Marsのブログ

小さな会を精力的に聴く努力をしてまいります!!

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昨年、玉川太福さんの会に来て以来のア・クールジョアです。石神シェフの美味しい料理と銀冶さんの講談のコラボです。
夕方5時スタートで、フランス料理の打上が18時半には始まるので、それまでの時間を町屋と荒川車庫で調整しました。
町屋は、浜作さんでもんじゃ&鉄板焼をしてすごし、荒川車庫では行ってみたかった「アッシュカフェ」でお茶しました。
私の友人は、「アッシュカフェ」でチーズケーキとか食べるもんだから、石神シェフのデザートが完食できないという事態に…


「アッシュカフェ」
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このように、廃工場だったスペースを利用して、フロントエンジンのトラックがキッチンになっています。
私たちが訪問した日は、子供のお料理教室が開催されていて、一般客は二階席でお茶していました。
お菓子作りの教室や、お料理教室が開かれていて、結構、活気があるカフェでした。

また、尖鋭的なこんなアート作品も展示と販売がなされているようなのですが、こちらは私の趣味にはちょっと…
なかなかいい値段するんですよね。この舌出している野球のボールが三万四千円!!
ザクロみたいなバスケットボールは、十九万円!!一番気味が悪い口が九万円!!という値段設定でした。
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そんなアッシュカフェから徒歩1分も掛からない位置にあるア・クールジョアでの
石神シェフの素敵な料理と、銀冶さんの素敵な講談のコラボした会、こんな内容でした。


・青龍刀権次より「三悪党の出逢い」
・新作講談「横浜メリー」



1.三悪党の出逢い
この日は、My釈台持参の銀冶さん。一鶴一門らしい『鶴』と書かれた赤い釈台でした。
今日のア・クールジョアにちなんだ短い道中付けを、田辺らしい口調で語り始める銀冶さん。
この日の20名のお客様は、全員1回は講釈を聴いた事があるお客様ばかりだったので、
最初の説明が全く必要なくて、すぐに本題へと入りました。

『青龍刀権次』から爆裂お玉が登場する場面です。色男の吉次が酔い醒ましに寝ている部屋へ、
芸者のなりでお玉が現れ、寝ている吉次のポケットから金時計をスリ取って逃げようとする。
ところが、吉次は起きていて、二人の間で悶着が始まる。更に揉めている二人の間を割って現れるのが、
青龍刀権次で、この三人の出逢いの場面となります。

ここから鷲津伯爵家に、お玉を行方不明の娘だと偽って潜り込ませて、
鷲津家の莫大な財産を狙おうと企む、権次一味の悪巧みが始まる発端なのですが、
お玉は、さながら峰不二子のような存在で、吉次が次元、青龍刀権次はルパン三世のような存在です。
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2.横浜メリー
2017年の根多卸しから毎年聴いている銀冶さんの「横浜メリー」。どんどん、メリー自身が耽美になって行きます。
セピア色した映像が見えるような銀冶さん独特の調子で、メリーがUS上級将校のパワーと出逢い愛を育みます。
そしてやがて二人に別れが訪れますが、それでもメリーは29歳のまま40年の歳月が流れ、横浜福富町に生き続けるのです。
実に、横浜の匂い漂う講釈です。皆さんも、是非、銀冶さんの「横浜メリー」をどうぞ。
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3.石神シェフのお料理
オードブル、スープ、鶏のメイン、そして苺のムースのデザートでした。大満足
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次回は、6月30日・日曜日、昼の部と夜の部で桂宮治独演会です。




P.S.
大変酔い気分で帰路に着いたのですが、荒川線で荒川車庫前から町屋へと向かう途中。
熊野前、200mくらいの信号で、酔っ払った感じの男性が赤信号で横断し電車に敷かれました。
連れの男性と二人組だったのですが、敷かれた男性はピクリとも動けない状態でした。
この敷いた電車に乗っていたのなら、まだ、諦めが付くのですが、私は反対方向の電車に乗っていたのに、
路面電車は動かなくなり、動く見込みは分かりませんと車掌さん兼運転手が言うので、電車を降りました。

