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今日は日曜日、2月も末。陽射しも強くなり三寒四温・・・もう少しで春です。今年の木曽の冬は昨年同様雪が少なく助かりました。しかし、先に実施されましたプレミアムフライデーに関係なく、私の生活は相変わらずバタバタしています。私が初めての弟子をとって先月3カ月のトライアル期間を無事迎え、2月20日で4か月が立ちました。 |
触れ合い
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バタバタしているうちに師走を迎えてしまいました。季節の移ろいをじっくり味わうなんてほど遠く・・・とにかくせわしい日々を過ごしていました。 |
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私の住んでいる家から山の峰を望むと、いよいよ紅葉が始まったようです。 またも時はたってしまいました・・・ 大きな被害をもたらした台風18号一過の数時間後の10月6日、 最後の紅葉を見に、今では私のホームグランドのようになった山、 木曽駒は将棋の頭(2730メートル)を経て聖職の碑の遭難碑まで登っていきました。 その日はまさに台風一過。その余波もあり、登りの林間地帯はそれなりの風がありましたが、遭難碑のある稜線に出ると誰も居なく実に穏やかで静かでした。この稜線は宝剣岳 駒ケ岳を目の前に悠々としていて、今の私の宝物のようなところであります。 ここで大休憩の昼食を1時間ほどとる。 持ってきたカップヌードルとおにぎり、そして食後のコーヒー。 何と贅沢な時間でしょう。 『たださわやかな風が吹いているだけ。』 ♪♪何にもない 何にもない まったく何にもない 生まれた生まれた何が生まれた 星がひとつ暗い宇宙に生まれた 星には夜があり そして朝が訪れた 何にもない大地に ただ風が吹いてた〜 ♪♪ (はじめ人間ギャートルズ エンディング曲 あしおとのバラードより) 今年6月、『黒部の山賊』の著者であり、 黒部源流域を切り開いた伊藤正一さん(高校の大先輩にもなります)が亡くなりました。 (現在、三俣山荘 雲ノ平山荘 水晶小屋等は、二人の息子さん圭君と次郎君がきりもりしている) 私が4年前、穂高の伊藤正一さんの家を訪ねた際、 『黒部の山賊』の本を持って行き、 そこに「私に一言書き添えて下さい。」 と、ずうずうしくお願いしたことがありました。 すると、にこにこして真剣に筆をとり、 『人はなぜ山に登るのか。それは文明社会があるからだ。』 と、書いてくれました。 とても素敵な人で、私のような者まで大事にしてくれ、 人をこよなく愛するご老人のようでした。 ありがとうございました。 私は、ここ何年か山に登りながら、 その言葉を想い出しながら何時も登っています。 「確かにねぇ〜…」 そして、登りながらまた漱石の言葉も・・・ 『山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。・・・』 う〜ん・・・ 偉大なる先人たちは、今の世を、いや時を経ても変わらない人間の性をよくご存じだったのでしょう。
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今日から7月、早いもので2015年も折り返しを迎えました。日本は梅雨時、九州地方では前線が停滞し、ここ例年のようにゲリラ的な豪雨が襲い、私の住む木曽も、まだ夏とは言え肌寒い日々です。 さて、相変わらずまだ多忙な日々ではありますが、先日茶臼山(標高2656メートル 中央アルプス)という塩尻市で最も高い山に登ろう!という集団登山のお誘いがあったので参加したり、それなりに楽しんではいます。そんな中で、小学校4年生の少女から心が温かになる手紙を頂いたのでご紹介します。 信州の地方新聞に信濃毎日新聞と言う新聞があります。 その新聞社の企画で、毎週土曜日 小学生記者が書いた“こども新聞”なるものが新聞紙面の一面に掲載されています。 この紙面は、その時の木曽の漆器の体験談と取材記事 6月27日つけのものです。 私の家には、その一週間前の土曜日に1998年に開催された長野オリンピックメダルの話を取材しに来るとのことでしたので、子供記者たちと、まずそれぞれ名刺交換をしてから話をしました(子供たちが名刺を持っていることを知っていましたので、私が名刺をさし出すと、子供たちもちょっとビックリしながらのぎこちない名刺交換・・・これはなかなか面白いやりとりでした。ニコリ)。 