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はじめに、前回記事へのルゴサさんのコメントで気づかされた件について触れておきます。 元軍は、陸戦においては得意の騎馬戦術で最強無比の強さでありましたが、海を渡る術、及び海で戦う術を持っておりませんでした。ひょっとしたら水泳自体もままならなかったとさえ聞きます。したがって日本を攻める際、高麗や南宋の造船技術と水軍を利用したようです(仮に陸戦でも彼らを最前線においたでしょうが)。つまり、日本が闘った元兵の多数が、高麗や、南宋人で構成されていたというわけですから、当然日本軍が殺傷した兵や台風で壊滅した舟に乗っていた兵らにも多くの南宋人が存在したということになります。となると、南宋の僧である無学祖元が、供養の碑文に筆をしたためたくなる感情というものもわかろうというものです。 ただ、何故それが宮城郡なのか?という謎は相変わらずですが・・・。 さて、源頼朝が武士主導の鎌倉政権を立ち上げて以来、しばらく煮え湯を飲まされてきた朝廷が、鎌倉の斜陽化に野心を高ぶらせ始めたのは自然の成り行きだったでしょう。そしてその思いは後醍醐天皇の代になってついに噴火しました。 後醍醐天皇は度々触れましたが真言立川流(理趣経)の熱心な信者である一方、政治哲学としては宋学、特に朱子学が基本理念としてありました。私にはこれらはある部分で共通しているように思えますが、特にこの朱子学が後醍醐天皇の感情を発火性の強いものにしていたことは間違いないでしょう。幕末の勤皇倒幕志士と同じ哲学といえばわかりやすいかもしれません。 そのような後醍醐天皇の思想をのぞき見る準備として、少し空海の真言密教について触れておきたいと思います。空海についての私の基本的な知識は、かなりの部分で司馬遼太郎さんの『空海の風景(中央公論新社)』から得たものであることを予め申しあげておきます。 空海は密教を究めんがため、なんとか唐に渡ることが叶いました。唐において空海の師匠は「恵果」という僧であったといいます。その恵果の師匠が「不空」という僧だといいます。空海は、実は恵果よりもこの不空のことこそ尊敬しており、自分は不空の生まれ変わりであるとまで公言しておりました。
空海の行動原理には多分に不空の影がちらついており、日本に帰国してからの空海の政治への関与の仕方を見ると、あきらかに不空を意識していたかに見えてきます。空海にとって直接の師である恵果への思いは、ある意味密教を得る単なる手段に過ぎなかったのかもしれず、少なくとも早い段階で自分の方が上であるという認識が芽生えていたようです。 ところで「雑密(ぞうみつ)」と「正密(せいみつ)」という言葉があります。 「雑密」とはある種さまざまな断片的なまじない的要素のことを総じてひとくくりに呼んだ言葉ですが、それに対する体系化された「正密」はおおまかに分けて二通りになります。 ひとつは精神性の原理を説く金剛経系(金剛界)。 もうひとつは物質の原理を説く大日経系(胎臓界)。 もともと本場インドにおいて別々の発展を遂げたもので、各々異質な思想であり、本来、矛盾はしても決して相容れることのない思想同士なのです。 不空は金剛界系統の人であったようで、恵果もそれを受け継いでいたわけですが、恵果はたまたま別口で「玄超」という僧から大日経系の密教も伝授していたのです。史上初の正密両刀使いになったわけです。 しかしその相矛盾する体系を自らの体内に取り込む過程において、恵果は人格が破綻しそうなほどに葛藤しました。そのうちに、あくまで気分としてですが、それらが一体のものであるということを悟ったようです。ただそれでも空海に出会う前の恵果は、例え弟子の中に逸材がいたとしても、あくまで自分の本筋である金剛経系を伝授してきました。大日経系については自らに封印でもしていたのでしょう。 そこに、空海という天才が現れました。空海を目の前にした恵果は「こいつならひょっとして・・・」とでも思ったのか、大日経系の密教も伝授することにしました。そして自分では気分としてしかつかめなかった、それら二つを融合させた思想の“具体的体系化”という極めて困難な作業を空海に期待したようなのです。 結論をいえば空海という天才はそれをやってのけ「真言密教」を確立させたのでした。 |
蒙古襲来と鎌倉終焉
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