そこから熊野前の舎人ライナーの駅へ移動して、生れて初めて舎人ライナーに乗り西日暮里へ。
西日暮里から千代田線に乗り、家路に着いたのですが、あの男性の安否は?????
翌日のニュースも調べたけど、荒川線人身事故で20時40分頃止まるしか確認できず。



p.s.のp.s.
https://sp.fnn.jp/posts/00412272CX

ご愁傷様です。私より若い方だとは思いませんでした。重ね重ね、ご愁傷様です。
今回は『愛宕山』。菖蒲園さんの記事にかなりインスパイアされて、そうだ!春だ!愛宕山!と、思い付きました。
半分ぐらいは、2月から4月に掛かっていますが、必ずしも「蓮華、タンポポの花盛り!!」とは関係ない季節でした。
と、申しますのも、この噺は、めでたい節目に掛かる噺のようで、披露目やホールの杮落しなどで聴いています。
では、まずは、私が過去十年、誰の『愛宕山』を聴いたか?調べてみたました。16人の演者で19回でした。


2009年 5人5回
立川生志   02
春風亭小朝  02
林家たい平  09
柳家花緑   10
桂吉弥    12

2010年 3人3回
立川談春   03
古今亭菊之丞 05
立川志らく  06

2011年 1人1回
春風亭昇太  11

2012年
なし

2013年 2人2回
柳家小満ん  04
三笑亭夢花  06

2014年 3人3回
桂吉坊    04
三遊亭兼好  04
三遊亭王楽  11

2015年 1人1回
春風亭正太郎 04

2016年 1人1回
春風亭正太郎 04

2017年 3人3回
春風亭正太郎 03
柳家小満ん  05
柳家甚語楼  10

2018年
なし


面白いのは、かなり体力を使うネタなので、同じ演者で1年に二回なかなか聴けない噺みたいですね。
また、この噺に限った、もしかすると私独自の感覚なのかもしれませんが、大きい会場の方が似合います。
最低でも500人くらいの箱で聴いた方が、迫力が伝わる気がします。勿論、その会場に耐えるだけの技量も必要です。

菖蒲園さんも書いてらっしゃいましたが、京都の愛宕山に登っても「かわらけ投げ」は体験できません。高雄山の神護寺まで行かないとダメです。
この事は、2010年3月、談春さんが、新宿厚生年金会館取り壊しfinal公演で詳しく説明されて、神護寺でかわらけ投げをやる談春師の映像が、スライドショーで紹介されました。

一方、江戸でかわらけ投げと言えば、講釈の『祐天吉松』にも登場する花見の名所・飛鳥山が有名です。ただ、勿論現在は有りません。
江戸時代は、ヤクザがみかじめを取って、幼いガキたちが、かわらけを売り歩いた様子が、『祐天吉松』には登場します。

さて、話を落語『愛宕山』に話を戻します。この噺は、志ん朝師匠が演じる様を談志師匠が観て、嫉妬を滲ませながら、
自身のニンには無く、志ん朝がやるに相応しいネタだと言わせたように、底抜けに陽で、笑いに貪欲。そして粋でなければ、この噺になりません。
つまり、旦那が一八を虐めていると、客が感じてはならないのです。そう言う点においては、志ん朝師匠のはベストマッチ!完璧でした。

さて、この噺の前半の見せ所は、レンゲ・タンポポの花盛りの田圃路を、芸者・幇間を連れたお大尽の行列が、愛宕山を目指します。
上方では、まずこの道中でハメモノが入り実に賑やかに始まりますが、江戸の咄家は、殆どこの部分は演じません。実にもったいない。
誰か、保津峡から嵯峨野の峠を越えて、愛宕山の登山口までの道中付けを作って語るような咄家は現れないものか?そんな事を思う導入部です。

