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四天王寺における太子信仰の中心「聖霊院」 谷川健一さんの著書『四天王寺の鷹』にある学僧M師の話によれば、 「四天王寺には守屋に仕えた者たちで、守屋の廃死後、四天王寺の奴婢になった連中の末裔が、今なお四天王寺でいろいろな仕事についており、それらの人々は公人(くにん)と呼ばれております。その中の公人長者はとくに四天王寺の大祭の聖霊会には欠かせない役柄です」 ということです。
この話を聞いた谷川さんは、
「歴史は一過性の過去のものと見られている。しかしそれに訂正を迫る途方もなく、長く持続する連続体がここに現れた」と驚きを表現しておりました。 また、M師は金堂を指差し次のような話もされたようです。 「金堂の破風に緑色の欄干が見えます。その傍に、やはり緑色で描いた冂の形をしたものがあるでしょう。あれが鷹の止り木なのです」 前に、宮城県の大高山神社の縁起などから、聖徳太子と鷹や白鳥の関係を触れておきました。その際、この四天王寺には物部守屋が悪禽となって来襲し多大な損害を与えたという伝承と、それを聖徳太子が白い鷹となって追い払ったという伝承にも触れました。その“鷹”の止り木が金堂に表現されているというのです。私は、金堂よりも先に聖霊院を訪れたので、そのうちに夕方4時を過ぎてしまい中心伽藍に入ることが出来ませんでした。おかげで残念ながら金堂のそれを確認することができませんでした。 尚、これら四天王寺の謎については、谷川健一さんが三つの謎として提起されておりましたので、以下にそのまま引用いたします。 ――引用―― 第一は守屋が啄木鳥となって攻め、聖徳太子が白鷹となって防いだという伝承があり、その証拠が今も金堂の破風に冂の形で残っていること、第二に守屋の祠がながくその奴婢の末裔の人々によって祀られていること、第三に守屋の奴婢が公人として現在も四天王寺に暮らしていること、である。 日本書紀の祟峻天皇即位記に、「大連の奴(やっこ)の半と宅を分けて、大寺の奴・田所とす」とあります。つまり、物部守屋の討伐後、守屋の従臣や不動産といったいわば戦利品を、四天王寺の財産として分けた旨が記載されております。四天王寺御手印縁起にはもう少し細かく「子孫従類二百七十三人為寺永奴婢。没官所陵田園拾捌万陸仟捌佰玖拾代、定寺永財畢。・・・」とあるようですので、ここに守屋の末裔の方々がいらっしゃることについては目新しいことでもないのでしょうが、谷川さんが言うとおり、歴史の世界からの連続体として現在の私達の目の前にそれがあること自体に感慨の深さを噛みしめざるを得ません。
ここで、あらためて私の聖徳太子についての仮説を述べておきたいと思います。 まず、聖徳太子が実在したか否かで言えば、私は実在したと思っております。 しかし、聖徳太子は幼くして薨去(こうきょ)、あるいは水子であったような気がしております。したがってその功績と伝わるものは、おそらくは他の何者か、特に蘇我馬子の功績ではなかったかと思っております。それにしても、その場合に気になっていたのは太子16歳像にはどんな意味があるのかということでした。おそらく3歳未満の童子像であれば、それが実際の太子の姿だったとは思うのですが、16歳という少年へと成長した太子にはどんな意味があるのか。一応は物部守屋に戦勝したとされたときの姿であったのだとは思いますが、それが太子の誕生日から数えた実際の年齢であったと考えるのが穏当なのか・・・。ひょっとしたらそもそも“16歳ありき”でその逆算から誕生日を決定されたこともあり得るのかもしれないとも思いました。それは、今回の旅でそう感じ入る部分があったからです。それについては後に述べますが、とにかく、この四天王寺で思ったことは、本当はこの寺を誰が造営したのかということです。 この地――厳密には四天王寺が現在の地に遷される前の場所――には、物部守屋の邸宅があったといいます。この寺が物部守屋の鎮魂の寺であったことは、これまで述べてきたことからもほぼ確実かと思うのですが、物部守屋の御霊を、その臣の末裔をもって代々鎮魂せねばならなかったのは誰でしょうか。少なくともそれが聖徳太子ではないだろうと思っていることは今述べたとおりですが、そうすると単純に蘇我馬子なのでしょうか。 それについては、他の聖徳太子ゆかりの地を巡りながら考えていきたいと思います。 |
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