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冒頭に、岡本文弥さんの名言を一つ紹介します。「戦争は嫌でございます。親孝行ができませんし、なにしろ散らかしますから。」この言葉は、実にいい。新内のように粋です。
さて、落語の『明烏』を考える!と、言いながら全く触れていないぞ!と、お怒りの貴方!、申し訳ありませんが、まだ、今回も、黒門町でお馴染みの『明烏』は、登場しません。
それなら、今回は何んなんだ?!と、言うと「その1」で軽く予告しておいた、新内『明烏夢泡雪』の続編、『明烏後正夢』に付いて、今回は紹介したいと思います。
普通、新内『明烏』といえば「明烏夢泡雪」を指すのですが、俗に「まさ夢」と呼ばれる「明烏後正夢」は「泡雪」の後、百年ほど経った安政四年(1857年)に、新内中興の祖といわれる富士松魯中が作った、男女道行モノの新内です。
芝居だとね、仮名手本忠臣蔵の「お軽勘平」に代表されるような道行を描いた作品が勿論売りの一つですが、新内では、珍しい展開なんだそうです。
これも「泡雪」と並ぶ、四代目文弥さんが手掛けた名曲と言われていますが、高座にはめったに掛からなかったようで、音源ですら、私は聴いた事がありません。
現在も、落語協会の寄席に出ている色物で、粋唄の柳家小菊師匠。彼女は亡くなった柳家紫朝さんの弟子なので、この師匠から新内修行を仕込まれたと、仰っています。
寄席にお出になる合間に、最近でもたまに、「小菊を聴く会」と銘打って独演会を開いたりもしておられます。『たぬき』を掛けられた、赤坂の会には、小生も行きました。
あとは、比較的長い持ち時間、30分くらい池袋の文芸坐でも、たっぷりと、ホール落語の合間の演奏でしたが、「まさ夢」は聴いた事が在りません。
漏れ聞いた話によると、2007年の夏に、いまから12年前になりますが、世田谷の小さなホールで行われた「小菊を一寸きく会」という会で、粋唄・俗曲を披露する中に「まさ夢」を弾き語りで聴かせてくれたそうです。
余談になりますが、元小圓歌先生が、三代目圓歌のご威光を遺憾なく発揮して、二代橘之助を襲名されましたが、この名跡は、私は小菊さんの方が遥かに相応しいと思います。そう思ったのは私だけじゃないけどね。
そんな意見、巷でちょくちょく耳にします。初代が偉大過ぎるから、それを知る生き証人が居なくなるまで、なかなか襲名出来なかった伝説の名跡ですからね。
忍び寝の、枕二つをそのままに
ほんに辛気な死神に
あすはなき名を竪川や、われから招ぐ扇橋
この世を猿江大島の森の繁みにたどりつく
ってな具合で、道中付けを聴くことができて、言葉も節も優れた作品である高く評価されております。
小生は、なかなか「まさ夢」を聴く機会に恵まれませんが、心に願っていれば、いずれ巡り合えるものと信じアンテナを張っております。
落語の『明烏』の後に「その1」で書いた、全5話を足して、浦里と時次郎を心中にはしない展開で、「まさ夢」を加えて、この道行と、道中付けまで入れて、全6話のハッピーエンドにするというのは、如何でしょうか?
つづく
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元小圓歌先生が、三代目圓歌のご威光を遺憾なく発揮して、二代橘之助を襲名されましたが、この名跡は、私は小菊さんの方が遥かに相応しいと思います。そう思ったのは私だけじゃないけどね。
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う〜ん、橘之助がスゴカッたということは文献でしか残っていなくて、いま生きている人で彼女を聴いたことがある人は皆無でしょう。
そうなると二代目は誰が継ぐべきか、或いは「継ぐべきであった」はむつかしい判断でしょうね。(若い男を喰うというのも芸に資していたかも。)
私は圓生、志ん生、八代目正蔵、可楽(何代目か知らない)黒門町そして全盛期の小さんに何度も何度もカミサンと一緒に高座で接していますから、手遅れになったのはともかく、圓生や志ん生を継ぐ奴が出てきたら、殺意を懐くでしょうね。
2019/2/10(日) 午前 0:30
> 憲坊法師さん
私が東京の寄席に通い始めた35年くらい前には、初代橘之助を語るレジェンドが沢山居て、そんな明治生まれの爺さんや婆さんから橘之助伝説を聞きました。
2019/2/10(日) 午前 8:08 [ Mars_jj_boy ]
浮世節の立花家橘之助は三味線の名手で、名人圓喬と同時代人ですね。短い三分のSP音源が幾つか残ってます。
40代半ばで亡くなった圓喬なんですが、圓喬が楽屋にいると怖くて誰も近寄れなかったそうです。橘之助だけが圓喬と対等に話していたと文楽が語ってますね。
2019/2/11(月) 午後 11:11
> 藪井竹庵さん
圓喬に、橘之助はたいそう可愛がられたと、昭和の名人たちが証言していますし、恋多き女だった様子は、エディット・ピアフのようだったと、聞いています。
2019/2/12(火) 午前 11:56 [ Mars_jj_boy ]