次に、愛宕山登山口に到着すると、昨夜の元気と能書きは何処へ?と、思うぐらいに、幇間の一八は愛宕山を登るテンションが無い。
無理矢理旦那の脅しに負けてシンガリから登る一八。そんな一八がお目付役の繁蔵のススメで、景気付けに唄うのが、上方は「梅にも春』。
これは、鈴鹿の峠超えの人足は、馬・駕籠だけでなく、一対一の尻を押す人足まで居て、この唄で景気を付けて峠を越えたと言う。
対して、江戸の落語『愛宕山』は、コチャエを唄いますよね。志ん朝師匠も、もちろんこの唄です。
別に、コチャエに拘る必要は無いと私は思います。疲れが紛れる楽しい歌なら、何でも良いが、工夫を聴かせる現代の咄家は居ない。

後半は、かわらけの代わりにお大尽が投げた小判を、一八が拾いに谷底へと茶屋の傘を落下傘にして決死隊で飛び降りる。
また、この噺は谷底から一八が戻って来る手段もマンガチックで、自身の着物を裂いて縄を捻り、それを竹に引っかかって、西洋の武器・青天の霹靂みたいなぁ!!やり方で一八は生還します。
ここでの笑いが頂点ににならないと、この噺をやる甲斐がありません。できている咄家は、意外と少ないと思います。

そんな落語『愛宕山』。私は、二つ目だったか、真打になっていたか?忘れましたが、小朝さんの『愛宕山』を観て、志ん朝に負けない!!と、確信したのを覚えています。

ところが、この2009年の五反田もですが、2008年に久しぶりに、小朝師匠の『愛宕山』を中野で聴いています。
期待し過ぎたか?20年以上前だし、また、この日が特別、出来が悪かったのか?と、思いつつ、カス!糞のような、小朝の『愛宕山』を聞きました。
で、明けて2009年ですよ、五反田でもう一度聞く機会があったんですが、まーあー酷かった。笑いが来ない事に、何の躊躇もなく、淡々と進行するんですよね。

そんな事を踏まえて、まず、古今亭菊之丞師匠から。基本ニンではなく、線の細い師匠が、笑いに貪欲になると、ろくな出来になりません。
あと、あえて呼び捨てにしますが、披露目とは言え王楽ごときが、やりますか?!ニンにあるとか、無いとか、言う以前の問題で、やりました?!って歴史欲しさ?
これは、本当に聴かされた側の迷惑を考えて欲しかった。黒門町みたいな『愛宕山』を、お前さんには期待しないけど、やるからには、何んか?爪痕だけでも残せ!と思いました。
当時、坊ちゃん5をやって何年か経つから、どんな『愛宕山』をやるのか?見てやろうと、なまじ思ったから、裏切りが半端なくてね、ガッかりしました。

そんな暗い悲観ばっかり言っても始まらないからですが、最近、聴いている正太郎さんの『愛宕山』は、可能性を感じます。
まだまだ、荒削りですが、笑いを取る意気込みと、志ん朝師匠の『愛宕山』と、数少ない同じ方向性を感じます。

最後に、上方落語の『愛宕山』は、江戸の志ん朝に負けないくらい吉朝さんの『愛宕山』は、楽しく痛快で、無双でした。
弟子の吉弥、吉坊でも聴いてはおりますが、あの吉朝の底抜けに楽しく粋で、カッコイイ『愛宕山』には、まだ遠いと感じました。
『百年目』に続いて、やはり春の噺を紹介しようと思いました。しかも、『長屋の花見』『花見の仇討』以外を。
そして、春に掛かる噺を探っていると、『おせつ徳三郎』に巡り逢いました。ちょっと、マイナーな噺ですけどね。
私は好きな噺です。じゃぁ、どのくらい聴いているのか?調べてびっくりしました。年に1回平均なんです。
10年で11回ですよ。しかも、演者の数は7人。わん丈さんがやるのは知っていますが、若い二つ目があんまりやらない根多。



2009 2人3回
柳家喬太郎
立川志らく×2

2010 2人2回
立川志の輔(花見小僧のみ)
柳家喬太郎(刀屋のみ)

