Marsのブログ

小さな会を精力的に聴く努力をしてまいります!!

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『鰍沢』『明烏』と来て、今回は、落語『百年目』です。桜が咲く頃に近年は、よく掛かるように成った噺です。
と、申しますのも、東西の名人・米朝と圓生が十八番にしていた『百年目』だったので、他の咄家はお二人に遠慮して、高座に掛けませんでした。

それが、圓生は亡くなり、米朝は高座からの引退を発表されると、最初は圓生一門の弟子や米朝一門の弟子から、少しずつ高座で演じるようになり、
2001年を過ぎると、一門に関係ない咄家も、この噺を高座に掛けるようになる。それでも、演者は最初は還暦過ぎの師匠ばかりだった。
それが、2005年頃になると、40を過ぎたらやる咄家が現れ始めて、更に2010年を過ぎると30代でもやる演者が登場します。
結果、10年間で聴いた『百年目』は?

15人22回です。2009年から2018年に、こんな咄家で聴いておりました。

2009年 1人1回
三遊亭圓丈

2010年 1人1回
立川志の輔

2011年 4人4回
柳亭市馬
立川談笑
柳家権太楼
桂塩鯛

2012年 1人1回
鈴々舎馬桜

2013年 5人5回
立川志の輔
鈴々舎馬桜
むらし家今松
立川談春
柳家権太楼

2014年 3人4回
立川志の輔×2
柳家三三
立川談春

2015年 2人2回
桂宮治
立川談春

2016年 1人1回
春風亭一之輔

2017年 1人1回
立川談春

2018年 2人2回
桂宗助
柳家小満ん 

まずは、各咄家の『百年目』の感想を語る前に、私が感ずる『百年目』について、思いと考えを述べてみたいと思います。

この噺の、お店の親旦那さんの料簡と番頭さんの料簡。この二つの対比が、テーマであり江戸時代の日本の商人と言うものは、ずべからくこのようだったと、私は思います。
この番頭・治兵衛は、今の自分という者が今この地位に在るのは、自分だけの力であると思っている節がある。
そんな治兵衛だから、自分より未熟な手代や丁稚は、どーにも許せない。現代の会社組織にも同じような「部長」居ると思います。
番頭の治兵衛さん、兎に角、奉公人には厳しい。常に小言を絶えず浴びせるから、奉公人は萎縮して、心が休まる暇もありません。
一方で、治兵衛さん自身は、堅物を演じている。裏にまわると自分の裁量で、芸者を上げて、廓あすびもやっています。

そんな、治兵衛の裏のあすびを、偶然、向島で見た親旦那。この親旦那は、『明烏』の日向屋半兵衛さんと同じで、若い頃から茶屋遊びでならしているから、
根は遊びの分かる粋な奴だ!と番頭の一面を知り、あの栴檀と南縁草の話をする気持ちになる親旦那。遊びの一つもできないと、商いの鋒が鈍るという料簡ですからね、
お前の目から見たら半端な小僧や手代でも、長い目で見て指導してやり、時には息抜きにも目を瞑って欲しいと言う。

これは、近代の経済学にも通じる理屈でして、「配分効率性」と言う言葉で、経済学者・梶井厚志氏が『百年目』の親旦那の料簡を解説したコラムを読んだ経験があります。
噺の中で親旦那が番頭を戒めたのも、下の者たちが締め付けられ過ぎて、全くゆとりがなくなっていると、
将来いざというときに、彼等は働かず、店にほころびの出る危険が高まるからだと私は思います。

また、親旦那が治兵衛に、今まで通りに遊びを勧めるのも、往々にして遊びの中で将来のビジネスチャンスが見出されるからに他ならない。
現代のサラリーマン社会においても、私たちが仕事に必ずしも直結しない人付き合いでも大切にする背景には、
人の輪からもたらされる将来における有形無形の便益が、潜んでいるからに相違ない。

話は変わるが、警察はなぜ必要なのだろう。もしも、ある小さな町で、ある年一年間を通して、犯罪がまったく起こらなかったとしたら、
翌年からその町で警察は不要になるのであろうか?おそらくそうではない。
その時点で犯罪がなくとも、将来に渡ってその可能性がなくなるわけではないからだ。警察のない町は、ゆとりのない町かもしれない。
一方、基礎学問を研究する大学はなぜ必要なのだろう。もしも、そんな社会に貢献しない学問ばかり続ける教授が、
いったい何の役に立つのかと聞かれたら、それは社会の遊びであると堂々と答えるのがよいと梶井さんは言っている。

ゆとりか無駄か「配分効率性」

遊んでばかりいて大いに生活にゆとりを持たせるだけで、どんどん商売や学業に通じることができるならこんなにいいことはないが、残念ながらそうはいかない。
遊びの効果には限度があるものだ。そのため、遊びやゆとりに本当に価値があるのかどうかは、他の要素との比較で相対的に判断されねばならない。
たとえば、何年も着ていない服を考えよう。多少の愛着もあるし、そして何よりもそのうちにまた流行がやってきて、着るようになるかもしれないと思う。
可能性があるという意味では、そんな服はゆとりそのものだ。しかしながら、服を保存管理するのには馬鹿にならない手間と場所がいることを見逃せない。
膨大な費用をかけて、着る予定のまったくない服を保管するのは、間尺に合わないではないか?

