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日産の会長カルロス・ゴーン氏が逮捕されましたが、企業人としての偉大な業績のゆえに神格化されつつあり、強大な権力を保持したがために失脚の轍を踏んだという点では、旧約聖書のモーセに似ていると思います。

ところで、モーセは、ナイル川から拾われ、エジプトのファラオの王子として育てられました。一方、カルロス・ゴーン氏は、ブラジル出身ですが、フランスの大学を出、フランスの工学博士号を有していました。その後、ミシュラン社での業績を評価されて、ルノー社の上席副社長としてスカウトされました。モーセは、イスラエル民族を率いて紅海を渡り、シナイの荒野でイスラエルの指導者として活躍しましたが、ただ1度の失言のために約束の地カナンには入れませんでした。旧約聖書を読むと、モーセが約束の地で神格化されることを嫌った神がモーセの失言を口実として約束の地に入れなかったとも思えます(出エジプト17章1−7節、申命記6章6節、ユダ書9節)。
すなわち、イスラエル民族を約束の地カナンに導くことが最大の使命であったモーセが約束の地に入り神格化されて崇拝の対象にされる危険性を神は感じたと考えられます。神のみが崇拝の対象であることが神の目的でしたから。19世紀の有名なイギリスの政治学者ジョン・アクトンは、”Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.(「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」)と言っていますが、日本社会の「絶対的な権力」が発現しそうになると抑止する力が働くようです。田中角栄にしろ、堀江貴文にしろ、こうした例だと思います。ただし、日本の刑事裁判における第一審有罪率が99.9%であることや捜査当局による長期の勾留が認められる日本の刑事司法に対してフランス人は疑問符を付していますから、カルロス・ゴーン氏が刑事裁判で有罪とされてもフランス人一般は素直に結果を受け入れないと考えます(ベルナール弁護士:You Tube傑作動画選その2:「フランスTVも注目する日本の特捜問題 (MAD) 」)。確かに日本人には日本人の文化や刑事手続制度の運用があると思いますが、日本人の文化、宗教観及び刑事手続制度の運用は世界の中でも極めて異質です。
フランスの刑事司法制度で「逮捕した被疑者を起訴せずに警察署などに留置することのできる時間は、原則として 24 時間で、例外的に治安判事の許可を得て96時間まで留置期間を延長することができます。(https://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/pdfs/dai5gijiroku-1.pdf)。日本の刑事司法制度では、警察は逮捕後48時間以内に被疑者の身柄を送検しなければならず、検察官は警察が逮捕してから72時間以内に裁判官に勾留請求しなければなりません。最初、勾留は10日間まで認められ、必要に応じて、検察官は、更に10日間の勾留延長を裁判官に請求できます(刑事訴訟法205−208条:内乱罪等特殊な場合には更に5日間、25日間まで勾留が認められ得ます)。この制度上の違いもフランス人の判断に影響を与える可能性があります。

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神の弱点

一般的に、キリスト教徒は神が全知全能で誤謬性はなく弱点は全く存在しないと信じています。また、聖書中には神の預言者たちが行った多数の予言が記載されています。そして、キリスト教徒は一般的に神が全知全能で未来のすべてを完全に見通せるという信仰を抱いています。すなわち、信者たちは神が正確に未来を予言し確実にご自分の目的を実現すると信じています。しかし、神が未来をすべて見通せるはずなのに聖書中にはこの創造界を揺るがすような重大な事件が多数記述されています。神はこれらの事件を事前に予見し阻止することができなかったのでしょうか?
 
ゲッセマネの園で群衆がイエスを捕縛しようとやって来た時にペテロが剣で群衆に切りかかると、イエスは、「そのようなことをしたら必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されるか」と言ってペテロを止めます(マタイ26章47〜55節)。すなわち、イエスは、神の予言能力が将来を完全に予知する能力(fortune telling)ではなく目的達成し結果を実現する能力であることを示唆しています。
 
このように解すると他の聖書の記述とも整合します。例えば、聖書中には神が事前に予知して予防的に介入されれば重大な事態が発生しなかったと思われる事例が幾つもあります。
 
例えば、エデンの園で最初の人間アダムとエバの守護天使は後にサタン(悪魔)となった天使でしたが、神は守護天使がアダムとエバを誘惑して神に背かせ、こうして人類に罪が入り悲劇的な結果となったことを予見しませんでした。仮に神が守護天使の異変に気付き事前に何らかの予防措置を取れれば、その後の悲劇はすべて起きなかったと考えられます(創世記第3章、エゼキエル書28章1〜19節)。
 
神は、アベルの供え物を受け入れ、カインの供え物を拒絶し、カインの動機の悪さを叱責した時に、嫉妬したカインがアベルを殺害することを予見して防止措置を採りませんでした。そのために、優秀な遺伝的素質を持つアベルが劣悪な遺伝的素質を持つカインに殺害され、人類の潜在的、遺伝的、倫理的素質は劣悪となり、やがて人類社会は堕落して神は地上に人類を創造したことを後悔される結果となりました。仮にカインによるアベルの殺害が事前に予防されていたら神は堕落した人類社会に失望してノアの大洪水を引き起こす必要がなかった可能性があります(創世記4章1〜17節)。

王二ムロデの下に人々はバベルに集合して住み、天に届くような巨大な塔(バベルの塔)を建て始めると、神は人々の言語を乱されました。言語を乱された人々はそれぞれの言語集団に別れて全地に散って行きました。しかしながら、各言語集団はそれぞれの国家を造り(各言語集団ごとに人種が分化し、国家が造られたものと推定される)、各国家は互いに闘争を始め、地上には残虐行為と流血が絶えなくなります。すなわち、人間の傲慢で野心的な神に対する挑戦はともかく、神が言語を乱した結果、地上には闘争と敵意と流血が満ちることになります。
 