2011
なし
2012
なし

2013 1人1回
柳家小満ん(花見小僧のみ) 

2014 1人1回
柳家喬太郎

2015 1人1回
立川志らく

2016 1人1回
柳家三三(花見小僧のみ)

2017 1人1回
五街道雲助

2018 1人1回
隅田川馬石



この噺は、幕末に売れた初代春風亭柳枝の作で、人情噺として仲間に広まります。
明治の速記が非常に多く残っている作品で、それからも、柳枝の活躍、そしてこの噺の人気が伺える。
構成として前半は、定吉(or長松)に、主人が娘(おせつ)と徳三郎の関係を聞き出そうとする『花見小僧』。
そして、二人の関係を親旦那が知って、徳三郎には暇が出され、叔父の家に居候となった徳三郎。
そんな徳三郎の耳に、おせつが婿を取るという話が飛び込み、怒りに任せた徳三郎が、思慮を喪い刀屋へと掛け込む。

おせつと婿を殺して、自分も死んでやる!!そんな思いの徳三郎だが、刀屋のおやじに諭されて、斬り殺すのはお思い留まる。
そんな刀屋に、若衆を連れた香具師の親分がやって来る。そして、婚礼の当日、おせつが突然逃げ出したと聞く。
いてもたっても居られない徳三郎は、おせつを求めてお店の方へと、刀屋を走り去る。偶然、二人は再会するのだが…
サゲは、『鰍沢』と同じで、手に手を取った二人は、この世で添われずば、あの世でと、材木問屋に近い橋から、
川へと二人して飛び込むのだが、お材木の筏が下に在って助かるのでした。この後半が所謂、『刀屋』。


この『おせつ徳三郎』は、『花見小僧』の部分を、あの「鼻の円遊」が『墨田の馴初め』に改作して、
くすぐりをふんだんに入れて、楽屋オチも含めた爆笑ネタにしたのだが、この円遊の流れの皆さんは、
この噺をあまりやっていると、聴いた事が私はありません。
私が聴いた中だと、間違いなく、その「鼻の円遊」テイストで『花見小僧』をやるのは志らくさんです。
志らく師匠の『花見小僧』は、実に傑作です。定吉を攻める親旦那の、灸を持っての「足だせ!」の科白がマゾヒスティック!!
定吉のノラリくらりと誤魔化す語りも、志らく師匠ならでわで、ふんだんにクスグリも入ります。

親旦那に「なぜ、お前は見てなかったんだ?徳とおせつを!!」と、怒鳴られての言い訳がいちいち、楽屋オチのくすぐり。
定吉が、「婆やが、言うんです。“庭に毛氈敷いて、こん平師匠が『芝濱』やってるよ!!”」とか、
「船着場の小川で、川柳川柳師匠と鈴々舎馬風師匠がシンクロナイズドスイミングしてるよ!!」とか、言います。
また、灸で脅して訊く側だった親旦那が、徐々に定吉に主導権を奪われて、長命寺の桜餅のくだりあたりで完全に逆転する。
この本来の古典的な笑いのパターンは生かしつつ、志らく師匠独自の笑いを絶妙にブッ込んでくれます。

この『花見小僧』の部分は、親旦那が娘を思う親心がポイントで、その娘を思うあまりに行き過ぎて定吉を問い詰める。
ここが如何に落語的に表現できるか?なんだと思います。親バカちゃんりんの部分を、定吉が逆手に取って、
先に申したような、長命寺の桜餅の部分になるのだと思います。
だから、やっぱり娘を持つ咄家で、娘愛の強い咄家さんは、上手い気がします。先代馬生、志らくはまさにそうです。


一方、後半の『刀屋』。柏木の圓生は、この『刀屋』だけやっていた。たぶん志ん生もですね。また、目白の師匠も通しでもやるが、殆どの場合『刀屋』だけだった。
その流れで馬面の圓楽さんも、志ん朝師匠も、同じく『刀屋』だけをやっていました。
ところが、最近は、『花見小僧』だけって咄家と、上下に分けて演じるが通しで聞かせる咄家が増えていると思います。