子供たちの名刺の数々・・・今時の名前ですねぇ〜。 しかし何せ、長野オリンピックの時には生まれてもいない子供たち、どのように話してよいものやらと思いましたが、多くのメダルの試作品等がありましたので、それを見せながら話を進めました。 15分ほど話をしたのち、質問を受け取材は無事終了しました。 ところが、その直後一人の女の子が気分が悪い (手紙にかいてあるように、たちくらみだったようです) というので、 『無理しないで、少し家で休んでいけば?・・・』と、 付き添いのお父さんに言うと、『そうして頂けますか。』とのこと、 そして、少しばかり休んでまた皆に合流し帰って行きました。 すると、後日こんな可愛らしい御礼の手紙が私の手元に届きました。 私も、これまで幾人かの新聞記者とのやりとりをしてきましたが、 こんなお礼の手紙をもらったのは初めてです(今は、お礼もメールですませてしまいがちです)。 ありがとう。 ある意味、子供の方が大人よりきちんと礼儀正しく。 そして、その下に添えられた母親の手紙、 これこそ子供にとって何よりの大きな教えとなるのでありましょう。 では、小さな新聞記者の皆さん 頑張って! 追: このブログを投稿した翌日、こども新聞の編集にあたった女性の方(名刺交換もしていなかった)から、新聞紙面とご丁寧な手紙を頂戴しましたので、書き添えておきます。まだまだ捨てたもんじゃありません。ごめんなさいね。
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ブログの更新がとだえていましたら、本日悲しい訃報がはいってきました。5月5日から5月10日まで鎌倉は吉野邸(著名な歌人であり書家であったの故吉野秀雄さんの邸宅)で、木曽塗り展なる5人展を開催し、ホッと一息を着いていたところでした。 5月11日早朝 2番乗りの鎌倉大仏さま あまりの静けさにびっくり 好い時間でした。 私は5月9日・10日の二日間吉野邸につめ、10日夕刻作品展の搬出 打ち上げも無事終了。 翌11日(昨日)、藤沢市のビジネスホテルから葉山の友人を訪ねる道沿いに大仏さまは鎮座。 車を止め朝一番にお参り、好天のもと静かにお参り出来ました。 先ほど、故人となってしまったT氏の共通の友人から電話があり、 訃報の連絡が回ったのが私たちの作品展が終了した後の、今日12日。 亡くなっていたのは、作品展前日の5月4日。 『きっとT氏のこと、作品展の終了を待って関係者に連絡を回わすように配慮したのではないか・・・』とのことでした。 (作品展には、私を含めT氏と親しかった人が5人のうち3人絡んでいました) ・ ・ ・ 言葉もありません。 亡くなった方は、漆の世界では知る人ぞ知る著名な漆掻き(漆を採集する人)T氏。 30年来のお付き合いさせってもらった尊敬できる兄貴分のような人でした。 今年2月中旬、遅い年賀状を頂き、昨年暮れ胃の手術をしたとのことが書かれていましたので、 3月初旬、埼玉県大宮市までヘルメット組み立ての為にアライ本社まで行ったので、 福島県喜多方市まで足を伸ばしお見舞いに行ってお会いしてきたばかりでした。 その時は、すでに痩せてはいましたが相変わらず溌剌とした声で、 しばし奥さん共々何時ものように冗談を言いながら話こんで帰ってきました。 長くはないと、本人も覚悟していたようですが、 本当に今は寂しいばがりです。 (どうも、T氏と関係のあった友人皆同様のようで、今夜はいろんなメールやら電話がきています。) T氏との想い出は尽きませんが、 20年ほど前、井上靖の著書 “敦煌”の映画について話していた時のことです。 私が、一番印象に残っている言葉は、 『他人が苦しめるのではない、己の心が苦しむのだ。』と言うと、 『僕は違う!天下をとるのはおまえ達ではない! 李元昊の言葉だ。』 それを聞いた時、『さすがだねぇ〜!』と大笑いしました。 結局、T氏はそう言いながらも昨年の年賀状にこう記してありました。 『漆の世界は権力が横行する社会、僕は漆の木を植えることに専念します。』 “天下をとる!”なんてのは、あくまでうそぶいた冗談、 でも、半分はホント!・・・ 私の内にも、確かにそんなおもいがないわけでもない。 Tさんの分まで頑張れるだけ頑張ろう、と今思っています。 そして、日本の漆自体の将来についても再考しなくては、と考えていますよ。 ありがとうございました。 どうぞ、安らかにお眠り下さい。 合掌 *鎌倉での作品展はの様子は、また後日お話したいと思っています。
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