モーセがエジプトのゴシェンの地で奴隷の状態にあったイスラエル民族を率いて出エジプトを行った際に、イスラエル人男子は強靭なカナン人戦士との戦闘を恐れてカナンの地に攻め入りませんでした。結果として、神は、彼らの不信仰を咎め、イスラエル人は約束の地に入れず40年間シナイの荒野を彷徨しました。しかし、エジプトで奴隷状態にあり戦闘訓練を受けたことがないイスラエル人男子が戦闘訓練を受けたカナン人戦士と戦うことを恐れるのは自然であり、神は当然生じるはずのイスラエル人の恐怖を予見しませんでした(奴隷であるイスラエル人の反抗を恐れたエジプト人がイスラエル人に戦闘訓練を許すはずはありませんでした)。同時に、ゴシェンの地で奴隷にしては衣食住が充実していたイスラエル人がシナイの荒野で「40年間マナだけを食べ、水すら不足する」状況に不平不満を抱くことも予見していませんでした(チャールトン・ヘストンがモーセを演ずる「十戒」というハリウッド映画の中では、ゴシェンの地のイスラエル人を過酷な扱いを受ける奴隷として描いていますが、これは同映画がアメリカの黒人奴隷を想定しているからで、エジプト奴隷としてのイスラエル人の処遇はアメリカの黒人奴隷ほど過酷ではなかったと考えられます。考古学上、歴史上の研究から、ローマ奴隷やエジプト奴隷は労働者と同程度の処遇であったと解され、それほど過酷ではなかったと考えられます:フィレモンへの手紙を参照のこと)。
 
思うに、神がご自分の計画に基づいて目的を完全に達成する能力は絶対的のように思われますが、個々の危機を予見し事前に予防するという点での危機管理能力は低いと考えられます。結果として、最終的な目的達成を実現するためにその過程で多くの悲劇を引き起こすことになっています。神は、予見しなかった結果の発生を修正するために強大な力を発揮し大虐殺により目的達成のために結果を修正する事態は聖書中で多々目撃するところです。

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数学者ラプラスは、『確率の解析的理論』1812年において、「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」と主張しました。この理論を題材にしたのが東野圭吾の「ラプラスの魔女」という長編小説です。
 
一方、キリスト教神学やスコラ学は、「全てを知っており、未来も予見している知性」を「神」と呼び、「全知の神」と形容される場合があります。しかしながら、旧約聖書の最初の書である創世記から新約聖書の最後の書である黙示録まですべてを調べると神は必ずしも「全知」ではないということが理解できます。例えば、神は、エデンの園で守護天使であったサタン(天使名ではない)が最初の人間夫婦アダムとエバを巻き込んで反逆するのを予測できませんでしたし、ノアの洪水を引き起こすに際して、「地に人を造ったことを後悔」してノアの洪水で人類社会を一度終焉させており、人類社会の破滅的堕落を予測していませんでした。また、神に命じられたモーセが紅海を分けて奇跡的にエジプトから脱出させたイスラエル人は、不信仰ゆえに荒野で40年間彷徨います。すると、神は「全知」ではなく完全なる将来の予測をしてこなかったということになります。

中には神の予測能力は選択的であると主張する人々もいますが、選択するには選択すべき事実の内容を知らなければ選択できず、神の予測能力は制限的・選択的であるとする主張は「へりくつ」のようにも思えます。実際、神が予測の対象として選択していない事実には人類にとって決定的転換点となった出来事も多く、この主張には合理性があるとは思えません。
 
とはいえ、この点に関し、神の予測の性質が占い師(fortune teller)のように未来に起きる出来事を予め告知することではないことを念頭に置く必要があります。聖書中では、イエスは、神の予言に関して、事前に告知された未来の出来事を確実に実現する結果実現能力に基づくとされています(マタイ265254節)。すなわち、神の予言は、占い師(fortune teller)の予言ように予め決まった未来を事前に告知するという性質のものではなく、事前に告知した未来を計画的かつ確実に実現する能力という意味です。換言すれば、神は因果律を支配してはいても、将来の因果律を完全に予測することはされないということです。聖書全巻を考察すると、神はご自分の目的や計画を実現するために必要な場合には因果律に干渉するが、普段は特に必要がない限り因果の流れに干渉しないということが理解されます。
 
ところで、聖書は、人が神のかたち(image)に造られたと述べています(創世記12728節)。すなわち、神も、天使も、人間も、基本的に同質的な倫理観・価値観を有しているのかもしれません。とすれば、神も、人間と同様に予めすべての事実を知る未来を生きることは退屈であり、生きる価値がないとみなされるかもしれません。
 
それでは、因果律を完全に予測する「ラプラスの悪魔」と神とどちらの方が優れているのでしょうか?ここで「ラプラスの悪魔」がたとえ因果律を完全に予測しても、その因果の流れを支配する能力がなければ、因果の流れを変えることはできないでしょう。例えば、大震災が来ると予測しても、住民を避難させる能力も、大震災を阻止する能力もなければ、悲劇を回避することはできないでしょう。因果律の完全なる予測は因果律の完全なる支配を伴って始めて意味があると言えます。仮に因果の流れをすべて予測し得ても因果の流れを支配できなければ、「全知全能」ではなく「全知無能」ということにもなりかねません。

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警察庁の統計によれば、平成28年度の自殺者数は21897人、その中で経済・生活問題が原因で自殺した人数は3522人です。経済生活問題の自殺者の大部分は借金苦が原因であると推定されます。昔から「借金は返さなければならない」という格言がありますが、現在の借金苦の原因には社会の歪みが大きく関わっているので、一概に借金返済できない人々のみに責任を負わせ、一方的に非難することはできません。はっきりと申し上げれば、家庭を破綻・離散させ、自殺に追い込まれるくらいであれば、借金を踏み倒して借金から逃げた方がましでしょう。一時期よりは下火になりましたが、利息制限法を根拠に弁護士や司法書士に債務帳消し又は過払い金の返還請求をして難を逃れる負債者が増えてきました。ただし、これはキャッシングによる債務又は過払い金に限定されます。ショッピングによる負債には適用されません。
 