さて『おせつ徳三郎』の後半の『刀屋』。ポイントは、刀屋のオヤジのキャラクターです。
徳三郎に対して、主従の一線を超えたお前が悪い!と、かなり凛とした態度で意見するキャラクターと、
老獪な好々爺で、徳三郎の気持ちを懐柔するような会話で、心を開かせて思い留まらせるキャラクターがあると思います。
どちらが正しいはないとおもいますが、どちらを選ぶか?は演者の個性だと思います。

凛とした方が刀屋という職業にもしっくりは来るし、昔の演者はこのタイプが多かったように思いますが、
最近の刀屋は、好々爺も半分くらい居るようにも思いますね。
尚、志らく師匠は『刀屋』のラストを、映画「卒業」のように変えて演じます。
ラストシーンは花嫁衣装のおせつの手を取って、徳三郎が渡し船に乗せるシーンで終わり、
二人に笑顔はなく、キャサリン・ロスとダスティン・ホフマンのように、海原の夕日に向かって船は進んで行く。
「お材木で助かる」よりは、ドラマっチックな最後が用意されております。
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寿限無     粗忽長屋

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化物使い   目黒のさんま

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井戸の茶碗  饅頭こわい

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芝濱           らくだ
『鰍沢』『明烏』と来て、今回は、落語『百年目』です。桜が咲く頃に近年は、よく掛かるように成った噺です。
と、申しますのも、東西の名人・米朝と圓生が十八番にしていた『百年目』だったので、他の咄家はお二人に遠慮して、高座に掛けませんでした。

それが、圓生は亡くなり、米朝は高座からの引退を発表されると、最初は圓生一門の弟子や米朝一門の弟子から、少しずつ高座で演じるようになり、
2001年を過ぎると、一門に関係ない咄家も、この噺を高座に掛けるようになる。それでも、演者は最初は還暦過ぎの師匠ばかりだった。
それが、2005年頃になると、40を過ぎたらやる咄家が現れ始めて、更に2010年を過ぎると30代でもやる演者が登場します。
結果、10年間で聴いた『百年目』は?

15人22回です。2009年から2018年に、こんな咄家で聴いておりました。

2009年 1人1回
三遊亭圓丈

2010年 1人1回
立川志の輔

2011年 4人4回
柳亭市馬
立川談笑
柳家権太楼
桂塩鯛

2012年 1人1回
鈴々舎馬桜

2013年 5人5回
立川志の輔
鈴々舎馬桜
むらし家今松
立川談春
柳家権太楼

2014年 3人4回
立川志の輔×2
柳家三三
立川談春

2015年 2人2回
桂宮治
立川談春

2016年 1人1回
春風亭一之輔

2017年 1人1回
立川談春

2018年 2人2回
桂宗助
柳家小満ん 

まずは、各咄家の『百年目』の感想を語る前に、私が感ずる『百年目』について、思いと考えを述べてみたいと思います。

この噺の、お店の親旦那さんの料簡と番頭さんの料簡。この二つの対比が、テーマであり江戸時代の日本の商人と言うものは、ずべからくこのようだったと、私は思います。
この番頭・治兵衛は、今の自分という者が今この地位に在るのは、自分だけの力であると思っている節がある。
そんな治兵衛だから、自分より未熟な手代や丁稚は、どーにも許せない。現代の会社組織にも同じような「部長」居ると思います。
番頭の治兵衛さん、兎に角、奉公人には厳しい。常に小言を絶えず浴びせるから、奉公人は萎縮して、心が休まる暇もありません。
一方で、治兵衛さん自身は、堅物を演じている。裏にまわると自分の裁量で、芸者を上げて、廓あすびもやっています。

そんな、治兵衛の裏のあすびを、偶然、向島で見た親旦那。この親旦那は、『明烏』の日向屋半兵衛さんと同じで、若い頃から茶屋遊びでならしているから、
根は遊びの分かる粋な奴だ!と番頭の一面を知り、あの栴檀と南縁草の話をする気持ちになる親旦那。遊びの一つもできないと、商いの鋒が鈍るという料簡ですからね、
お前の目から見たら半端な小僧や手代でも、長い目で見て指導してやり、時には息抜きにも目を瞑って欲しいと言う。

