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日曜日27日の早朝、眠いと感じながら、今月最後の朝練講談会。どうしようか?と迷う事も無く9:10に日本橋亭に到着。
熱心なファンの皆さんが、既に5人赤い長椅子に座って開場を待たれておりました。5分待って定刻に開場。
結局、30人くらいの入り。朝9時半にこれだけ集まれば、大したもんですよ。今月最後の朝練講談会、こんな内容でした。
・秋色桜 … 紅純
・伊達正宗の堪忍袋 … 一龍斎貞弥
1.秋色桜/紅純
二つ目“紅純”になって三回目の高座にして、紅先生門下らしいネタ『秋色桜』が聴けました。
これまでは、松鯉一門時代の持ちネタ『寛永宮本武蔵傳』だったけど、季節外れですけどね女流らしい根多が聴けました。
少し硬い入りでしたが、徐々に紅純さんらしい表現になって、自然と醸すコミカルさが武器ですね、この人は。
2.伊達正宗の堪忍袋/貞弥
一龍斎の一門にとっては、「伊達正宗」という武将は格別な存在です。それは正宗公の戒名を見ると分かります。
「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」
かつて、武芸モノを得意な片目の講釈師が居て、その講釈師は伊達正宗にあやかりその戒名から「貞山」の二文字を頂いた。
そう初代一龍斎貞山、その人です。『伊達評定』が十八番だったらしいです。寛政から安政に掛けて活躍したそうです。
そんな一龍斎らしい物語です。この噺は、旗本と大名の確執がテーマで、水野十郎左衛門一派の旗本、その無礼に正宗が我慢します。
聴いていて思ったのは、これが上方の講釈師なら、絶対に、幡随院長兵衛を挟んで来るだろうなぁ〜という事です。
やっぱり、上方は“愉快”“痛快”に貪欲で、東京はお行儀が良くて、しかも、粋を重んじるあまりに大人しいですよね。
下品になり過ぎてはいけないけど、奇想天外な痛快さは、見習って欲しいと、最近、つくづく思います。
この記事を書いていて思い出したのですが、南海先生曰く「二代目南凌先生から聴いた話だが、
先代初代南凌は、千利休を高座で喋る際に、最期は秀吉の命令で切腹させられるから、
どうしてもラストの二話ぐらいになると、その利休が追い詰められる心理描写中心で噺が暗くなる。
落語家なら終わった後に、踊りで会場を明るくさせて帰せばよいが講釈師はそんな訳にはいかない。
そこで、この終盤の二話になると、思いっきり脇に逸れる噺を突っ込んで、陽気にさせて帰すのが、
一流の講釈師だ!という自負を持っていた。」
そんな初代南凌先生が、『千利休』で放り込んで来た脇の噺に、伝説の「竹の柄杓の噺」というのがある。
お茶を立てる際に、鉄瓶から湯を茶碗へと注ぐ道具です、この竹の柄杓。この原材料の竹あるある。
竹の産地は、何処がいいか?竹の何節目を使うと良い柄杓になるか?名工の加工へのこだわりは?
使う側の作法について、そして、流派による拘りに至るまで、なんと!この竹の柄杓の噺で4日引っ張ったらしい。
まぁねぇ、釈場が町内に一軒存在し、神田伯山が「八丁荒らし」と異名を取った時代の話だとしても、
四日間は、やったほうもアホですが、黙って聴いている方も負けずとアホだと思います。
また、この時代、テレビも週刊誌もないので、パクリ放題だったといいます。現在の中国並みに著作権の概念が無かった!!
