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来年、真打が決まっている好の助さんが、美舟さんで聴けるので何の躊躇もなく参加しました。
そして、これが本格的に聴くの3回目の女流咄家の遊かりさんの二人会。こんな内容でした。
・時そば … 遊かり
・短命 … 好の助
・金明竹 … 遊かり
お仲入り
・掛川の宿 … 好の助
1.時そば/遊かり
季節てきに、もう『時そば』がいい感じになる11月でした。昼間は暑いくらいで夜は小雨が降って寒かった。
マクラでは、いつもより結構硬い感じがしました。理由は、後で分かったのですが、母上と兄上が来てらしたようです。
女流の咄家さんなりの苦労話から入った遊かりさんでしたが、ここには書けないですね。
さて、『時そば』。遊雀師匠のは聴いた事がないので、どこから仕入れたんだろう?極普通でした。
蕎麦を食べる所作も、可も無く不可も無い。後半の太いドロドロの蕎麦も、雰囲気は十分出ておりました。
ただし、何か落語のリズムが違う感じがします。芝居っぽいのが時々出ます。
2.短命/好の助
この噺は、色んな人で聴いていて、演者が多いのでも1・2を争う根多だと思います。
好の助さんを加えて26人で聴いています。
・喜多八
・三三
・一九
・談春
・志らく
・生志
・こはる
・春吾
・喬太郎
・喬之助
・さん坊(やなぎ)
・白酒
・菊之丞
・文菊
・権太楼
・甚語楼
・鈴之助
・一朝
・一之輔
・一蔵
・圓馬
・萬橘
・好の助
・遊馬
・昇太
・歌春
協会、流派に関係なく、こんなにやり手が多い噺は珍しいです。個人的には、談志師匠が好んで掛けてた印象があります。
ただ、この噺、そんなに面白い噺ではない。そして、使われるくすぐりもほぼ同じ。
でも、そんな中で、私の感性に合うのは、甚語楼師匠、昇太師匠、白酒師匠、そして萬橘師匠なのですが、
好の助さんのは、萬橘師匠のテーストがしました。こいう噺を、普通に演じて笑いにする咄家、本当に最近は減っています。
3.金明竹/遊かり
及第点くらいには、これもできていますし、これは遊雀テーストも比較的入っていると思います。
また、上方訛りの加賀屋の遣いも悪くありません。4回のパターンでスピードの強弱もいい感じでした。
何かパンチがないのです。遊かりさんらしさなのか?突き抜けるようなモノが入っていないですね。
最近、この噺を聴いて思うのは、傘の断りで、『中村仲蔵』の定九郎を使うのは?って思ったりします。
遊かりさんの「松公」は、愚かしく感じないのです。かと言って家元のように哲学者でもありません。
そつなくやるけど、キャラクターの色が、どうもはっきりしないと言うか、私好みではない感じがしました。
この噺の女将さん。これも笑いのポイントですよね。
4.掛川の宿/好の助
この噺、甚五郎の噺の中でも珍しい部類だと思います。私は落語では鶴光師匠でしか聴いた事がありません。
もともと、浪曲の根多だったものを、鶴光師匠が落語にしたと聴きました。山ほどくすぐりと駄洒落が入っていました。
掛川宿で、一軒の宿屋に貼紙がされている。
「これより三日。尾州公の参勤交代の為、この宿はお泊まりには成れません。」
この貼紙を読んだと言って、泊めてくれと言うみすぼらしい老人がまずやって来て、是非泊めて欲しいと言う。
この宿屋の番頭が、ダメだと言っても聞き入れない。ならば、1泊1両だと言えば行ってしまうだろうと言ってみたが、
この老人、番頭に1両差出し、女中に酒を1升買って来いと、一分渡して階段下の布団部屋へと引っ込んだ。
更に、職人風の若い男も「貼紙を読んだ」と現れて、こいつも1泊1両で相部屋宿泊。同じく一分渡して一升酒を女中に買わせた。
この二人。実は狩野探幽と左甚五郎。夜中に尾州公が泊る予定の部屋に潜り込み、探幽は屏風に千羽のスズメを描き、
甚語楼は床柱に大黒様を彫ってしまう。しかも、探幽は墨絵を描いた後、その墨を畳にこぼしてしまうのでした。
そそうをした二人は、朝早く宿を出るが、番頭や宿の若衆に捕まり、庭の松の木に二人とも吊るされて折檻を受ける。
しかし、宿に到着した尾州公が、二人の作品を見て、狩野探幽と左甚五郎だぞ!と激怒、二人はめでたく解放される。
短い地噺ですが、なかなか、好の助さんらしさを感じる一席で、ほぼ、鶴光師匠のくすぐりを継承されておりました。
次回は、貞寿先生と昇也さんの二人会で、12月2日土曜日開催。ことし最後の「つばなれ特選会」です。
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2017年11月06日