これは、近代の経済学にも通じる理屈でして、「配分効率性」と言う言葉で、経済学者・梶井厚志氏が『百年目』の親旦那の料簡を解説したコラムを読んだ経験があります。
噺の中で親旦那が番頭を戒めたのも、下の者たちが締め付けられ過ぎて、全くゆとりがなくなっていると、
将来いざというときに、彼等は働かず、店にほころびの出る危険が高まるからだと私は思います。

また、親旦那が治兵衛に、今まで通りに遊びを勧めるのも、往々にして遊びの中で将来のビジネスチャンスが見出されるからに他ならない。
現代のサラリーマン社会においても、私たちが仕事に必ずしも直結しない人付き合いでも大切にする背景には、
人の輪からもたらされる将来における有形無形の便益が、潜んでいるからに相違ない。

話は変わるが、警察はなぜ必要なのだろう。もしも、ある小さな町で、ある年一年間を通して、犯罪がまったく起こらなかったとしたら、
翌年からその町で警察は不要になるのであろうか?おそらくそうではない。
その時点で犯罪がなくとも、将来に渡ってその可能性がなくなるわけではないからだ。警察のない町は、ゆとりのない町かもしれない。
一方、基礎学問を研究する大学はなぜ必要なのだろう。もしも、そんな社会に貢献しない学問ばかり続ける教授が、
いったい何の役に立つのかと聞かれたら、それは社会の遊びであると堂々と答えるのがよいと梶井さんは言っている。

ゆとりか無駄か「配分効率性」

遊んでばかりいて大いに生活にゆとりを持たせるだけで、どんどん商売や学業に通じることができるならこんなにいいことはないが、残念ながらそうはいかない。
遊びの効果には限度があるものだ。そのため、遊びやゆとりに本当に価値があるのかどうかは、他の要素との比較で相対的に判断されねばならない。
たとえば、何年も着ていない服を考えよう。多少の愛着もあるし、そして何よりもそのうちにまた流行がやってきて、着るようになるかもしれないと思う。
可能性があるという意味では、そんな服はゆとりそのものだ。しかしながら、服を保存管理するのには馬鹿にならない手間と場所がいることを見逃せない。
膨大な費用をかけて、着る予定のまったくない服を保管するのは、間尺に合わないではないか?

すなわち価値あるゆとりとは、その維持費用に比べて、将来の可能性から得られる便益が十分に大きいもののことである。費用に比べて、便益が小さすぎるものこそが無駄なのである。
『百年目』に登場するあすびでも、鼻の穴に二本火箸を突っ込んでチリンチリンは、間尺に合わないあすびに入る気もするのだが、それでも評価に個人差がたる。
ここでいう費用と便益は、時と場合に依存し、しかも多分に個人差のあるものだ。
それゆえ、ある物や行為が無駄であるかそれとも遊びであるか判定するのは、多分に個人の主観的問題でもある。

『愛宕山』にも、こんなくだりがある。金持ちの旦那が、芸者や太鼓持ちを連れて京都の愛宕山に登り、名物の土かわらけ器投げをする。
土器を遠くの谷底にある的に当てる遊びだが、普通では面白くないので小判を投げると言い出す。
幇間の一八がそれはあまりに無駄でしょうと言うと、旦那は自分の稼いだ金で遊ぼうというのに文句を言うな、
無駄というならお前を連れて京都くんだりまで来るほうがよっぽど無駄だと言い返す。
それでもこんな遊びを思いつく旦那にとっては、幇間は無駄ではなく価値あるゆとりに違いなかろう。
無駄かどうか、絶対的な基準があるわけではない。
費用が高ければそれだけ無駄な度合いは大きいが、それでも便益のほうがまだ上回るのであれば、ゆとりと考えてよかろう。

