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午後8時半。梨花は留守だった。多分残業でもしてるんだろう。
俺はマンションの玄関前にある植え込みの縁に座り込み
梨花を待つ事にした。
午後10時を過ぎても梨花は帰ってこなかった。
時折、マンションの住人がいぶかしそうな顔つきで俺を見ていく。
シャワーを浴びてすぐに出てきたので髪の毛がボサボサで
まとまりがなく、怪しさにさらに拍車をかけていた。
11時過ぎ。もうそろそろ諦めて帰ろうとした時だった。
不意にマンションの正面に1台の黒いベンツが停まった。
後部座席から流れるように降り立つ男。
神崎涼。
神崎に手を引かれ後に続く梨花。
距離にして10m。
路上から数段上がった玄関前の石畳に立ち尽くす俺。
梨花の視線が神崎から玄関へと緩やかに移り、
そして止まった。
俺の目と梨花の瞳が相対する。
動作と共に表情をも静止させる梨花。
その表情は初夏の温かさが未だに残る周囲の空気を
瞬間的に氷点下まで下げてしまいそうな冷たさを秘めたものだった。
彼女だけではない。
おそらく俺自身、彼女と同様の表情を浮かべているのだろう。
否、それとも怒り、失意、憎しみ、
いずれともとれない無機質な表情を保っているのだろうか?
二人の凍えそうな視線の狭間で神崎は一人不敵な笑みを浮かべている。
「では梨花さん。よいご返事をお待ちしてますよ」
「・・・・・・ええ」
視線を俺から逸らし下を向く梨花。
俺はポケットに手を突っ込み、梨花に背を向けた。
背中に梨花が遠ざかっていく足音が伝わる。
心さえ遠ざかる足音が。
俺はいったいどこへ向かっているのかも分らず。
否、何をしているのかさえも分らなくなっていた。
ただ街灯に映し出される自分の影を見つめながら何かを考えていた。
「土方君」
何者かが俺の肩を叩き、名を呼ぶ。
俺は無意識に立ち止まり後ろを振り返っていた。
「やあ、話は聞いたよ。デビューの話ダメになったんだって?
残念だったね。楽しみにしていたのに」
後ろには先程まで梨花といっしょにいた神崎が
冷ややかな笑みを浮かべ心にもない言葉を口にしていた。
そして彼の背後には目つきの鋭い
運転手兼ボディーガードといった雰囲気の男が立っている。
「何の用ですか? 神崎さん」
「これで君も身の程を知っただろう。
これに懲りてもう人の婚約者の周りをうろつかない事だな。
この薄汚い野良犬が」
神崎は俺に顔を近付け、人を見下したように囁いた。
「どういう意味ですか?」
「君は本当にお馬鹿だね。じゃあ、分り易く説明してあげよう。
梨花さんはもう君のものじゃないって事だ。
それと神崎グループの力をもってすれば
新人歌手のデビューを捻り潰す事くらい造作も無いって事だよ」
「野郎っ!てめえが裏で糸を引いていたのかっ!」
ごりっ!怒りで奥歯が軋んだ。
それと同時に俺は神崎の顔に殴りかかっていた。
その刹那、ボディーガードの左手が伸び、
殴りかかった俺の拳を掴んでいた。
「早合点しちゃ困るな。
できるとは言ったが、やったとは一言も言ってないよ。
君は低脳の上に野蛮なんだね。
すぐに暴力に頼ろうとするなんて。
そんなんじゃ怪我をしても知らないよ」
神崎はそう言い放つと指をパチンッと鳴らした。
神崎の合図を聞くとボディーガードの男は短いモーションで
俺の顔面を正確に殴りつけた。
豪快に後方へ倒れこむ俺。
一瞬、意識が飛ぶ。
「すまないね。私の運転手は少々乱暴でね」
「くそっ、てめえみたいなボンボンに
俺の大切な夢や愛が握りつぶされてたまるかっ!」
俺は路上に倒れたまま神崎を睨みつけた。
「私の前で愛だの夢だの薄っぺらい言葉を口にするな」
神崎はそう叫ぶと俺の腹を二度、三度と蹴った。
「ふんっ。負け犬が」
吐き捨てるように呟くと神崎は俺の顔に唾を吐きかけ立ち去っていった。
「くそったれっ!」
身体中に痛みが伝わり、徐々に薄れていく意識の中で
俺が最後に口にした言葉であった。
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