だから二代目南凌先生もよく云っていたそうです、俺の若い頃に吉川英治、司馬遼太郎が活躍していたら、
俺の講釈はもっともっと手に汗握る展開で、めっちゃ面白かったと思うぞ、と。
次回、朝練講談会は、貞橘先生と松之丞さんで6月3日。絶対に超満員100人越えると思います。
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2018年05月29日
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汲沢寄席「小せん独演会」が終わったのが16:00。戸塚汲沢地区の心臓破りの坂を下りバス亭へ。戸塚から神保町の最短ルートを検索。
東海道線で新橋まで出て、内幸町へ歩いて三田線に乗るのが最短ルートだと分かる。17:30ちょうどに着いて開場したばかり、
最前列の中央を確保する。そして、本日28日のTWO「夏丸・萬橘の会」をキャンセル。仕事で行けなくなる。残念!!真打後の夏丸師匠お預け。
さて、汲沢寄席の夕方を振って駆け付けたらくごカフェ。南海先生が連続読みされている『会津の小鉄・第二夜』!こんな内容でした。
・依田孫四郎「下郎の忠節」 … いちか
・会津の小鉄「那珂川原大出入で仙吉、男を売る」 … 南海
・会津の小鉄「桜田門外の変に、仙吉、父の報を聞く」 … 南海
1.下郎の忠節/いちか
前回、ここらくごカフェでの阿久鯉先生の会での開口一番、いちかさんが演じたのが、この「依田孫四郎」でした。
久しぶりに常套句の「講釈場の例に従いまして、開口一番、お膝固めを勤めさせて頂きます、田辺一邑の弟子の田辺いちかで御座います。」
この科白が聴けたのは嬉しいけど、流石に、いちかさんしか使える前座が講談協会に居ないので、あらゆる会に呼ばれ過ぎて根多が増えません。
もう二つ目にしてやって良いはずなのに、下が育たないと、前座を卒業させてもらえませんね、いちかさん。可哀想です。
さて、この依田孫四郎の物語。全く同じ筋の噺が、太閤記の中にもあるそうです。この後に高座に登場された南海先生が仰っておりました。
何でも「桶狭間の合戦」。長い太閤記の中に在って序盤のハイライトですよね。その中に「前田戌千代/前田利家」の物語があり、
この依田孫四郎と全く同じで、酒と女で信長をしくじります。それを近所のよしみで藤吉郎(秀吉)が桶狭間の戦場に利家を隠して連れ出し、
同じように戦場で利家が取った首に、藤吉郎が札を付けて廻ります。30を超える今川の敵将の首を上げた利家を信長が呼び戻せと云うが、
既に戌千代は戦場で死んだと藤吉郎は報告。一時の感情で解雇した事を反省する信長が、「戌!許す」と云うと、実は利家は生きていたという噺。
殆ど、依田孫四郎と同じ話で、孫四郎が利家に、その下僕が藤吉郎に変わり、家康が信長へと変わります。
南海先生も、おそらく太閤記が先にできて、徳川の方がこれをパクったのでは?と仰っておりました。
この利家の逸話。大河ドラマ「利家とまつ」には出てきませんよね。大河ドラマ「太閤記」の方はどうなんだろう?
現在の中村芝翫丈が「橋之助」だった時代にやった大河ドラマに在ったかな?武田鉄矢の方は記憶に全くない。
講釈は、本当に似たような噺が複数あるので、タイトルは異なるが中身は一緒って噺が本当に沢山あります。
2.那珂川原大出入で仙吉、男を売る/南海
前回は、大阪から京都を越えて滋賀県は大津へと移動している最中に、主人公の仙吉が馬方さんに懐の三拾両を狙われる場面。
そこに茂みの中から、一人の若い女が現れて、「ちょっと待ちなぁ〜」と声を掛けた場面で終わりました。実に講釈らしい切れ場でした。
この女は、梅乃といって東海道の馬方と馬喰を取り仕切る侠客・遠州浜松の金剛権九郎の娘でした。そうと知って震え上がる馬方たち。
そして、仙吉は梅乃の誘いで浜松の金剛一家に草鞋を脱ぎます。でねぇ、この旅に出た時の仙吉九歳なのですが、
剣の修行も兼ねてと云うか、権九郎と梅乃に云われるんです。「ちゃんと父譲りの“長曽根虎徹”を使えるようにならないと、
水戸までの道中命が幾つ在っても足らないぞ!!」と。それもあって、浜松の金剛一家には長逗留になるんですが、それにしても長い!!