ダイヤモンドの指輪を考えると、それをまったくの無駄と思う人もいれば、かけがえのない宝物であると崇拝する人もいる。
段ボール箱に詰められ押入れを占領する旧式のレコードを、役に立たないものの象徴と思う人もいれば、人生を豊かにする貴重な財産だと信じて疑わない人もいる。
長い行列に並んでラーメンを食べるのを、時間の無駄と思う人もいれば、娯楽であると感じる人もいる。
それらの個人的判断は、おそらくは費用便益の観点からも、正当化できるものだ。

つまりある物や行為は、それらが無駄か遊びかを絶対的基準で判定できないにしても、
それらが無駄と感じる人の手にあれば無駄であるし、遊びだと感じる人の手にあればゆとりなのである。
指輪は無駄だと思う人の手にあるべきではないし、段ボール箱のレコードはそれを財産だと思う人の手にあるべきである。
並ぶのを無駄だと思っている人が行列に加われば、それこそが本当の無駄であるから、並びたいと思っている人が並んで楽しむべきだ。

すなわち、物や行為はそれをゆとりと感じられる人に帰するべきだ。
これは人々の間でやりくりして無駄を排することに他ならないから、近代経済学ではこの考え方を配分効率性というそうです。

まさに、この配分効率性を俯瞰で考えて、奉公人たちの向上心を刺激しなさい!!と、『百年目』の親旦那は治兵衛に説いていて、
また、治兵衛自身も、花見の鬼ごっこを見られて眠れぬ夜を体験して、多分、ほんの少しだけ、その親旦那の気持ちを理解して、
この後、分家して暖簾分けし店を持って十年、二十年したら、この親旦那の気持ちが心底分かり、本当の意味で栴檀になるんだと思います。


さて、『百年目』の思いや考えを語り尽くしたので、ここからは、配分効率性をどの程度、表現できているのか?
実際に高座を見た15人の咄家、それぞれを私目線で評価していきましょう。

まず、この噺は、親旦那と番頭の治兵衛、この二人の演じ分け、キャラクターの格付けが、できていないと始まりません。
番頭の貫禄と、親旦那の貫禄です。これが確立された上で、初めて配分効率性なんて料簡の話にたどり着くのだと思います。

そいう視点で噺を見ると、私の聴いた15人では、ハッキリと見える感じだったのは、残念ながら五人。
小満ん師匠、今松師匠、志の輔師匠、市馬師匠、そして宗助さん。ただ、米朝師匠の親旦那を百とすると、75〜60くらいの貫目ですけどね。
親旦那!懐深いわぁ〜と、感動するレベルには、まだまだ、やっぱりたりません。

あとね、小満ん師匠以外の柳家は、皆さん同じ型で、権太楼・市馬・三三と聞いていて、馬桜さんのも微妙に違いました。
また、柳家と言う括りだと、志の輔師匠のも基本同じ気がして、圓生の『百年目』を色濃くベースにした演出です。
あと、志の輔師匠と権太楼師匠は、「土手弄り」で笑いを強く誘いに来ます。それに対して、三三師匠は少しやるけど、市馬師匠のは、土手を殆ど弄らない。

談春さんのは4回聴いていますが、親旦那が若い感じなんですよね。少し照れた感じにも聞こえます。
談笑師匠のは、楽天・三木谷社長のスチュエーションでの改作『百年目』で大爆笑したんですが、配分効率性を感じない噺でした。
圓丈さんのは、基本圓生の型なんですが、あまりに、喋りも口調も、圓生とは遠くて、空回りの『百年目』でした。
今松師匠のは、実に、ダンディで十代目馬生がやると、こんな感じ?と、思いました。一番、配分効率性が高い『百年目』。

最後に、上方落語の二人では、宗助さんの米朝師匠にソックリの『百年目』は、是非、聴いて欲しい。
塩鯛師匠のも、悪くは勿論なくて、ハメ物入りで、こじんまりした蕎麦屋で聴いたんだけど、配分効率性は少しでした。

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