ところで、クレジットカードで商品を買い、債務者が分割金を支払えなくなると、まず、クレジット会社は、督促状を送ります。うっかり忘れ、等であれば、即支払えば問題は解決します。ただし、信用審査に厳格なクレジット会社であれば、23日の支払遅延でも34回続けば、クレジットカードを取り消す方向で手続を進める場合もあります。一方、金銭的余裕がなければ、督促状を何回送られても、債務者は返済できない場合もあり得ます。すると、次の段階は、クレジット会社にもよりますが、分割債務の期限の利益を喪失させ、場合によっては、即時に一括請求してくる可能性があります。あるいは、債権回収に手間がかかれば、債務をすべて債権回収会社(サービサー)に債権回収を委託又は譲渡します。そうすれば、クレジット会社は貸借対照表上で損益として決済できます。
 
ちなみに、一般社団法人 全国サービサー協会のウェブページは、「債権回収会社(サービサー)とは、金融機関等から委託を受けまたは譲り受けて、特定金銭債権の管理回収を行う法務大臣の許可を得た民間の債権管理回収専門業者です。わが国では、弁護士法により、弁護士または弁護士法人以外のものがこの業務を行うことは禁じられていましたが、不良債権の処理等を促進するために「債権管理回収業に関する特別措置法(サービサー法)」が施行されて、弁護士法の特例としてこのような民間会社の設立ができるようになりました。」と業務内容を説明しています。
 
この点に関して債権管理回収業に関する特別措置法(平成十年十月十六日法律第百二十六号)11条によれば、債権回収会社(サービサー)が扱える債権回収業務は、「簡易裁判所における訴額が140万円を超えない(裁判所法3311号)」ものに限られます。したがって、債権回収会社(サービサー)は、140万円以上の債権回収に関する訴訟業務を扱うことはできません。ただし、100万円を超える請求額でも支払督促を利用することは可能です(同法1121号)。なお、債務者が債権回収会社(サービサー)の申立による簡易裁判所からの支払督促を受け取ってから2週間以内に異議の申立てをしなければ,裁判所は,債権回収会社(サービサー)の申立てにより,支払督促に仮執行宣言を付さなければならず,債権者はこれに基づいて強制執行の申立てをすることが可能です。しかしながら、債務者が支払督促に対し異議を申し立てると,請求額が140万円以上であれば地方裁判所、140万円を超えない場合には簡易裁判所の民事訴の手続に移行します。
 
さて、支払督促を受け取った時点で素直に支払に応じることも1つの選択肢ですが、異議申立をする場合を考えてみましょう。注意すべき点は、債権回収会社(サービサー)が140万円を超える請求額の支払督促を行い、債務者が異議申立をして地方裁判所レベルの訴訟に移行した場合には、債権回収会社(サービサー)は140万円以上の債権回収に関する訴訟業務を扱うことはできないことから、債権回収会社(サービサー)の代わりに弁護士が当該訴訟を担当する必要が生じるということです(債権管理回収業に関する特別措置法1121号、裁判所法3311号)。また、認定司法書士も、訴額が140万円を超えない簡易裁判所レベルでの訴訟代理人しかできません(司法書士法3条、民事訴訟法541項)。ところで、弁護士に依頼するとなると、着手金及び成功報酬を含む弁護士費用が発生します。これは企業にとってもかなりの負担です。通常は、140万円の請求額の訴訟を弁護士が受任すると、着手金と成功報酬を合計して約35万円以上かかると考えられます。そして、債権回収会社(サービサー)は、元債権者から債権額額面通りで債権を譲り受けることはなく、額面の半額以下による債権譲受も通常ですから、回収額が70万円、弁護士費用が約35万円とすれば、債権執行費用も算入すれば、債権回収会社(サービサー)は到底採算が合わないことが理解できます。ちなみに、60万円以下の訴額の場合に利用され得る少額訴訟に関して、同一簡易裁判所で同一年に少額訴訟を提起できる回数は10回までですから、案件を多数抱える債権回収会社(サービサー)は、安易に少額訴訟を利用するわけにもいきません(第368条第1項、第3項、民事訴訟規則第223条)。したがって、余程高い請求額ならばともかく、140万円超程度の請求額で債務者に異議を申し立てられて粘られると、債権回収会社(サービサー)は厳しい状況に置かれることが想定されます。ですから、債権回収会社(サービサー)は、弁護士に依頼しても弁護士費用等回収費用の点から採算が合わないと判断すれば、債務者が支払督促に異議を申し立てた時点で、債権回収を断念する可能性があります。
 
一方、請求額が140万円を超えない場合はどうでしょうか?この場合には債務者が異議を申し立てても簡易裁判所の訴訟に移行します。しかし、地方裁判所レベルの訴訟に移行させる方法もあります。簡易裁判所レベルの訴訟に移行した場合に、債務者が140万円超の請求額の反訴(民事訴訟法1463項)を提起すれば、訴訟は地方裁判所に移送されて地方裁判所レベルの訴訟に移行するので、債権回収会社(サービサー)は、弁護士に委任しなければ債権回収できないことになります。もっとも、簡易裁判所レベルの裁判は公判1回のみで結審することもあるので、適時に反訴を提起する必要があります。
 