実に6年。ここに留まり15歳になって仙吉は水戸へと旅立つのです。講釈らしいというか、この後の展開もあり安政7年に水戸へ。
金剛権九郎からの紹介状を持って水戸に入った仙吉。ここでは十文字虎五郎という侠客の家に厄介になります。
すると、この水戸の一家と近隣土浦の大五郎一家が揉めています。理由は水戸が開いた鹿島神宮の奉納相撲。
ここに江戸の相撲、東の大関「小柳」に二百両渡して段取りをお願いしたのですが、西の大関「明石潟」も、
五拾両の銭目が眩みこっそりこの相撲巡業に参加します。ところが、この明石潟は土浦大五郎が贔屓の力士です。
大五郎に何の報告も挨拶一つなしに、土浦を素通りして鹿島神宮入り。これに怒った土浦大五郎が相撲を妨害しようとします。
そこに仲裁役として入った式守伊之助。これが喧嘩ではなく小柳VS明石潟の相撲で決着させようと申し出ます。
それに従う両一家、千穐楽の大一番を観戦する大五郎と虎五郎。明石潟が腰砕けになりそうな小柳に情けを掛けて救ったのに、
小柳は大勢を整えて、明石潟を一気に投げて勝ってしまう。昨年末、何とも遺恨を残した結果で終わったもので、
年が明けて松の取れた頃、突然、土浦から五百の手勢を連れて大五郎が、那珂川の川原集まり始めだのだった。
一方、この知らせを聴いた虎五郎一家は驚いた。なぜなら、主だった若衆は全員、恒例の新春慰労会で常磐温泉へと旅に出てしまったばかりだ。
手勢は老人とけが人の留守番二十数名だけ。それでも、イモを引くわけにいかず、虎五郎一家も那珂川へ。これに仙吉も従った。
そして、玉砕覚悟で集まった虎五郎一家に神風が吹く。なんと!川原に着いてすぐに、親分の大五郎がポックリ死んでしまったという。
更に、あと2日常磐に留まるはずの若衆たちが、「虫の知らせ」と云って帰って来たではないか?! 一気に勢いの着く虎五郎一家!!
今まさにシュンと成った土浦大五郎勢に、襲いかかろうとする水戸十文字虎五郎一家!!この間に一人の青年が割って入る。
待ちなせぇ〜!!
片方は親分の急死に青菜に塩。それを好機とばかりに攻めて掛かるなんぞは、極道の風上にもおけぬ所業だと云うのである。
日ごろ、義理人情を重んじる侠客のする事じゃないと訴える仙吉に、虎五郎、目から鱗。こんな幼い奴から人の道を教えられるとは。。。
虎五郎、土浦側に提案し、大五郎の葬儀を水戸の仕切りで、因縁の鹿島神宮でやろうと持ち掛ける。後見人は仙吉である。
葬儀、初七日、そして四十九日と弔いと法要を済ませて、五百の大五郎一家は土浦へと去っていく。そして百日法要を済ませた後、
今度は、土浦大五郎一家が水戸の虎五郎一家を呼んで接待、和解の大宴会が催された。その席で跡目の代貸が虎五郎に、こう云った。
「我ら土浦を、水戸の末席に加えてもらえないか?」と。すると、虎五郎からは意外な提案がなされます。
俺なんかの下ではなく、お前達が納得なら、仙吉さんを親分に迎えて、もう一度土浦で纏ってみては?と云うのである。
云われた仙吉の方がビックリ。まだ、十五の未熟者です。ありがたい話ではありますがと、土浦の親分になるのは断る仙吉。
しかし、土浦面々は仙吉に命を助けられたも同然と、待ちますからとことわって、とりあえず、仙吉の父親探しに専念するのでした。
3.桜田門外の変に、仙吉、父の報を聞く/南海
土浦の五百人が血眼になって仙吉の父親を探し廻ってくれたが、その甲斐もなく一ヶ月が過ぎても手掛かりらしい情報も掴めない。
そんな中、水戸の城下に大事件の知らせが舞い込んで来る。そうです、元水戸藩の浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門が桃の節句早朝、
大老・井伊直弼を殺害するという事件が起きる。尊王攘夷の急先鋒・水戸の斉昭公を隠居させてまで、日米和親条約と通商条約を進めた直弼。
これに天誅を下さんと決起した水戸藩士と有村次左衛門。まぁ、影で糸を引いていたのは斉昭公なんでしょうけどね。
ここから上方の講釈らしく少し脱線する南海先生。この脱線の噺が本線に負けないくらい面白く興味深いのです。
まず、比較的最近、彦根市長選挙に薩摩の有村次左衛門の子孫が立候補したというニュースが話題になりました。
◇関連ニュース
彦根四万世帯に、彦根の英雄・井伊直弼を殺した人の子孫を市長にしていいと思いますか?!