すなわち価値あるゆとりとは、その維持費用に比べて、将来の可能性から得られる便益が十分に大きいもののことである。費用に比べて、便益が小さすぎるものこそが無駄なのである。
『百年目』に登場するあすびでも、鼻の穴に二本火箸を突っ込んでチリンチリンは、間尺に合わないあすびに入る気もするのだが、それでも評価に個人差がたる。
ここでいう費用と便益は、時と場合に依存し、しかも多分に個人差のあるものだ。
それゆえ、ある物や行為が無駄であるかそれとも遊びであるか判定するのは、多分に個人の主観的問題でもある。

『愛宕山』にも、こんなくだりがある。金持ちの旦那が、芸者や太鼓持ちを連れて京都の愛宕山に登り、名物の土かわらけ器投げをする。
土器を遠くの谷底にある的に当てる遊びだが、普通では面白くないので小判を投げると言い出す。
幇間の一八がそれはあまりに無駄でしょうと言うと、旦那は自分の稼いだ金で遊ぼうというのに文句を言うな、
無駄というならお前を連れて京都くんだりまで来るほうがよっぽど無駄だと言い返す。
それでもこんな遊びを思いつく旦那にとっては、幇間は無駄ではなく価値あるゆとりに違いなかろう。
無駄かどうか、絶対的な基準があるわけではない。
費用が高ければそれだけ無駄な度合いは大きいが、それでも便益のほうがまだ上回るのであれば、ゆとりと考えてよかろう。

ダイヤモンドの指輪を考えると、それをまったくの無駄と思う人もいれば、かけがえのない宝物であると崇拝する人もいる。
段ボール箱に詰められ押入れを占領する旧式のレコードを、役に立たないものの象徴と思う人もいれば、人生を豊かにする貴重な財産だと信じて疑わない人もいる。
長い行列に並んでラーメンを食べるのを、時間の無駄と思う人もいれば、娯楽であると感じる人もいる。
それらの個人的判断は、おそらくは費用便益の観点からも、正当化できるものだ。

つまりある物や行為は、それらが無駄か遊びかを絶対的基準で判定できないにしても、
それらが無駄と感じる人の手にあれば無駄であるし、遊びだと感じる人の手にあればゆとりなのである。
指輪は無駄だと思う人の手にあるべきではないし、段ボール箱のレコードはそれを財産だと思う人の手にあるべきである。
並ぶのを無駄だと思っている人が行列に加われば、それこそが本当の無駄であるから、並びたいと思っている人が並んで楽しむべきだ。

すなわち、物や行為はそれをゆとりと感じられる人に帰するべきだ。
これは人々の間でやりくりして無駄を排することに他ならないから、近代経済学ではこの考え方を配分効率性というそうです。

まさに、この配分効率性を俯瞰で考えて、奉公人たちの向上心を刺激しなさい!!と、『百年目』の親旦那は治兵衛に説いていて、
また、治兵衛自身も、花見の鬼ごっこを見られて眠れぬ夜を体験して、多分、ほんの少しだけ、その親旦那の気持ちを理解して、
この後、分家して暖簾分けし店を持って十年、二十年したら、この親旦那の気持ちが心底分かり、本当の意味で栴檀になるんだと思います。


さて、『百年目』の思いや考えを語り尽くしたので、ここからは、配分効率性をどの程度、表現できているのか?
実際に高座を見た15人の咄家、それぞれを私目線で評価していきましょう。

まず、この噺は、親旦那と番頭の治兵衛、この二人の演じ分け、キャラクターの格付けが、できていないと始まりません。
番頭の貫禄と、親旦那の貫禄です。これが確立された上で、初めて配分効率性なんて料簡の話にたどり着くのだと思います。

そいう視点で噺を見ると、私の聴いた15人では、ハッキリと見える感じだったのは、残念ながら五人。
小満ん師匠、今松師匠、志の輔師匠、市馬師匠、そして宗助さん。ただ、米朝師匠の親旦那を百とすると、75〜60くらいの貫目ですけどね。
親旦那!懐深いわぁ〜と、感動するレベルには、まだまだ、やっぱりたりません。

あとね、小満ん師匠以外の柳家は、皆さん同じ型で、権太楼・市馬・三三と聞いていて、馬桜さんのも微妙に違いました。
また、柳家と言う括りだと、志の輔師匠のも基本同じ気がして、圓生の『百年目』を色濃くベースにした演出です。
あと、志の輔師匠と権太楼師匠は、「土手弄り」で笑いを強く誘いに来ます。それに対して、三三師匠は少しやるけど、市馬師匠のは、土手を殆ど弄らない。

談春さんのは4回聴いていますが、親旦那が若い感じなんですよね。少し照れた感じにも聞こえます。
談笑師匠のは、楽天・三木谷社長のスチュエーションでの改作『百年目』で大爆笑したんですが、配分効率性を感じない噺でした。
圓丈さんのは、基本圓生の型なんですが、あまりに、喋りも口調も、圓生とは遠くて、空回りの『百年目』でした。
今松師匠のは、実に、ダンディで十代目馬生がやると、こんな感じ?と、思いました。一番、配分効率性が高い『百年目』。

最後に、上方落語の二人では、宗助さんの米朝師匠にソックリの『百年目』は、是非、聴いて欲しい。
塩鯛師匠のも、悪くは勿論なくて、ハメ物入りで、こじんまりした蕎麦屋で聴いたんだけど、配分効率性は少しでした。

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