しかしながら、債務者には、反訴の理由が思い当たらないかもしれません。ですが、反訴の理由は、正当性が認められそうなものであれば何でもかまいません。例えば、債権回収の際に頻繁に電話をかけられて家庭が混乱したために精神的苦痛を受け慰謝料を請求するとか、債権回収のための督促の回数が社会的相当性の範囲を超えて多かったために精神的苦痛を受け慰謝料を請求する、債権回収会社(サービサー)の担当者の態度が威圧的だったために精神的にショックを受けて慰謝料を請求する、等々。ちなみに、債務者が本人訴訟を提起すれば、弁護士費用はかかりません。また、債権回収会社(サービサー)が勝訴しても、債権回収会社(サービサー)の負担した弁護士費用はせいぜい10%程度しか認められませんから、弁護士費用の点から採算が合わないと判断すれば、債務者が支払督促に異議を申し立てた時点で、債権回収会社(サービサー)は、債権回収を断念するかもしれません。
 
次に、債務者が粘って控訴して、債権回収会社(サービサー)が地方裁判所又は高等裁判所で勝訴したとしても強制執行には再度大きな負担がかかります。強制執行には、銀行口座預金などに対する金銭執行、不動産執行又は動産執行がありますが、実現するにはそれぞれ障壁があります。例えば、銀行口座預金に対する金銭執行をするためには、銀行及び支店を特定する必要があります(民事執行規則133条2項「債権差押命令の申立てにおける差押債権の特定に関する平成23年9月20日最高裁判所第三小法廷決定」)。もっとも、法務省は、現在、裁判所が銀行に対して特定の銀行に対して口座の存在を照会することを可能とする制度の創設を検討しています。しかしながら、現時点では、債権回収会社(サービサー)は、銀行及び支店を特定しなければ、実務上、預金に対する金銭執行はできないこととなっています。不動産執行も手数料が高額に及ぶので、債権額が小さければ、採算が合いません。また、動産執行は、差押禁止物件(民事執行法131条)があり、競売に付すと価格がかなり安くなるので、債権回収の可能性は低くなります。さらに、考慮すべき点は、強制執行を弁護士に依頼すると、回収債権額が140万円程度の場合でも、着手金及び成功報酬を含めた弁護士費用は、3040万円程度になります。すると、債務者が強制執行まで粘った場合に、140万円の債権を70万円で譲り受けた債権回収会社(サービサー)は、140万円の債権を回収するために70万円以上の弁護士費用と時間と労力を強いられることになり、当初からこのような事態が想定されれば、債権回収会社(サービサー)は、債権回収に二の足を踏まざるを得ないことになります。
 
ちなみに、個人間の債権の消滅時効は10年です(民法167条)が、貸金業者やクレジット会社の扱う商事債権の時効は5年です(商法522条)。ですから、5年間粘れば、時効中断事由がない限り、クレジット債務は時効消滅します。ただし、時効完成後に時効完成した債権を承認してしまうと信義則上時効の援用権を喪失してしまいます(最大判昭41.4.20)。そこで、債権回収会社(サービサー)は、時効が完成しても、債務者の時効援用権を喪失させようと敢えて請求してくる可能性もあるということです。ですから、時効完成後に安易に支払延期の申出をしたり、債務承認を示唆するような言動は避ける必要があります。

結論を言えば、過度の借金はしないに越したことはありません。「転ばぬ先の杖」がベストであると考えます。


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キリスト教徒の一般的な考え方は、「神は全知全能であり、無謬性を有するので過ちを犯さない」というものです。したがって、神は、無謬性を有する以上、倫理的ジレンマ(the ethical dilemma)も有し得ないようにも思われます。しかしながら、聖書の創世記から黙示録までの神の決定や判断を研究すると、神にも倫理的ジレンマ(the ethical dilemma)があることが理解できます。特に聖書の中心的テーマの1つである「失楽園から復楽園」に関する神の目的の達成のための決定・判断にはその点を看取できます。
 
ところで、神は、創造の目的を達成するために7日間に渡る創造の日を設定され、漸進的に目的達成のための計画を進めてきました。問題は、創造の第7日目に発生しました。そして、創造の第7日目において、創造の目的達成の責任を負う最高執行責任者であったのは、天使長ミカエルでした。聖書の最初から最後までを整合的に解釈すると、天使長ミカエルは、神が最初に造られた天使であり、神の創造における最高執行責任者であることが理解できます(創世記315節、ルカ65節、ヨハネ11-3節、コロサイ115-17節、黙示録127-9)。
 
そもそも、「失楽園」の端緒は、アダムとエバの禁令違反にあります。アダムとエバが蛇(実際には、サタンとなった天使)に誘惑されて禁断の木の実(善悪の知識の木の実)を食べて、神によりエデンの園(楽園)から追放された聖書の創世記の物語は有名です。創世記第3章では、蛇が人間最初の女エバを禁断の木の実を食べるように誘惑する場面が出てきます(創世記31-6)。ここで蛇がサタン又は悪魔であることには異論もありますが、黙示録129を見れば、龍=へび=悪魔=サタンであることを理解できます。神は、最初の人間夫婦アダムとエバに「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば(食べたその日に)死ぬ」との禁令を与えられました(創世記216-17節)。ところで、下線部の現代英語訳版は、“If you eat any fruit from that tree, you will die before the day is over!”であり、「あなたがその木の実を食べれば、同日中に死ぬでしょう。」となります。すなわち、神は、アダムとエバが禁令を犯して「善悪の知識の実」を食べれば、彼らがその食べた24時間の1日にうちに死ぬと事前に宣言しておられました。
 
一方、エバは、蛇(サタン)に禁断の木の実を食べるように誘惑されると、蛇(サタン)に、“…He told us not to eat fruit from that tree or even to touch it. If wedo, we will die.”「神は、私たちにその木の実(善悪の知識の実)を食べても、触れてさえもならないと言われました。もしそうすれば、私たちは死ぬでしょう。」(創世記323節)と答えます。これに対し、サタンは、“No, you won't!”「いいえ、決して死ぬことはありません。」とエバを誘惑し、「善悪の知識の木」の実を食べさせ、その後、エバは、夫アダムに「善悪の知識の木」の実を与え、彼もこれを食べます。禁令を犯した二人はどうなったのでしょうか?結局、二人は、その日のうちには死にませんでした。エバの死亡年齢は不明ですが、アダムは930歳まで生きました(創世記55節)。後に、イエスは、“…the devil, and everything he says is alie.”「悪魔(サタン)の言うことはすべて嘘です。」(ヨハネ844節)と言われました。しかし、サタンが「アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べても死なない」と言ったことは、少なくとも「その日(24時間の1日)のうちには死なない」という意味では真実となりました。
 