というネガティブキャンペーンを展開し、何とか有村氏の当選を阻止してニュースにもなりました。
ただ、この有村さん、彦根の近隣市で、首長選挙に当選してますけどね。
また、もう一つ。三月三日に井伊直弼が殺された半年くらい後、八月十五日の十五夜/月見の宴において水戸斉昭は変死します。
水戸藩は病死と発表しておりますが、実は、彦根藩からの刺客によって殺された説も、かなり有力と言われておるようです。
と、云うのも、井伊直弼の側近中の側近、武芸に優れた家臣:小西貞義が、桜田門外の変直後に脱藩。水戸偕楽園の出入の庭師、
この親方のところに弟子入りして丁稚奉公します。半年真面目に勤めていたのに、八月十三日に親方に地元で不幸があったからと、
突然、お暇を下さいと申し出て、庭師の仕事を辞めます。そして、必ず、斉昭公は毎年十五日に書院に籠り月見に興じる。
だから、小西貞義が十三日から書院の床下に潜み、斉昭公が来るのを飲まず食わずで待ち伏せします。
そして、斉昭公が来て、酒を呑み月を愛でている隙に、畳の下から刃を向けて、これを惨殺し逐電!!その行方はようとして知れず。
明治になり、この小西貞義には、義徹という舎弟がいました。この義徹、戊辰戦争に従軍し武功を立てて地位を得ます。
さらに明治の戸籍編成の際、姓を小西から大東に改めるのです。西南戦争への荷担の罪で大阪で逮捕されますが嫌疑不十分で釈放。
1890年、第1回衆議院議員総選挙に滋賀郡部から立候補し初当選するのです。後に政治からは身を引き、近江鉄道の総裁となり財をなす。
そして、明治38年、亡くなる間際になって、「実は、我が兄・小西貞義は、水戸の斉昭公を暗殺している」と遺言するのです。
いまだに、彦根藩関係者から水戸藩関係者に、この暗殺は事実ですよね?と質問状を送っているが、水戸側は“ノー”と答えるばかりらしい。
もっと詳しく知りたい皆さんは、野村しづさんの『雪辱 真説・井伊直弼』を読んでみて下さい。
◆野村しづ一著『雪辱 真説・井伊直弼』
この話、お恥ずかしいけど初めて知って、これが一番、この日の会津の小鉄の中では、私の心にピピッと来ました。
さて水戸・土浦が仲直りした後、仙吉の父親の情報を水戸城下の居酒屋で、ある中元が桜田門外の変のおかげで、主家斎藤監物家が改易となり途方にくれていたが、
中村家から声が掛かりその中元は路頭に迷う心配は無くなった。その噂話の中で、主人斎藤監物は、実行犯に加わる予定ではなく、
実は朝廷へ密書を届ける役回りだった。それが、数年前に水戸の地に流れて来て、監物様にその剣の腕を買われて町はずれで道場を開いた。
あの流れ者の剣士が、その密書を届ける役を引き受けたから、斎藤監物は実行犯に加わったと云うのだ。そして、その流れ者こそ仙吉の父だった。
父は、「桜田門外の変」に呼応して、京で朝廷軍が決起する事を促す密書を運ぶ役目を、水戸藩斎藤監物が授かっていたのだ。
父の行き先が京都なら、必ず、江戸を通り水戸藩江戸藩邸と連携して京に向かうはず。まずは、水戸藩に関係する香具師を訪ねてみては?と、
十文字虎五郎が紹介状を書いて、江戸の侠客・相模屋政五郎を訪ねるようにと薦めらる。
相模屋政五郎。通称は相政、幡随院長兵衛と同じ大名行列の口入家業の元締めです。
明治になってからは、山中政次郎と名乗って『日本鉄道請負業史』に新橋横浜間の請負人。鉄道公共事業莫大な財産を築きます。
文化4年に口入屋大和屋定右衛門の次男として、江戸に生まれる。その後、後継者の無かった相模屋へ養子として入ります。
更に文政年間には日本橋箔屋町で香具師の一家を構えて、日本橋界隈では顔役となります。
弘化3年5月、土佐藩邸付近で起きた火事を、政五郎が組織する町火消しがいち早く消し止めて、
この功績が山内豊熈に大変気に入られ、土佐藩江戸屋敷の火消頭になり、火消一切を任された。