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この日、ショックなニュースが、2015年から若手に研鑽の場を与えて下さった「囀や」さん。
ここが、2017年12月をもって廃業されるそうです。実に残念です。主に、前座と二つ目さんが、
25人で満員になる小屋で、毎月、土日を中心に会を続けてきました。
また、小痴楽さんが演者をブッキングして、結構、有名な咄家さんが東西から出演してました。
この3年間で、主催者さんの弁によりますと、精も根も尽き果てたそうです。ご苦労様でした。
この「囀や」で、毎月会をやっていたあおい先生やこなぎさん、次は何処でやるのだろうか?!
さて、囀やさんのポイントカード。現在、4ポイント溜まっていますが…あと6回は行かないよなぁ。
そんな事を思いながら参加した「神田あおいの会」。こんな内容でした。
・牡丹燈篭「関口屋強請り」 … 神田あおい
・甕割典膳 … 田辺いちか
・塙保己一「出世比べ」 … 神田あおい
1.関口屋強請り/あおい
来月、もう1回ありますが、萬橘さんの浅草見番と重なり行けません。
さて、「囀や」さんが年内で店じまいになると、月例の勉強会をどこでやる?と、妹弟子“こなぎ”さんに相談。
緊急ミーティングを飲みながら開催したが… 話題がズレて、全く勉強会どころではなくなったらしい。
更に、いちかさんが今年はタテ前座として、忘年会や張扇供養など、協会のイベントを仕切り役として勤めるようになる。
いちかさんは、何とか恙無く勤めたいと言うが、あおい先生曰く「長老連は、酒が入ると理不尽極まれり!!」
小言と言うよりも、因縁に近い物言いなので… どんなに気配りしても、結果、世話役は叱られるようにできている。
それならば、余計な気を使うよりも、諦めて受け止めるに限ると、言っておりました。
そんなマクラから、「お札はがし」「お峰殺し」と9月から連続で読んでいる怪談『牡丹燈籠』の「関口屋強請り」。
「お札はがし」からのあらすじを10分程度語り、この日は、殺されたお峰の霊が女中に取り憑いた続きです。
お幇間(おたいこ)医者の山本志丈が再び登場し、関口屋・伴蔵を強請りに掛けます。
そして、二人で江戸へ金無垢の観音如来を堀に出かけるのですが… この部分は、なんと言っても、
お国の情夫である宮邊源次郎が、「間男したな?!」と、関口屋を訪れるが、逆に、伴蔵に凄まれて泡を食うシーン。
雲助師匠のようにとは言いませんが、それなりに啖呵を切るあおい先生なのですが、全く、ニンではありません。
こいうのは、鯉栄先生の方が似合うなぁ〜と思いました。
2.甕割典膳/いちか
『寛永宮本武蔵傳』だと「甕割試合」です。全く同じ噺の抜き読みでした。いちかさんとみのりさんではかなり雰囲気が変わります。
いちかさんが演じると、全く、笑い的な部分がないのですが、武芸モノなのに、堅過ぎない空気で展開されるのがいいですね。
如何にも前座さんが、ステディイに演じる武芸モノって、清々しい心持になれます。これも講談の魅力の一つです。
3.塙保己一「出世比べ」/あおい
みのりさんで1回聴いているけど、あおい先生だと格段に違います。塙保己一は埼玉の五本の指に入る偉人中の偉人ですよね。
武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。
塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので、荻野氏の出自。近世に帰農した、百姓の家系であるという。
父は宇兵衛、母は藤木戸村(現在の加美郡木戸村)の名主斎藤理左衛門家の娘きよ。舎弟卯右衛門。
幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。
草花を好み、非常に物知りであったという。5歳のときに疳の病気にかかったのが原因で、
目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に完全に失明した。
あるとき、虎之助のことを聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、
名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかった。
その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。
手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。
また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。
目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、