ところで、エデンには象徴的な木が2つありました。1つは「善悪の知識の木」、もう1つは「命の木」です。ここで明らかに「善悪の知識の木」は神の正邪に関する最終的決定権を、「命の木」は人間の生死に関する最終的決定権を象徴的に表していました。勿論、文字通りに、「善悪の知識の木」の実が人間に正邪の判断能力を与え、「命の木」の実が人間を不老不死にする化学的組成を有していたわけではありません。これらは神の排他的権限の象徴でした。すなわち、サタンが神の「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば死ぬ」との禁令に反する「その木の実を食べても死なない」という助言をエバに与えたことは、最初の人間夫婦アダムとエバを誘惑して神の排他的な「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を否定し、同時に人間夫婦を自分の側に引き込んで神の排他的権限に挑戦するように仕向けたと言えます。結果として、アダムとエバは、神の「正邪に関する最終的決定権」を否認し、自ら「正邪に関する決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を支配しようと試みました。ここでサタンが敢えて神の「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」に人類を挑戦させたということは、自ら神の排他的権限を保持し神に代わって絶対的な支配者たらんとする野心の表明でもありました。しかし、神は、サタンを阻止するために2名の「ケルビム”winged creatures」と「回る炎のつるぎ」を配置して「命の木」への道を守らせます(創世記322-24)。すなわち、神は、罪を犯した人間が自由に「命の木の実」を食べ続けて永遠に生きながらえさせないためにサタンも人間も「命の木」に接近できないように阻止する必要がありました。次に、神は、「善悪の知識の木の実」を食べて自ら正邪の基準を確立しようとした人間とサタンの誤りを証明し、自らの正当性を証明する必要がありました。
 
では、なぜアダムとエバは、神の事前の宣言通りに同日中に死ななかったのでしょうか?これには神の他の制度や基準および創造の目的をも考慮する必要があります。まず、神の制度下で禁令を犯し、罪を犯した知的被造物(天使たち)の結末は常に「死」のみだったと考えられます(ローマ623)。したがって、過去において禁令を犯した、または自らの行為に対する正当な理由を示せない天使たちが神の裁きにおいて常に経験してきた現実は、「罪に対する寛大な赦し」ではなく、「罪に対する報いとしての絶対的な死」でした。そこで、アダムとエバの禁令違反に対してサタンを含めた天使たちが予測した神の裁きの選択肢は、2つ、有罪による死か、無罪による生かの2つに1つでした。
 
しかし、神は、予め「善悪の知識の木の実を食べても、それに触れても、同日中に死ぬ」と宣言されていましたから、結局、神が採り得る選択肢は、二人を原則通りに同日中に死に処することのみだったと解されます(“Heaven and earth may disappear. But I promise you not even a period orcomma will ever disappear from the Law. Everything written in it must happen.”「天地が消え去っても聖書に書かれた最も小さな一文字すら成し遂げられないということはあり得ない」の趣旨、マタイ518)、例えば、格言「綸言汗の如し」、エステル書88、「アハシュエロス(おそらく、クセルクセス1世)、『王の命令は取り消せない。』」)。
 
ところで、エゼキエル書281-19によれば、蛇(サタン)は、高位の天使であるケルビムであり、エデンの園でアダムとエバの守護天使であったと考えられます。この記述は、一義的にはツロ(ティルス:レバノン南西部に位置するユネスコ世界遺産に指定された都市遺跡。当時はフェニキア人の都市国家)の王に宛てられた言葉ですが、二義的にはサタンに適用されると伝統的に理解されています。ここでは「あなたはエデンの園にあって・・・」(エゼキエル書2813)、「わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた」(エゼキエル書2814)という表現に注目できます。同部分の日本語訳は重要な点が曖昧であるので標準英語訳を参照することにします。”You were in Eden, Gods garden・・・”「あなたは神の園であるエデンにいた」(エゼキエル書2813)、”You, a winged creature (cherub), are installed as a guardian・・・” 「(神は)・・・ケルビム(羽を持つ生き物)であるあなたは、守護者として任命された」(エゼキエル書2814)。すると、創世記の記述をより良く理解できます。すなわち、サタンは、エデンの園において最初の人間夫婦アダムとエバを守護する天使であったので、常時、人間夫婦アダムとエバの傍らにおり、彼らを最適の位置で観察できたということです。したがって、サタンは人間の性質を最も良く知ることができる立場におり、人間の構造上の弱点を理解した上で、最適時・最好機に人間に対する作戦に着手することができたと考えられます。
 
そこで、サタンが最初に妻であるエバにアプローチしたのは偶然ではなかったと考えられます。人間の男女関係の性質及び弱点を理解した上で最初に女エバにアプローチしたと考えるのが合理的です。すなわち、サタンは、女エバを介して男アダムにアプローチした方が作戦上有効であり、男を落とし易く一層容易に人間男女を神から離反させられると考えました(サタンはアダムのエバに対する慕情を利用した)。恐らくサタンに惑わされた妻エバと運命をともにして神の裁きを受ける覚悟で夫アダムはエバの与えた「善悪の知識の木の実」を食べたと考えられます。後に、パウロは、この点に関し、「・・・アダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した」(テモテ第一の手紙214)と注釈しています(実際、サタンは、アダムとエバが別々にいる時にまずエバにアプローチし、決してアダムには直接話しかけませんでした。これはアダムに警戒させないためだったと考えられます。)

