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「奥州であれば蒙古兵を供養することもあり得たのかもしれない」 少々“勢い”でそういう私見を述べてしまいましたが、思うところがいくつかあります。 一つは、そもそも奥州人は鎌倉に対していいイメージを持ち合わせていなかっただろうということです。 たしかに、当時奥州を支配していた武士達は、少なくともあくまで支配者層に限っては既に従来からの奥州武士ではなく、進駐してきてそのまま土着した鎌倉武士がほとんどだったことでしょう。しかし、そう考える際に気をつけなければならないのは、以前にも触れたとおり、おそらく奥州に土着した鎌倉武士のほとんどはアウトローであっただろうということです。その精神性においては、自分達を見下しかねない本家筋がいる土地よりも、よっぽど奥州の辺境的土壌のほうに愛着を覚えていたのかもしれません。 近いうちにあらためて触れる話になりますが、後醍醐天皇が足利尊氏、つまりは武家政権そのものと対峙した際、奥州武士の主力はほとんど後醍醐天皇側に味方しております。それはやはり“幕府嫌い”の心理が根底にあったからではないでしょうか。 南朝勢力の拠点となった福島県の「霊山(りょうぜん)」 ひとつ思い当たることを申しあげておくならば、今でこそコメの本場のような奥州(東北地方)ですが、それは後世の血のにじむような努力やコメそのものの品種改良の結果であり、本来温暖な気候に適したコメづくりは、寒冷地である奥州には適していなかったのです。当時の奥州はむしろ金や馬の産地である利点を生かして交易で潤っていたのです――ちなみに楠木正成も商業系武士と言われております――。 もしかすると奥州武士が感じる恩恵は、「一所懸命」の言葉に代表される坂東――農業系――武士が感じる恩恵とは異なっていたのかもしれません。 それにしても、はっきり言えば後醍醐天皇のやろうとしていたことは確かに滅茶苦茶であったとも思います。個人的感情としては足利氏に明らかな正義があったと思います。それは後醍醐天皇に寄せられた味方からの諫言の数々を見ていてもわかります。逆に言えば、それだけ不満があるにも関わらず尚も味方につくというのは、もちろん我国における天皇という存在の大きさもさることながら、例えば新田義貞のように、単に“意地でも足利の味方に付くものか”的な理屈抜きの悪く言えばいわば稚拙な感情というものも、私達が人間である以上決して侮れない行動原理であるということでしょう。恨みは買いたくないものです。 そういう歴史を考えると、奥州武士たちは果たしてどんな本音で元寇を眺めていたのかが気になってまいります。案外幕府が蒙古につぶされることを期待していたのではないでしょうか。 余滴として書きとめておきますが、元寇の際最も最前線で戦ったとされる“松浦水軍”は、当地に流された「安倍宗任(むねとう)」の末裔という説もあります。遠い九州での出来事ではありますが、例えば奥州藤原氏の全盛を築いた三代「秀衡(ひでひら)」の母親は、何を隠そうその安倍宗任の娘でもあります。奥州武士にとって北九州は意外に近い存在でもあったことでしょう。もしかしたら蒙古兵の供養を展開したのは、実際に直接元軍と戦った松浦党と深く関係がある人物だったのでは、とも想像しております。
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蒙古襲来と鎌倉終焉
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神戸人でありながら楠木のことを知らないためにこれから勉強しないとなあと思っていたところでした。今のタイミングで、しかも行ってみたい東北地方に絡めて書いて下さるのは興味深いです。ありがとうございます。
2009/2/14(土) 午後 10:40 [ - ]
神戸には六甲アイランド建設中に行ったことがあります。通過しただけなら6年前姫路城に向かう途中電車から眺めました。おしゃれな街ですよね。神戸(福原)に関係する歴史上の偉人といえば、私の中では平清盛か、勝海舟か、という感じです。
楠木正成も足利尊氏も、どちらも好きな人物です。敵同士ですがお互いを認め合うこの二人の信頼関係は実にドラマチックですね。
2009/2/14(土) 午後 11:14