一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという。なんせ記憶力に優れた少年だった。
10歳になると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、
両親が反対するだろうと悩んだ。宝暦7年(1757年)6月13日、母きよが過労と心痛で死去する。
形見としてきよのお手縫いの巾着をもらう。巾着には23文入っていた。
宝暦8年、絹商人に「太平記読み」で暮らしている人の話を聞き、
江戸で学問をしたいという気持ちがいっそう募っていった。
宝暦10年、15歳で江戸に出、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せる。
約3年間を盲人としての修業に費やし、17歳で盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し、
名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めた。しかし生来不器用でどちらも上達しなかった。
加えて、座頭金の取り立てがどうしても出来ず、絶望して自殺しようとした。
自殺する直前で助けられた保己一は、雨富検校に学問への想いを告げたところ
「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められた。
講談の「出世比べ」は、この15歳で国を出て江戸へ向かう後の保己一こと辰之助少年が、
同じく武士になりたいと志して、江戸へと向かう後の南町奉行・根岸肥前守鎮衛の少年時代16歳と出逢うとこから始まる。
二人は、互いの志を語り合い、どちらが先に出世するか?!競うではないかと約束し、共に江戸へと向かいます。
鎮衛は、丁稚として商家で働き金を溜めて、御家人株を買って養子となり、勘定所の御勘定の職に着く。
ここから頭角を現して、勘定奉行を経て、最後は南町奉行にまで出世するのです。
保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。
国学・和歌を萩原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、
医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮に学んだ。
塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。
保己一の学問の姿勢に感動した旗本の高井大隅守実員の奥方に、『栄花物語』40巻をもらい、
初めて書物を所有した。のち、雨富検校の隣人の旗本・松平織部正乗尹が講義を受けていた
萩原宗固の講義をともに聞くことになった。乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を雨富検校に説き、
はれて、萩原宗固の門人として教えを受けることとなった。
そして、宗固の勧めで漢学や神道を川島貴林に、同時に律令を山岡明阿(山岡浚明)に学んだ。
宝暦13年(1763年)に衆分(盲官のひとつ)になり、名を保木野一と改めた。
明和3年(1766年)、雨富検校より旅費をうけ、父と一緒に伊勢神宮に詣で、
京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山などと60日ほどにわたって旅をした。
明和6年に晩年の賀茂真淵に入門し、『六国史』などを学ぶ。
その年の10月に真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった。
安永4年(1775年)には衆分から勾当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。
安永8年、『群書類従』の出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願する。
この講談では、検校に成った保己一が自ら開校した学問所への幕府からの寄付金を頂く為に南町奉行へ出向き、
ここで、根岸肥前守の声を聞いて、「あの時の、大宮宿で出逢った鎮衛さんでは?」と気付き、
二人で互いの出世を祝い合って、この後も、長く親交を温めたという物語になります。
あおい先生らしい良さが満載の一席でした。囀やさん、11月も12月も行ける限りは行きたいけど…
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