守護天使が反逆し、アダムとエバを惑わし、神から離反させようとしたのだから、二人の違反は不可抗力だったのではないかと主張する人々もいるかもしれません(仮にサタンがエデンの守護天使でなければ、他の守護天使がアダムとエバを守護しており、サタンがこの守護天使を排除してエバにアプローチして誘惑することは不可能だったことでしょう)。しかし、神が両者を問い質し弁明を求めた時に、両者は正当な弁明をできず、有罪意識から良心の呵責を感じていることを態度で明らかにしていましたから(創世記36-13節:裸を恥じて神から隠れるという行動は両者の良心の呵責を示唆しています)、両者が自ら有罪の意識を持っている以上(ローマ2章14-16節)、神にも両者を無罪とする理由はありませんでした。また、パウロも言及しているように(テモテ第一の手紙214)、アダムはすべてを理解した上で自分の違反の道を選んだのですから、言い訳にはならなかったと思われます。
 
とはいえ、アダムとエバが処罰されて死ねば、両者を誘惑したサタンも処罰されてすべてが決着するから、サタンにはどのような作戦上の成算があったのかという疑問も生じ得ます。創世記では、創造の日は6日間で第7日目は安息日となっています(創世記1章・2)。人間は、創造の第6日目に造られました(創世記127-31)。そして、神は、「そのすべての作業を終わって第7日に」休まれました創世記22-3)。創世記の記述が前後しているので、時系列的に誤解されやすい点ですが、創世記215-25の出来事は、創造の第6日目に起きたことです。というのは、創世記17節は、人間男女の創造を創造の第6日目としていますが、創世記215-25節の出来事は女の創造までに起きたことを記述しているから、女の創造が第6日目である以上、創世記215-25節の出来事は第6日と考えるのが合理的だからです。そこで、サタンの女に対するアプローチは、創造の第7日(安息日)の事件ということになります。
 
なぜサタンは創造の第6日目ではなく第7日目の安息日を作戦実施日に選んだのでしょうか?これを理解するには、まず創世記に描かれている一日が24時間の一日ではないことを理解する必要があります。実際、聖書中では1000年以上の長い期間を「日」と呼んでいる場合があります(ペテロ第二の手紙38節)。創造の1日間に起きている出来事の量を考慮すれば、24時間の一日間に起こり得ないことは明白です。例えば、創世記215-25節の出来事は、創造の第6日の最終部分で起きましたが、これらのすべてが24時間の1日のうちに起き得ないことは明白です。また、イエスは、自らを「安息日の主」と呼び、一世紀当時も未だ安息日(創造の第7日)中であったことを示唆しています(マルコ228節、ルカ65)。ちなみに、創世記が言及する「創造の日」7日間は、地球上の「一定の時間的区分」であり、天の「時間的区分」ではありません。ですから、地球上の安息日であっても天を安息日として拘束する訳ではありません。
古代イスラエルでは、安息日にはいかなる労働も禁止されていました(出エジプト208-11)。また、この掟は極めて厳格で安息日に労働する者は死刑に処せられました(出エジプト3114-15)。これは神の安息日に対する厳格な規律を示しています。ちなみに、パリサイ人が、安息日に病人を奇跡的に癒していたイエスに対して言いがかりを得ようと、「安息日に病気を癒すことは許されているか」と質問した時に、イエスは、「安息日に1匹の羊が穴に落ちているのに、これを助け出さない者がいるか。・・・安息日に良いことをするのは許されているのです。」(マタイ129-14節)と答えられました。これは、イエスがいかなる労働も禁止される安息日に人類を救済する活動を行うことが可能かという疑問に対して婉曲に答えたものです。
とはいえ、ここでイエスが「安息日に良いことをするのは許されている」と言われたからといって、「安息日に良い活動であればすべてが無制限に許容される」という意味に解することはできません。本来、神の支配する創造界では、「良いこと」しか許されないのは当然であり、「安息日に良い活動であればすべてが無制限に許容される」という意味に解すれば事実上無制限に活動を許容するのと同じ意味になってしまうからです。イエスが、「穴に落ちた羊を助けること」を例に挙げていることからすれば、緊急事態のみ対応可能であると解するのが合理的です。すなわち、もし安息日が明けるまで待てば、穴に落ちた羊は死んでしまう可能性が高いことから、たとえ安息日でも対応せざるを得ないことでしょう。ですから、イエスは決して神の安息日に対する厳格な規律を否定したのではありません。仮に安息日に人類を救済できないとすると人類は短期間の内に死に絶えてしまうかもしれません。
ところで、アダムとエバが罪を犯した時に未だ彼らには子供がいませんでした。もし仮にアダムとエバが罪に対する裁きを受け死んでしまえば、彼らの子孫は残らず、彼らから人類社会を形成するという神の目的は達成できません(創造の6日間に行われた神のすべての創造の業は、神の様に創造された人間がいなければ無意味に終わったことでしょう)。中には、「アダムとエバが裁かれて死んでも、神は新しい人間夫婦を造り彼らから人類社会を形成できるではないか」と安易に考える人々がいます。しかしながら、アダムとエバが罪を犯したのは創造の第7日「安息日」であり、新しい夫婦を創造し創造の第6日に行われた創世記215-25節の創造のプロセスを創造の第7日の安息日中に再開することは、既に述べたように、神の「安息日」に関する厳格な規律に反しました。なお、創造の7 日間は,日曜日が終わったら月曜日から再度繰り返される人間社会の1週間のように、安息日が終わったら再度創造の第1日目から繰り返されるのではなく、地球に関する創造の日は7日間が1回循環すれば永遠に再開されないと解するのが合理的です。
 
