大団円です。
|
全体表示
[ リスト ]



日曜日にNHKが二ヶ月に一回やってる、二時間の浪曲番組をやってました。
藪さんは時々見てました。何人もの先生が登場したのですが、戦後の一時期に二代目 虎造さんがもっとも受けた芸能人になった時と比べると、ちょっとお寒い感じがしました。
浪曲ってのは、声、節、語りです。声が悪くて浪曲ができない人が講談をやります。語りしかできないのが落語家になりました。
つまり声が悪かったら浪曲はできません。なんで二代目 虎造さんのあとにスーパースターが出てこないのかと云うと、昭和30年頃になるとレコード歌手として食っていける道ができたんです。だから三波春夫さんも村田英雄さんも浪曲から歌手に転向してスーパースターになりました。
2018/10/2(火) 午後 7:49
浪曲
講釈や、落語に比べると非常に歴史は浅いのですが、活弁からの派生演芸なんでしょつね。
地の語り、科白回し、そして節が加わり、三位一体の芸が浪曲になりました。
私は、勝太郎や虎造の節がどーも苦手で、浪曲は聞いた事ある程度でしたが、武春!国本武春が登場してから、本格的に浪曲を聴くようになりました。
その後、武春が亡くなる少し前に、玉川太福さんを知り、勝太郎や虎造のように唸らないので、聴いています。
伝統的な浪曲らしいコブシでは唸りません。どちらかと言うと、詩吟や謡曲に近い発声です。
2018/10/3(水) 午前 8:59 [ Mars_jj_boy ]
浪曲は浪花節と云うくらいで、基本的には大阪が本場なんですよね。初代 虎造も大阪の人だったと思います。
二代目 虎造が何で受けたのかと云うと、浪曲に関東節と云う江戸弁を持ち込んだからです。講談の清水次郎長伝を江戸弁でやったから受けたんです。
次郎長さんは静岡弁だから「そうずら」ってなるし、国定忠治は上州弁で「だんべ」って云ってたはずです。でも虎造さんは浪曲をエンターテイメントと考えて、ウソなんだけれども江戸弁でやったんですね。それが受けたんです(^∇^)
2018/10/3(水) 午後 6:44
> 藪井竹庵さん
私は、二代目虎造を評価するなら、彼独特のフレーズです。
「馬鹿は、死ななきゃ治らない!!」
「悪い奴等は、都鳥!!」
天才だと思います、これらのフレーズは。
2018/10/3(水) 午後 7:57 [ Mars_jj_boy ]