La vita e bella

前のことを、たらり・たらりと書いています。ニューイヤー・コンサートのことすら書いていなかったこの怠慢さ…。

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バッハの他にも、ライプツィヒゆかりの重要な作曲家がいます。





まずメンデルスゾーン、作曲家としてだけでなく指揮者、教育者としてもライプツィヒに多大な
貢献をした音楽家です。1835年、26歳にしてゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、その
8年後には自ら資金集めに尽力してライプツィヒ音楽院を設立し院長に就任。ライプツィヒに
居を構え1847年、38歳の若さで亡くなります。



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非常に立派なメンデルスゾーンの家



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メンデルスゾーンが住んだことを示すレリーフ



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メンデルスゾーンが作曲活動に勤しんだ部屋





そのメンデルスゾーンによってライプツィヒ音楽院の教授として招かれたのがシューマンです。
シューマンと妻クララが1840年から1844年まで住んだ家があります。この時期には「リーダー
クライス」、交響曲第1番「春」、歌曲集「女の愛と生涯」、ピアノ協奏曲、ピアノ五重奏など
素晴らしい名曲が作曲されています。



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シューマンとクララが住んだ家



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同じく、二人が住んでいたことを示すレリーフ





ライプツィヒと言えばヴァーグナーも当地に生まれ当地の大学に学びましたが、作曲家として
名を馳せたのがライプツィヒ時代でなかったためかライプツィヒにはメンデルスゾーンや
シューマンのような記念の博物館はありませんでした。やはりバイエルンなのでしょう。
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮によるゲヴァントハウス管弦楽団の特別演奏会がありました。
ブロムシュテットは1998年から2005年までゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスター
(首席指揮者)を務め、現在は名誉指揮者として客演しています。両者の関係は非常に密で、
9月の末からこの演奏会まで6公演を指揮、直後にはイタリア、ルクセンブルク、フランス、
ドイツ国内の5都市を巡る演奏旅行も行なっています。





ホテルからゲヴァントハウスまでは歩いて7分ほど。当日券を求めチケット売り場に行くと
とても良い席ですが34ユーロ(!)で買えました。もちろん、定価です。



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ゲヴァントハウスの外観



ゲヴァントハウスは建設されてからまだ30年というコンサートホールです。ロビーにはこの建物
の模型があり、ホール部分はくり抜かれて精巧に出来た客席を見ることができます。



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ゲヴァントハウスの模型


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精巧にできた客席内部



客席内に入ってみると、写真や映像で見るよりもずっとこぢんまり一体感がありました。舞台
にはところ狭しと椅子や譜面台、楽器が並んでいます。



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ゲヴァントハウスの舞台


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舞台を近くから。





そして、34ユーロという日本では考えられない値段だったチケットはなんと…



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こんな視界の平土間一列目の真ん中。日本公演をこんな席で聴いたら3万円近いでしょう。





前半はヒンデミットの交響詩「画家マティス」。ずっしりと重く、厚い響きに圧倒されつつも、
木管の柔らかさが素晴らしい。非常に真面目な演奏だけれど、だからこそ木管(特にオーボエ)の
温かい音や伸びやかな弦が際立った。





後半はブルックナーの交響曲第4番。分厚い低弦の音が大波のように押し寄せる。弦はチェロの
響きがとても綺麗に揃っていて心地よく、ヴァイオリンも情熱的なコンサートマスターに
引っ張られ鳴りが素晴らしい。そして脳天をぶち抜かれるようなピンとした緊張感のある金管。
いくぶん早めのテンポという印象だったけれどしっかりと重量級のオーケストラを引っ張る推進力
が素晴らしい。





終演後はロビーでブロムシュテットのサイン会。発売になったばかりの同じブルックナーの
交響曲第5番を持っている人が多かった。この日の4番も録音されていていずれ同じように
CD化されるはずとのことだった。



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サイン会をするブロムシュテット







<ゲヴァントハウス管弦楽団特別演奏会>


ヒンデミット:交響詩「画家マティス」
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調「ロマンティック」



管弦楽:ゲヴァントハウス管弦楽団


指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット





2010年10月8日 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス

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前回の記事に書いたように10月9日は旧東ドイツの体制を崩壊に導いた大規模な民主化運動の
記念日として、ライプツィヒでは重要な記念日となっています。





当日は市内のあちこちで記念の集会が開かれます。当時7万人と言われる群衆で埋められた
アウグストゥス広場では大きなロウソク集会が開かれ、二台の巨大なスクリーンに当時の映像
が投影されたりしていました。





写真は大きく「89」の文字が掲げられたゲヴァントハウス、中部ドイツ放送のビル、そして
アウグストゥス広場の写真です。広場を挟んで向こうに見えるのは、今年50周年を迎えた
ライプツィヒ歌劇場です。



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大きく「89」の文字が掲げられたゲヴァントハウス



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窓の灯りで「89」の文字を書いた中部ドイツ放送のビル



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集会の準備が進むアウグストゥス広場。広場の向こうはライプツィヒ歌劇場。



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記念集会のポスター。1989年のデモの際に父親に肩車を
されて参加する少女の写真が。聖ニコライ教会にて。
ライプツィヒにいた10月9日という日は、ライプツィヒの市民にとって、ドイツ国民にとって、
それだけではなく世界にとって大きな意味を持つ日でした。





21年前の秋、まだ小学生だったころ、東欧での自由化を求めるデモの映像、ベルリンの壁が
崩壊する映像が連日テレビに映し出されていたのをよく覚えています。あのような光景が
繰り広げられた場所に、今、自分がいるということがとても不思議でした。





1980年代初頭からこの聖ニコライ教会で月曜日に行なわれる「平和の祈り」のあとに民主化を
求めるデモが行なわれていました。小さな規模で行なわれていたこのデモは東欧革命の波の中
次第に大きくなっていました。





1989年10月9日、この直前のゴルバチョフの来訪を受け緊張が高まっていました。この日の
デモはなんと7万人規模。天安門事件のような当局とデモ隊との衝突が起きてしまえばどちらに
とっても大きな痛手でした。当局は国際社会から非難される。一方で民主化を求める人民の側に
すれば、萎縮してしまいデモに参加する人が減り、民主化運動の波は一気に弱くなってしまいます。





このような状況の中、ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターであったクルト・マズア
中心に俳優や神学者など6人の知識人がこの聖ニコライ教会で非暴力を訴えたのでした。これを
受けて大規模なデモは奇跡的に衝突がなく無血に終わったのです。





このデモの成功で民主化運動は一気に加速しました。10月18日には早くもホーネッカー首相が
失脚、11月9日にはついにベルリンの壁が崩壊します。この日の出来事が、ベルリンの壁崩壊
へと結びついたのです。





その原点となった歴史的な場所が、このニコライ教会です。





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ニコライ教会



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ニコライ教会の祭壇



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教会内部
聖トーマス教会には、教会音楽家として活躍し貢献したバッハが眠っています。



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祭壇の下に眠っているバッハの墓標



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遥か高いところにあるステンドグラスには…



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バッハの肖像が。



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教会の外に立つバッハ像

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