勿論、アダムとエバに子がいれば、その子から人類社会は存続し得ました。そこで、サタンが反逆計画を「安息日」に入った後にアダムとエバに子が生まれる前に作戦に着手することは、神の制度・基準および計画を理解した上で成算を見込んでのことであったと考えられます。すなわち、アダムとエバの間に子がいない以上、彼らを裁いて死に処して人類社会を断絶し、地球創造の目的を達成できないで終わらせるわけにはいかず、同時に「安息日」に創造の第6日目までに完了すべき創造のプロセスを再開できない神の厳格な「安息日」の規律を熟知した上で、サタンは自らの神に対する反逆計画を実行に移したと推定できます。実際、神は、当初、サタンを含む全天使が予想した第1の選択肢(アダムとエバを即日死に処すること)、第2の選択肢(アダムとエバを赦免すること)のいずれの選択肢も採れませんでした。すなわち、子のないアダムとエバを即日死に処せば、地球に関する神の創造の目的は中途で挫折し、一方、神の宣言と原則を破って二人を赦免すれば、知的被造物に対する神の規律を保てず、いずれの選択肢を採った場合にも神の絶対性は否定され、神は、自らを絶対支配者として維持することが困難になったことでしょう。結局、アダムとエバは、神が事前に宣言した通り、即日死なず、アダムは930歳まで生き、生きながらえて子孫を残し、彼らの子孫は人類社会を形成しました。思うに、サタンが反逆の野心の芽を創造の第1日に育んでいたとしても、実行に移すには創造の第7日目「安息日」に入った後、アダムとエバに子が生まれる前まで待つことが不可避であったことでしょう。
 
サタンの意図は、もう一つありました。アダムとエバが子孫を残す前に禁止された木の実を食べさせて二人を死なせれば、地球創造目的は達成されずに、地球創造目的の最高執行責任者である天使長ミカエルが失敗に対する責任を追及されることになることです。そうすれば、サタンは、天使長ミカエルを天使の最高位から失脚させ、最悪の場合には、天使長ミカエルを滅ぼすことが可能だったかもしれません。勿論、天使長ミカエルを罠にかけたサタンも無問責ということはあり得ないように思われます。では、サタンの動機と目的は何だったのでしょうか?
 
神は、最も信頼できる天使の1人として、サタンを最初の創造(Genesis)の最重要部分である最初の人間夫婦の守護天使に任命したと考えられます。しかし、それはサタンにとっては決して栄典ではなかったかもしれないということです。おそらく天でミカエル、ガブリエルに次ぐケルビム、第三位の天使であったサタンにとって、この微小な惑星・地球上でエデンの園の最初の人間夫婦を守護するという役割への配置は降格にも思えたかもしれないということです(エゼキエル書283節、12-17節、「あなたは、知恵に満ち、美の極みであった・・・あなたの心はその美しさのゆえに傲慢になった」という記述)。これは、例えば、明智光秀の能力を高く買った織田信長が、光秀の現領地である坂本を没収し未だ敵領地である石見等を新領地としたことが光秀に不信を抱かせ、光秀に信長に代わり天下を取る気にさせ、本能寺の変の端緒になったのに類似しています(これは日本の歴史ではありますが・・・)。おそらくサタンは、守護天使として人間を近くで観察して人間が天使たちよりも下等な生命体であることに気付いたと考えられます。例えば、ヘブライ27節によれば、人間は「天使たちよりも少し低い」と表現しています。また、ヨブ記12章では、サタンは、ヨブを含めた全人類を見下して人類の価値・倫理性を低く評価しています(もっとも、神も創世記3章19節で「汝塵なれば塵にかえるべきである」と人間の存在価値を低く評価しています。これは、サタンが人間を利用して反逆に着手したこととも関連性があると思われます。すなわち、天使よりも格が低い下等な知的生命体である人間の守護天使に任命されたことが高位の天使であったサタンの誇りを傷つけたために、天使長ミカエルを罠にかけて神の創造の目的を挫折させ、神に報復しようと考えたのがサタンが反逆した端緒だったのかもしれません。
 
しかし、神は、天使もサタンも予測しなかった第3の選択肢を採りました。それは、自らの独り子・知的被造物の長子である天使長ミカエルを人間キリスト・イエスとして誕生させ、彼の死によりアダムの罪を贖わせることです(創世記315節、ヨハネ11-3節、ローマ323-25節、マタイ2028節、黙示録127-9)。キリスト教徒の信仰の中心となったのは、このキリストの贖いに対する信仰であり、キリストの贖いに対する信仰が唯一の救いの道であると信じられています(マタイ2028節、テモテ第一の手紙256節、コロサイ114)。すなわち、アダムとエバに子孫を残すことを許して人類の存続を図り、キリストの贖いを通して両者の罪を贖うという措置です。ここで、キリストの贖いとは、完全な人間としてのイエスが死によって自分の完全な子孫すべてを失い、代償としてアダムとエバの子孫である人類を救済するというものです。これは人類に対する神の憐れみの表明であり、そのおかげで現在人類は存在するとキリスト教徒は信じています。全人類の存続を図るために神が介入された場合としては、アダムとエバの場合に加えて、ノアの洪水の場合があります。ノアの洪水の場合にも、神は、ノアとその家族計8名(4夫婦、男女各4名)を箱舟にのせて生き残らせ、人類の存続を図りました。ちなみに、生き残った人類が4夫婦8名ということは偶然ではありません。4と8という数字は、聖書上では特別の意味を有しています。例えば、ケルビム4名、セラピム4名、合計8名が存在すること、等。それゆえ、ノアの洪水を生き残る者は、最初から不特定数ではなく、ノアの家族8名と決まっていました。「地に人を造ったことを後悔した」(創世記5章6-7節)神は、当初からノアの家族のみを救う意志であり、他の人類に生存の機会を与える意志はありませんでした。
 
