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ホークスファンになるきっかけとなった投手ですが、 今、この名前を聞いて「ピンとくる」人は少ないだろうなあ。 「背番号21」といえば、故・杉浦忠氏であり、今で言えば和田毅投手ですが、 おいらにとっては、このリリーフ・エースのイメージが強過ぎるんですよね。 この画像は三塁側から撮影されたものですが、 右手を真上に上げ、1度停止させるという(今なら2段モーションですが) 独特の投球フォームにしびれてました(!?) アンダースローの名投手・山田久志よりも、 「華麗なフォームである」と評する人は多いようです。 まさに「1匹狼」といえるような投手で、野球人生は波乱万丈。 選手生命の危機を2度乗り越えています。 1971年、広島に入団。1974年に最多勝(20勝)と最多奪三振(207個)を獲得。 しかしその年オフに交通事故に遭い、全治3週間の大ケガを負ってしまいます。 翌年はこの事故の後遺症に悩まされますが、夏場から復活し胴上げ投手となります。 1977年に南海ホークスへ移籍。 移籍早々に10勝を挙げ、チーム一の防御率2.51という見事な数字を記録します。 しかし、今度は急性肝炎を発症し、またしても選手生命の危機に直面。 シーズン前半を棒に振りますが、後半鮮やかに復活。 1979、1980年には2年連続で最優秀救援投手を獲得しています。 ホークスはこの時期、野村監督解任後の「一番の低迷期」で、監督はブレイザー。 しかも、パ・リーグの抑え投手は、あの「江夏」全盛の時代。 当時、抑え投手の登板は、9回頭から1イニングという場面ではなく、 「9回無死満塁」や、「9回2死1、3塁」などのとんでもない場面ばかりでした。 そんな中で、最優秀救援投手のタイトルを2度獲得するという快挙を成し遂げています。 (この頃、成績・人気共に弱小だった南海は、人気獲得のためドラフトで「金城信夫」を1位指名し、 「金城コンビ」と、3人の山内姓「山内トリオ」で売り出したかったらしい) しかしこの後、起用法を巡って首脳陣と衝突。 故障や不振でもないのに2軍暮らしを強いられ、いわゆる「飼い殺し」状態になってしまいます。 1985年、読売ジャイアンツに移籍しますが、登板機会に恵まれず同年限りで自由契約。 引退時の通算セーブ数(92セーブ)は当時歴代5位でした。 1986年には韓国球界に挑戦。金基泰の名で、42試合に登板し9勝5セーブの成績を残しました。 翌1987年に移籍。7勝を挙げオールスターにも出場しますが、同年限りで現役を引退。
逆境をバネに這い上がってきた、まさに「不死鳥」と呼べるような投手でした。 |
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2006年06月20日
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