更に安政2年3月の土佐藩邸火災では、火薬庫に引火するのを阻止し、大火を防いだ。
この頃から慶応年間までが、政五郎の全盛期で江戸の口入屋の中でも図抜けた存在であり、子分1,300人を抱えていたと言われます。
この後、相政は幕府が滅ぶまで、幕府要人の影で多くのよごれ仕事をやります。幕府の陸軍歩兵募集に無宿人や浪人を斡旋したり、
また、その幕府軍が薩長に敗れ、歩兵が次々解雇されると、こいつらが徒党を組んで江戸市中で悪さするようになる。
すると、この兵士たちに故郷へ帰る為の義捐金を私財から出して配ったと言われています。
最後に鳥羽・伏見の戦いで敗れた後も、勝海舟を助けて、敗戦兵/脱走兵の面倒を観たのもこの相政です。
最後の土佐藩主・山内容堂から長年の労を労われ、名字帯刀御免、10人扶持となり、山中の姓を賜っております。
明治になり容堂公が死ぬと自らもこれに殉じて殉死しようとしたが、板垣退助に説得されて思い止まった、という逸話も。
結局、明治19年80歳の生涯を全うした相模屋政五郎。この仙吉と出会う頃が、一番勢いが在った時代なんでしょうなぁ。
この後、相模屋政五郎一家と新門辰五郎一家が浅草奥山の賭場で小競り合いとなり、これに仙吉も巻き込まれます。
多勢に無勢、仙吉の命を間一髪救うのが、当時はまだ多摩豪士・近藤勇です。講釈らしいオールスター勢揃いの展開!!
この喧嘩がキッカケで、仙吉の父親を箱根まで、新門辰五郎の子分が送った事が分かります。
居ても立っても居られず仙吉は、相政にこれまでの礼を云って、東海道は浜松の金剛権九郎の元を再び訪ねる事になります。
浜松で再会を喜ぶ間もなく、権九郎の手下が馬方たちの情報網を使って仙吉の父親の情報をかき集めると、
街道の山間で山賊に襲われて、20〜30は叩き斬ったが、如何せん一人では切り抜けられず殺されてしまう。
その亡骸は、近所の寺に無縁仏として葬られていると云う。寺に掛け付けて父の事を坊主に訊ねると、
父親の脇差し長曽根虎徹の九寸五分を住職が大切に保管してくれていた。そしてその遺骨も分けて貰った仙吉。
それを持って長年留守にしている母親の元に届けて、大坂木津の地に墓を立ててやろう。
そして、母親に孝行して百姓になって暮らそう。この旅に送り出してくれた大坂日本橋、江戸奴の伝吉親分にも報告せねば。
脇差しは、俺が持っていても仕方ない。二刀手挟み侍になる訳でもない。この長刀1本で十分だ。
そう言って、仙吉、梅乃に脇差しを父と自分の形見だと云って渡し、大坂へと旅立った。
まずは、大坂日本橋。江戸奴の伝吉を訪ねると、伝吉の姿は無く、何人かの顔見知りの子分の話によると、
伝吉は仙吉が水戸に旅だった翌年、賭場の手入れで逮捕されて投獄中に病死した。無念な最後で子分も今は散り散りだと云う。
仕方ないとおてんとう様に手を合わせて、日本橋を去り西成、木津の実家へと向かう。ところが、家に行くと見知らぬ男がそこには居る。
なんでも母は5年前に亡くなり、この農家は遠い親戚に引き継がれていた。既に土地建物の権利も代替わりしていて母親の墓もない。
愕然とする伝吉だったが、手紙一つ出さなんだ自分も確かに悪い。もう、自分が身を寄せる大坂は残っていないと諦める仙吉。
もうこうなったら、父が行くはずだった京都に行ってみよう。そこには何があるか分からないが、父が夢半ばで見る事の無かった京の都。
そこに行く決意をした仙吉。時は文久2年(1862年)、明治維新まであと6年のその時、京都では新撰組の募集が始まっていた。
この後、仙吉は、巡り巡って、近藤勇と再会します。そして、新しい時代の渦に大きく巻き込まれて行くのです。
次回は、7月28日(土)です。上方の講釈の余談の放り込み方、実に興味深いです。
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