ところで、憐れみはキリストの贖いを前提として成り立っていますから、キリストが贖いとして死ななければ、贖いは成立しないことになります。ですから、アダムとエバが子孫を残し人類の存続を図ることも、ノアの洪水をノアとその家族計8名が箱舟にのって生き残ったことも、将来にキリストが死によって贖いを備えることに成功することを前提条件としています。したがって、キリストが将来贖いのために死ななければ、神の憐れみはすべて過去に遡って無効になることになります。例えば、「ダヴィンチ・コード」という映画があります。これは、著名な壁画「最後の晩餐」でダ・ヴィンチは聖書では生涯を独身で終えたはずのイエス・キリストが、じつはマリア・マグダレネと呼ばれる女性と結婚をしており、磔にされたとき、彼女はキリストの子供を身ごもっていたという説に基づきます。しかし、キリストの死による全人類の贖いを前提に成り立つキリスト教にとって、イエスの子孫の存在は、キリスト教の存在意義そのものの否定になります。壁画「最後の晩餐」の中では、使徒の1人が刃物でマリア・マグダレネと思われる女性を脅してイエスに近づかせないようにしています。すなわち、レオナルド・ダヴィンチは、キリストの死による贖いがイエスの女性との結婚によって子孫が残されていれば無効になることを知っていたものと推測されます。ちなみに、当時、イスラエルの律法下では、婚外子をもうければ、石打ちによる死刑でした。勿論、キリスト教の教えでも、婚外子を設けることは罪です。イエスが使命を忘れて婚外子をもうけることは考えられません
 
ところで、アダムとエバが人類存続のために子孫を残したことも、ノアの洪水をノアとその家族計8名が箱舟にのって生き残ったことも、逆説的に考えれば、それらがなければ神の創造の目的は中途で挫折して達成されなかったので、これらの事象は神の創造の目的達成にとって不可欠の事象とも言い得ます。すなわち、これらは、人間に対しては神による憐れみでも、神の側から見れば、創造の目的達成のための不可欠の事象でもあります。「ノアがいなければ、人類は絶滅したが、神の地球創造の目的も達成されなかった」等々。したがって、人間による神の憐れみの享受は、神の目的と整合する場合にのみ認められることになります。
 
もう少し論を進めると、神の創造の目的の最高執行責任者である天使長ミカエル(イエス・キリスト)は、アダムとエバが子孫を残さずに死に、又は洪水時にノアがいなければ、地球創造の目的が途中で挫折し最終的に達成されず、地球創造の目的が達成されないことに対する責任を追及されることになります。それは天使長ミカエル(イエス・キリスト)にとっては滅びを意味するかもしれません。このように神がアダムとエバに人類存続のために子孫を残させたことも、ノアの洪水でノアとその家族計8名を箱舟にのせて生き残らせたことも、その背後には、天使長ミカエル(イエス・キリスト)を地球創造の目的の不達成による責任追及から免れさせる意図があったとも考えられます。ただし、この第3の選択肢は、人類および天使を含む神の被造物に想像を絶する苦難の歴史を背負わせることになります。それは、人類の歴史を見れば明らかであり、天使の多数が神から離反してサタンの側に加担したことからも明らかです(黙示録1234節、「星の3分の1」、星は天使を意味すると解される)。
 
このことは、トロイア戦争での王アガメムノンとイフゲニアを連想させます。トロイの王子バリスに王妃ヘレナを奪われた王アガメムノンは、トロイとの戦争にギリシャ兵を動員することを死地に赴くギリシャ兵に受け入れさせるために、娘イフゲニアを生贄として祭壇で女神アルテミスに捧げ犠牲にします。これは、被造物の長子である天使長ミカエルを人間キリスト・イエスとして贖いの犠牲にしたのに類似しています。単にアダムの罪を贖うことだけではなく、被造物の長子・天使長ミカエルを犠牲にすることにより全被造物に苦難を甘受させる効果もあったと考えられます。すなわち、天使長ミカエルさえ贖いの犠牲になったのであれば、全天使は納得して受け入れざるを得なかったからです。また、サタンの罠にかかった天使長ミカエルが神の目的達成のために極刑さえも甘んじて受け入れれば、天使長ミカエルはサタンの挑戦に回答し、サタンを滅ぼす理由にもなったはずです。
 
思うに、キリストが贖いの犠牲として極刑に処せられて死ぬということは、たとえそれが神の意志であったとしても、完全な人間の感性にとっては、不自然な要求だったはずです。けだし、「あいつ(最初の人間)が悪いことしたから、あなた(天使長ミカエル:イエス・キリスト)が代わりに罪を背負って死ね」という要求は完全な知的生命体の感性にとって自然であるとは思えません。また、完全な人間イエスの感性にとっては、女性といっしょになり子孫を産み家族を設けることこそ自然だったはずです。事実、イエスは、ゲッセマネの園で暴徒に捕縛される際にも(マタイ2637-39節、42)、ゴルゴダの丘で極刑に処されるときにも(マタイ2746)、苦悩を示しています。これは、天使長である自分が罪人として処刑される運命をイエスの感性が受け入れ難かったという葛藤に原因があると思われます。
 
イエス、さても、天使長ミカエル(イエス・キリスト)は、死に至るまでの神に対する忠節の結果として不滅性を付与され、彼には裁きによる滅びの可能性すらありません(ローマ69節、テモテ第一の手紙 615-16)。すなわち、聖書は、目的達成を確実視し、キリスト教徒の信仰も目的達成が確実である点に置かれていますが、仮に天使長ミカエルが地球創造の目的の達成が不可能又は不十分と判断される状況に直面して失敗の責任を追及されても、不滅の天使である天使長ミカエル(イエス・キリスト)は裁きにより滅びないことになります。もっとも、キリストの死が無償の愛ではなく生存のための打算的な動機に基づくものであったら、すべての問題を決着する効果はなかったかもしれません(マタイ41-11)。イエスがゲッセマネの園で暴徒に捕縛される際(マタイ2637-39節、42)及びゴルゴダの丘で極刑に処される際(マタイ2746)に示された苦悩は、イエスが打算的に死を受け入れたのではないことを証明しています。
 

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